秋季一般公開 京都御所の秋 その1

善男善女、國親の実家を詣でる

蛤御門から入った。
秋晴れの下、正面に大の字が仰向けに寝そべっている。
白い雲が流れている。この分だと真っ青になるかもしれない。
目の前を自転車が横切る。この光景も京都御苑のお決まりの風景だ。
築地塀で囲まれた中が京都御所で、古くは内裏と呼ばれた天皇のお住まいであったところだ。

その京都御所は春秋の年二回一般公開される。
今回は父を連れて拝観にやってきた。「そのままでいいから」と言ったが、父は用意していたネクタイを締めた。

拝観入場料もいらなければ、事前予約も、入場許可もいらない。日本国籍を明らかにすることも必要ない。誰であっても、手荷物検査を受けるならフリーパスとなっている。おまけに正装である必要もない。

「お伊勢さんで内宮参拝のとき、ネクタイを締めてなかったことがあってな、神宮の人がネクタイを貸してくれて、これを締めてお参りくださいと言わはってな・・・」
と、父はしきりに話し、悔やんだと言う。
自由主義で個人主義の毎日を送っていても、昭和の戦前の人間には、こういう価値観がしっかりと残っているのだ。見習うところがあるように思えてならなかった。

左手に樹齢参百年といわれる清水谷家の椋(むく)の大木がある。
このあたりが公家の屋敷跡だったことがわかる。
そもそも、現在の京都御所は、延暦13年(794年)に桓武天皇が遷都された平安京の場所ではない。朱雀大路の大内裏の中に内裏があったが、度重なる火災の都度、「里内裏」が貴族の私邸に定められ仮皇居とされ、平安後期には、その里内裏が日常の皇居とされるようになったという。

現在の場所は、土御門東洞院殿と呼ばれた里内裏のあったところで、光厳天皇が元弘元年(1331年)に即位されたときに内裏として定められ、その後も焼失と再建がこの地で繰り返され、明治2年まで御所として使用されていたところである。

築地塀に沿って北上すると、拝観の入り口の目印となる白いテントが張られている。
ここが宜秋門(ぎしゅうもん)の前である。
参観者は,宜秋門から入場し,内裏の参観順路に沿って進み、宜秋門の北にある清所門(せいしょもんから)退出することになる。

参観順路のここかしこには、皇宮警察や宮内庁職員による厳重な警備が為され、不審な行動が取れないよう見張りされているばかりか、数箇所にビデオカメラが設置されている。
京都御所はただならぬ建造物であることが、その物々しさで誰の目にも分かると言うものだ。因みに、現在の建造物のほとんどは安政2年(1331年)に再建されたものである。

宜秋門を潜ると、最初に見えるのが「御車寄(おくるまよせ)」である。
御車寄は昇殿を許された者が参内(さんだい)する玄関で、諸大夫の間、清涼殿、小御所などと廊下で繋がっている。
その御車寄の上がり口には衝立が立てられ、公開ごとに披露される衝立は置換えられている。

今回は、・・・金箔の空間に月と雁が描かれた「月に雁」で、長沢蘆州(ながさわろしゅう/1767〜1847年)とある。
蘆州といえば、円山応挙(1733〜1795年)の高弟で奇想の絵師と名高い長沢蘆雪(1786〜1787年)の養子となり、蘆雪に学んだ人物花鳥の障壁画に秀作が多い絵師である。
他で観た圧巻の構図や表情豊かな筆致とは打って変わった、重厚に落ち着いた画であった。江戸末期の作品であろうが、色落ちも少なく保存状態のいいものである。

見惚れて立ちすくんでいては順路が進まないと、諸大夫の間の襖絵へと歩いた。
「桜の間」「鶴の間」「虎の間」と名がつき、三部屋の襖絵が描き別けられている。
公開の度に鑑賞する見慣れた図であるが、季節の陽射しの所為なのか、戸板の開けかたの所為なのか、訪れる時間の違いなのか、毎回の見え方が違うように感じる。

三室は参内する者の身分によって、通される待合の間が変わるという。
「大夫」というのは律令制度における官位五位以上の呼称で、貴族でいう最下位にあたるが、大名の地位にあっても官位のないものは、この部屋にも通されないのである。

かじり覚えた説明を父にしながら、朱の回廊へと向かう。
南北の回廊と並行に右側には白いテントが並び、記念品や土産物屋が並ぶ。
左手前の「新御車寄」の先に月華門が見え、回廊内の様子が見え隠れしてくる。
大正天皇以降の天皇皇后両陛下の玄関として新設された御車寄に、舞楽台が設けられ「五節舞姫」の人形二体が飾られていた。

舞姫は十二単衣を着て、五度袖を翻して舞い、その舞は天武天皇の時代から宮中儀式として受け継がれてきた舞で、吉野宮に天女が現れて舞ったとの伝説に由来するという。
そして、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す新嘗祭の宴席で舞われたものであると。

「天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」
百人一首12番で僧正遍昭(そうじょうへんじょう/816〜890年)が詠ったこの歌は、五節舞の情景を描写したものだったのである。

平安王朝の空気に浸りながら、朱の回廊に沿い、西から南側へ回り「建礼門」で立ち止まることになる。京都御所の正門で、現在は外国首相などの国賓来訪や天皇が臨幸されるときにしか開かない門である。

築地塀に続く建礼門に並行して、北側の回廊に「承明門」の扁額があがっている。
切妻屋根瓦葺の朱色の十二脚門の間からは、白砂の南庭と「紫宸殿(ししんでん)」が覗える。紫宸殿前の左右に樹木が一本づつ植わっていた。遠くて判別はつかないが、向かって左が橘で右が桜であろう。

承明門は天皇行幸や上皇即位後の出入りに用いられる正面の門で、小生らは、回廊東側の「日華門」からの出入りとなる。

回廊の東に出ると、前方築地塀に「建春門」が見え、日華門手前の回廊に沿って大きな生花が飾られている。
門跡三寺院に縁の華道三流派の献花である。「御寺泉涌寺 月輪未生流」「大覚寺 嵯峨御流」「仁名寺 御室流」の花々は、いずれも競うかのようにユニークで、公開の度の三流派の生花の妙が楽しみのひとつとなっている。
それぞれに表現された秋を感じて頂けるのではないだろうか。

日華門を潜った。いよいよ紫宸殿の前に足を踏み入れる。
明治天皇、大正天皇、昭和天皇の即位の礼が執り行われたのは、正しくここなのである。
(続)