足利将軍家と京都

逆賊とされた足利将軍と臨済宗が京都にもたらしたもの

時代祭では吉野時代の列の幟や楠正成は見られるものの、足利一族が見られなかった。
が、室町足利時代の遺産は京都に多数残る。
南北朝を含む室町時代(1338〜1573)の235年間は公家文化と武家文化の融合を始めとして、
北山文化、東山文化と呼ばれる現在生活の原型となるものが確立された頃である。
各地の庶民にも、その禅文化の影響を受けた、生活文化の浸透が始まりだした特記すべき時代である。

しかし、天皇を崇拝し公家政治を本分とてきた京都は、武家政治を確立し、天皇公家に迫害を及ぼした足利家、足利幕府を京都の誇りある歴史と認めるわけはいかなかった。
つまり、明治の町衆にとっても、踏絵のようなものであったと言えるのではないか。

鎌倉公方(幕府)滅亡後、後醍醐天皇は鎌倉から京都へ政権を移された。
が、武家政治への奪還を志していた足利尊氏は、「建武政権」から離反し光厳上皇の「院宣(いんぜん/天皇の宣旨や詔勅に相当する院政政治での上皇の私的な文書)」により入洛、後醍醐天皇は比叡山に逃れ、後に奈良吉野に「南朝」を建てた。

一方、尊氏は、光明天皇を即位させ「北朝」を建て、京都室町に政権(幕府)を置いたのである。
後世明治44年(1911)には、この北朝の天皇について現在の皇統譜に繋がるものではないと、削除され、南朝が正統な日本国の天皇とされ、現在まで引き継がれている。

 天皇、公家政治の実質的終焉ともいえる南朝(後醍醐天皇/大覚寺統)と、北朝(光明天皇/持明院統)という二つの朝廷の出現に始まり、荘園公領制の廃止など公家弱体化への圧政、京都での最後の長い戦火「応仁の乱」を経て、信長の安土桃山時代を迎えるまで、足利家の入洛は京都の公家にとって災難であったとしか言えないことにも頷ける。
然しながら、公家政治と武家政治の主導権争いが、皇位継承争いを道具にして行われたこの歴史の中で、庶民の受けた功罪は語り継がれていないが、足利家は京都に何を残していったのだろうか。

 その足跡を追うがごとく、まずは室町第(幕府)が、どこに置かれていたかを追跡してみた。
初代将軍尊氏邸は二条高倉にあり、三条坊門には二代将軍義詮(よしあきら)が住まい、三代将軍義満のときには北小路室町の崇光上皇の仙洞御所跡地に住まいと幕府を造営し、土御門内裏にも近く、その倍ほどの敷地は武家の権勢の証明でもあったようだ。
その場所は「室町御所」「花の御所」と呼ばれるほどの豪勢なもので、天皇の権力に匹敵するものであることを示したと言い継がれている。
その幕府は現在の烏丸今出川北西一帯を指し、足利将軍家邸宅の通称で「同社大学今出川校寒梅館(室町キャンパス)」の辺りに位置すると聞き及ぶ。

室町第は応仁の乱の戦火で焼失するまで将軍邸として使われ、義満は将軍職を息子に譲ってからは「北山第(現鹿苑寺/通称金閣寺)」を築造しそこへ移った。
ここで政権を支配していた義満の死後、北山第は舎利殿である「金閣」のみを残し、臨済宗相国寺派の禅寺として「鹿苑寺」と名づけられた。これに習って8代将軍義政が建立したのが「慈照寺銀閣(通称銀閣寺)」である。

禅宗を信仰していた足利一族は、鎌倉五山に習い京都の寺院から夢窓疎石をして京都五山を制定し、新たな信仰の側面と朝鮮王朝や中国明国との交易を図った。
京都五山と呼ばれる「南禅寺」「天龍寺」「相国寺」「建仁寺」「東福寺」は、今も金閣銀閣と並び観光寺院としても著名な寺院となっている。

南北朝と室町 (歴史ぱびりよん)
http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/japan%20moukuzi.htm
足利家と禅文化を訪ねて (京都観光)
http://www.kyotokanko.co.jp/ashikaga/
同志社大学今出川キャンパス・キャンパスマップ
http://www.doshisha.ac.jp/access/ima_campus.html
相国寺・金閣・銀閣 
http://www.shokoku-ji.or.jp/
天龍寺 (臨西禅・黄檗禅公式サイト)
http://www.rinnou.net/cont_03/10tenryu/index.html