京のお伊勢さん 日向大神宮

筑紫日向と畿内伊勢が交わる歴史の交差点

お伊勢さんに行かないかと知らせを受けた。京のお伊勢さんだという。
てっきり丹後の元伊勢のことかと思った。
丹後の元伊勢を称する神社は、籠神社・皇大神社・竹野神社と三ケ所であるが、市内から出かけるには少々構えてしまう。

ところが、目指すは蹴上(けあげ)の山手だという。
南禅寺で食事をしてから、腹ごなしに歩いても近いとの話である。
行き先の名を尋ねると、「日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)」とのことだった。
参詣したことはないが、三条通を日ノ岡へ向かう坂の左手にあることは知っていた。蹴上浄水場の通りを挟んで向かいあたりである。

「京の伊勢」というフレーズに、流石に小生も反応した。
神嘗祭(かんなめさい)の頃に秋季例大祭があるので、同じならその時に参詣しようと決まった。
10月16日が外宮大祭、翌17日が内宮大祭となっており、外宮先祭は伊勢神宮の習わしと同じである。

そもそも、元伊勢とは、宮中に祀られていた天照大神(アマテラスオオミカミ)が、伊勢国の五十鈴川のほとりに鎮座するまでに、遷宮され立ち寄られたところを指す。

第10代崇神天皇6年(紀元前91年)、倭国の笠縫邑(奈良県桜井市)に遷されたが、その後60年の歳月をかけ、アマテラスを祀る最適なところを求めて二十五回もの遷宮を繰り返し、各地を巡ったという伝説がある。

第11代垂仁天皇26年(紀元前4年)、倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢国五十鈴川上流に辿り着いたとき、「この国に留まりたい」というアマテラスの神託があり、現在地に祠を建てて祀り、磯宮と称したのが皇大神宮の始まりで、伊勢神宮内宮となっているのである。

また、神宮や大神宮など神社につけられる社号は、皇祖(こうそ)や天皇を祭神としてお祀りしている特定の神社に付されている。
但し、伊勢神宮を正しく呼称する場合でいうと、「伊勢」は付けず、単に「神宮」と呼ぶのが習わしであるという。

一方、「神社」は一般の神社に対する社号として広く用いられ、「宮」は天皇や皇族を祀る神社や由緒により古くから呼称され、「大社」はもともと天孫に国譲りを行った大国主命を祀る出雲大社を示す社号として用いられてきた。
現在「大社」は、広く崇敬を集める神社でも使われている。

さて、日向大神宮には伊勢神宮を模した神明造の内宮(上ノ本宮)・外宮(下ノ本宮)の2つの本殿があり、その社号が示すように、内宮に天照大神、多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)・市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)・多岐都比賣命(たぎつひめのみこと)の宗像三女神、外宮に天津彦火瓊々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)・天之御中主神(あめのみなかぬしのみこと)を祀る。

内宮の祭神アマテラスは伊勢神宮の分祀であるが、外宮は伊勢神宮の祭神と異なるのである。
伊勢神宮外宮の祭神豊受姫命は、第21代雄略天皇22年(478年)に、勅願により丹波国から遷座されている。ところが、外宮の祭神を日向大神宮は伊勢神宮と何故同じくしないのかの疑問を抱いた。

日向大神宮の社伝によると、古墳時代の第23代顕宗天皇(けんぞうてんのう/在位485〜487年)の御代に、勅願により筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移して創建されたとあった。

調べてみると、その高千穂宮の配偶神に天津彦火瓊々杵尊が祀られ、天之御中主神は高天原の中央に座する主宰神という意味で、神話にさえ登場しない宇宙の根源の神なのである。

顕宗天皇は、父市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)が雄略天皇により安康天皇3年(456年)に殺され、兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した過去を持っているようだ。(古事記/記紀「播磨国風土記」)

私見ではあるが、その怨念が日向宮を創祀するにあたり、雄略天皇の横暴を意のままに為さざる思いを込めて、天孫降臨の元来の祭神の有りように沿うべく日向宮に創祀したものと考えた。
益々、日向大神宮への興味が高まってくるのである。

