続 秀吉が京都に残したもの 聚楽第

栄華と悲劇の記憶が埋もれた京を謎につつむ

半農半兵の農家に生まれた秀吉は、武将となり天下人となっても、自身の中にコンプレックスがあったのであろうか。

織田家に仕えるまでの経緯については不確かで、秀吉の口承伝記にあっても、矛盾が多く不一致な記録が残されていると聞く。最近では日吉丸の幼名でさえ怪しまれている。

姓(苗字)を木下と名乗り、羽柴へと改姓した秀吉は、官位に就くにあたり氏素性の氏が必要となった。自らは平氏と名乗っていた秀吉は、関白に就任するにあたり、前関白であった藤原氏の近衛前久の猶子(ゆうし/一代限りの擬制的養子契約)となり藤原氏となっていたが、さらに、「藤原」から「豊臣」に改めたのである。

秀吉は、正親町天皇(おおぎまちてんのう)より源氏・平氏・藤原氏・橘氏にならぶ第5の氏姓豊臣氏を下賜され、律令制以来の新たな氏の誕生により、身分秩序に出自を得たのである。

血統に持たされた身分秩序(明治5年壬申戸籍編成で氏は廃止)に頼れなかった秀吉は、豊臣氏を名乗ることにより、頂点に立とうとしたのであろう。

その天正13年(1585年)、秀吉は三河国岡崎の家康のもとへ、妹の朝日姫を正室として、生母の大政所仲を人質として送り込み、家康を従わせることに成功した。

翌天正14年、平安京大内裏の跡地であった内野に聚楽第建設の縄うちを始めさせた。聚楽第は天下を統治しようとする秀吉の公権を象徴するものであった。公権である関白は、京都で天皇家と並立しなければ成り立たなかったのである。

天正15年、惣無事令(大名間の領土紛争などに厳しい処分を下す事を宣言)に違反した薩摩藩を討つべく、秀吉自らも出陣し九州を平定し、秀吉は西国を完全に支配した。

同年9月、九州から帰還した秀吉は完成間近の聚楽第に移り、翌16年4月、この聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぎ、内裏へ天皇を迎えに出たのである。

世に名高い「聚楽行幸」である。

そして、天正18年23万の大兵力で小田原攻めにて北条を、更に、東北は伊達、最上らを抑え奥州を平定し、晴れて天下統一が完成された。

それらの地方武家政権を制した天下統一は、征夷大将軍の名ではなく、関白・太政大臣という公家の最高官職も手にして形成されたのである。

つまり、大阪城は武将秀吉の軍事と経済を象徴とする城郭で、聚楽第が関白秀吉の政務の城郭となったことを意味している。

天正15年、聚楽第が完成するかしないかの時期に、大坂城から生母大政所仲と正室北政所ねねを伴って入城し移り住み、聚楽第のまわりには諸大名の屋敷を配し、大名の妻女を住まわせるなど、聚楽第を中心にした都市計画を進めたのである。

秀吉にとって京の都に城をつくり、住まうことが、天下人たる象徴であり、自らにとっての誇りとしての深い意味があったのであろう。

その太閤秀吉の権威の象徴であり、桃山文化の象徴である聚楽第は、今や、頭に思い浮かべるしか術がないのである。

その手がかりは、障壁画に描かれている聚楽第の金箔瓦の天守閣や西本願寺へ移築されたといわれる「国宝飛雲閣」、大徳寺の「国宝唐門」、更には、妙覚寺の表門となっている「聚楽第の裏門」などの遺構だけで、それらを「豊公築所聚楽城之図」に重ねて想像することでしか叶わない。

無性に聚楽第跡にあたるところを歩きたくなった。

文禄4年(1594年)関白秀次の死後、太閤秀吉の手で聚楽第が取り壊されたあとは、聚楽第の堀跡から従来の牛蒡より太い牛蒡が自生し、「聚楽牛蒡」と命名され、その地は畑地となり、「聚楽葡萄」なども栽培された。そこから生まれた京野菜で、現在にも残り有名なのが「堀川ごぼう」であると聞く。

その後、小路が通り、町家が立ち並び、西陣織に関わる家内工業の人たちが住む町並みが形成されたところである。

僅か8年で姿を消した聚楽弟の地に何か残されていないか、まずは、堀川中立売通から歩いてみることにした。

堀川中立売通に架かる橋は中立売橋(現堀川第一橋)と呼ばれ、聚楽第と禁裏を結ぶ幹線道路で交通の要所であったに違いない。

天正16年の後陽成天皇の聚楽第行幸の行列は聚楽第の楼門をめざし中立売橋を渡ったと考えられている。

秀吉や家康など多くの主要な武家達はこの橋を渡り、禁裏へ通っていたはずである。江戸時代には公儀橋となり、明治六年(1873)に西洋式の石橋に架け替えられ、堀川第一橋と名称が改められた。

当時はどれほどの橋であったかは想像さえもつかないが、日本で一番立派な橋が架けられていたことは誰もが想像できる筈である。

堀川第一橋を西へ行くと、南北両脇に武家屋敷が続き、大宮通から西裏門通までが聚楽第址の東西で、「聚楽第址」と刻まれた碑文の石碑が立ち、中立売通大宮の北東角に立つものが聚楽第外郭の東を示している。

その石碑の東面を見ると、「此付近 大内裏及聚楽第東濠跡」の文字がある。

石碑がある大宮通の一条から下長者町間は聚楽第東濠の南北とほぼ一致している。

石碑の向かいの発掘調査では、深さ8.4m、幅40mと推定される聚楽第東濠跡が検出され、大量の金箔瓦が出土したところである。

正親小学校のある裏門通中立売で西濠跡の石碑を確認したあと、裏門通を南に下がり、出水通の南にある南外濠跡に向かった。

出水通を超すと下り坂になり松林寺の山門に行き当たる。

山門の中への石段は下り階段にになっていて、低地に本殿が立ち、更に低くなったところが墓地になっている。

すり鉢状に残るところに墓地と駐車場があるが、明らかに濠跡であることが分かる。

南端に見える石積みは外濠の対岸であったのだろう。現在の落差でさえ背丈以上ある。

東隣にある昌福寺の墓地の北端に無縁仏が積まれ北端の石積みが見えないが、松林寺門前の「聚楽邸遺址 聚楽邸南方濠池跡」の駒札は伝承を証明している。

北端と南端の距離は目測でも約40mはある。この幅の濠が続いていたと思うと、聚楽第のその大きさは想像を絶するものであったに違いない。

出水通を東へ松屋町通に行くと松永稲荷の小さな祠に出合う。その前に「聚楽城鵲橋(かささぎばし)旧跡」の石碑が立っている。この橋は「聚楽第南二ノ丸の堀に架かっていた橋」という伝承があるようだが、近所の人にも知られていない。詳細な記録も見当たらないが、無縁の石碑など立ちはしないだろうから解明を楽しみに待つしかない。

解明を待たなければ成らないものが、この近くにもう一つあった。

大宮通下長者町上る西側にある路地を入ったところに、「梅雨の井」の駒札があがっている。豊臣秀吉が茶の湯の折に愛用した名水として、長年唯一の遺構として知られるところである。

ところが、近年の発掘調査に基づく「聚楽第城郭推測範囲」に「梅雨の井」を照らすと、井戸は本丸南堀の中にあることになるのである。

「梅雨の井」の駒札を信じるか、「聚楽第城郭推測範囲」の図を信じるか。

歴史ロマンと探求の町あるきが続く。