社伝は続く、「天智天皇は圭田をご寄進され、鎮座の山を日御山と名づけ給い、清和天皇は、日向宮の勅願を賜い、醍醐天皇は、延喜の制で宮幣社に列し給いました。
建武の戦乱中、新田義貞公は、戦勝を祈願され良馬と太刀一身を奉納。
応仁の乱(1467年)の兵火で社殿並に古記録は焼失しましたが、松坂村の農、松井藤左衛門によって仮宮が造営され、禁中よりの修理料を賜り社殿の再興が行われました。」と。

更に、平安時代の清和天皇、室町時代の後奈良天皇、安土桃山・江戸時代の後陽成天皇などからの御宸筆の勅額を賜わるなど、宝物の寄進や調度品の下付と、その篤い崇敬の記載が続いていた。

いよいよ秋季例大祭の日がやってきた。
その年の新穀を祭神に捧げ、今あることのご神徳に感謝する最も由緒深く、古より先人が守り続けてきた神事なのである。

外宮大祭の日に日向大神宮に初めて参詣することになる。
古より、都人の伊勢神宮への代参として多数の参拝があり、また、京の七口の一つ粟田口であったことから、往来する旅人たちの道中の安全祈願所でもあったところである。

三条通(旧東海道)に面する一の鳥居で一礼し参道を歩き始めた。
疎水にかかる大神宮橋を渡り、日御山の坂道を上る。その細道の勾配がだんだんと険しくなってくる。

鳥居が建つ石段を上ると、大木に囲まれた台地が開け、外宮と、その上段背後に内宮が見える。
そして、周りの神明山に建つ摂社や末社に繋がる脇道の案内がある。
式典のあと、お山を歩き、数ある祠や石碑を追い参拝を済ませた。

その中に、高千穂にあった天の岩戸を目の前に見せるかのような大きな岩があった。
通り抜けられるよう開口部が二箇所あったが、薄暗い洞窟の中には開運招福の天手力男神(あまのたぢからおのかみ)を祭神とする戸隠(とがくし)神社が祀られてあり、洞窟が社となっている。
先に見える燈明を頼りに、背を屈め手探りで洞窟を歩く。
まるで、神話の世界にいるような錯覚を覚える。

翌日の午後2時、内宮大祭である。
この日には古式に則り、御神楽・「人長舞(にんじょうまい)」が奉奏された。

青もみじの枝越しに、天色(あまいろ)の差袴に青藤色の浄衣をつけた神官に、深緋色の衣冠束帯姿の宮司が続き、鉄紺の衣冠束帯の祭員に舞人、白絹の狩衣の神楽人と列をなして、内宮への石段を上ってくる。
烏帽子が木漏れ日を受けて黒光りを放った。

斎場の傍らには、六弦が張られた古めかしい総桐の和琴、金箔に獅子文様が描かれた楽太鼓(がくだいこ)が立ち、台上に横置きされた鞨鼓(かっこ)、青銅の釣り鉦鼓(しょうこ)と並び置かれている。
炭の入った火鉢も笙(しょう)の結露を防ぐため、温めるように置かれていた。

着座の瞬間に緊張の空気が流れた。
神楽人の打ち木の音が響くと更に引き締まる。御神楽が始まった。
和琴が音を重ね、笙、篳篥(ひちりき)、龍笛が追い被さるように続く。

本殿前斎場は異次元の空間と化していくようだ。

舞人が人長舞を舞いだした。
右手には、神鏡の象徴といわれる木製の輪を付けた榊の枝を、うやうやしく持っている。
その装束は葦に千鳥の文様を青摺りにした小忌衣(おみごろも)である。

その舞人は、笙を奏でていた神楽人の長であった。
人長とは神楽人の長のことで、その長の舞と御神楽は、日本神話の「天の岩戸開きの物語」に、その起源を遡るとのことである。

同伴した友人も雅楽を奏ずる神楽人であるが、こう呟いた。
「ここの大祭にはな、楽人の中でも、なんでか長老格ばっかりなんや」と。

日向大神宮は古墳時代の創祀で、山城国で最古の神社であった。
その神体山に立つと、文字に書かれた歴史以上の迫力をもって、深い感動で迫ってくるところである。