京の蛍

京にほたる、御所に舞ってこそ都

夏は、夜がよい。満月の時期はなおさらだ。闇夜もなおよい。ホタルが多く飛びかっているのがよい。一方、ただひとつふたつなどと、かすかに光ながらホタルが飛んでいくのも面白い。雨など降るのも趣がある。

清少納言枕草子初段の訳文の一部である。

清少納言ばかりか、古今、俳句にも短歌にも詠まれ、ホタルには人の心を惹きつけるものがあるようだ。

幼少の頃は、河原に出ればここそこに黄緑の光は飛び交い、それを捕らえて虫かごに入れて持ち帰り、枕元で眺めたものである。

その蛍狩りも、ホタルを追いかけることから、黒い帳に淡い黄緑の光が織り成す、音のない小宇宙を愛でる楽しみへと代わり、歳月を経た。

ところが、愛でる場所は都市化とともに明かりが灯り、水辺は汚れ、ホタルは姿を消してゆき、百貨店の屋上で出会うようになった。

以来、蛍狩りとは無縁になり、忘れ去っていた。

螢の火思ひの丈を 曳きにけり   竹村幸子

数年前に、智積院の「ホタル鑑賞の夕べ」の案内があり、出かけたことがある。

庭園の池に放たれたホタルを、縁で座し鑑賞させて貰った。庭園の池に棲息するホタルを期待していたのだが・・・論外で途方もない注文だったのだろうか。

それでも、室内に設けられたホタルとのふれあいでは、少年時代にタイムスリップし、張られた大きな蚊帳の中で自らがホタルの気分になって、間近で無邪気にホタルと戯れた。

螢獲て少年の指 みどりなり    山口誓子

暗闇の中に幽玄に飛び交うホタルには、もう京都では出遭えないと諦めていたが、あるブロガーの「上賀茂神社境内の明神川で見た」との記事に目が留まった。

すぐさま、「蛍・ホタル・ほたる」と打ち、WEB検索のページを見て回った。

「鴨川沿いの堤で源氏ボタルを見た」「柊野の北にある鴨川公園では源氏、平家の両方を見た」「松ヶ崎疎水の住宅街のところに飛んでたよ」などと、あるではないか。

八瀬の高野川や哲学の道の疎水縁は知られたところであったが、近年にホタルが飛び始めたところの嬉しい記事に出遭えた。

ほんとに綺麗な水に戻ってきているのだろうか。

♪ ホー ホー ホータル こい  こっちの水はあまいぞ ♪

鴨川の水は甘くはないが、巻貝のカワニナが棲むぐらいの水に蘇生回復しているのだろうか。甘い水とはコンクリートや農薬や洗剤に汚染されていない水のことで、淡水性巻貝が生息できる水のことでなる。それを食してホタルの幼虫は成虫になるのである。

因みに源氏ボタルはカワニナ、平家ボタルはカワニナだけでなくモノアラガイやタニシなどを幅広く捕食し、やや富栄養化した環境にも適応するとある。

鴨川の下流でも、ホタルの飛んでいるのを確認したという記事があった。それには新鮮な驚きを覚えた。

人間の意識の持ち方が少し変わったので、様子伺いに、どうやらホタルは帰ってきたようである。

どうせ帰ってきてくれるのなら、終の棲家にしてほしいが、人間様次第だと言われるのがオチだ。

終の棲家とはいえ、ホタルの命は、成虫になって7日から10日の短い一生である。

その短い成虫の間、夜な夜な「冷光」を放ち続けている。

昆虫の発光は、「外敵を脅かすため」と「食べると不味いと警告するため」、そして、「交尾を求める交信のため」の意味があるらしい。その光を放つ点滅のリズムやその際の飛び方などに種ごとの特徴があるという。

京都のホタルは、源氏も平家もラブコールの発光以外ありえないだろう。

雄は運動性に富み、大きく飛び回りながら派手に光を放ち、雌を探し、雌はあまり動かないのが雌雄の違いにある。雌の合図はどんな発光なのだろうか未だ知らない。

雄が急降下するように落ちてくるのは、雌を見つけた時のようだ。

めでたくカップルの誕生である。

恋を得て 螢は草に 沈みけり    鈴木真砂女

ホタルの求愛シーンや子孫繁栄の神聖な行為を眺め、「ホタルの乱舞にメルヘンの世界を楽しむ」とか、「幻想的な光のコミュニケーションを鑑賞する」とか、ホタルにすれば、なんとも邪魔で失敬な話ではないか。

昆虫であるから、鑑賞されるのは憚らないかもしれないが、携帯電話の音や、カメラのストロボ、センサーライト、懐中電灯の明りでは、気が散ってなんとも締まらないことになるでだろう。おそらく、終の棲家はおろか、旅の宿にもならなくなる。

我々が共存共生のルールを知らないと、風流だ、などと浮かれていられないのである。折角戻ってきてくれたからには、一年一度のラブシーンを鑑賞させてもらうだけのマナーは守りたいものである。

「星霜の 落つるが如く 蛍かな」 AlfordJ.Claud

下鴨神社の糺の森財団が再興して1991年から毎年催しいるという「蛍火の茶会」と「糺の森納涼市」が、土曜の夜に開催されていると聞いて出かけることにした。

糺の森を流れる川に蘇ったホタルを楽しんでもらおうと、境内のホタル約600匹を大籠に集め、辺りが暗くなった頃、御手洗川に一斉にが放たれるとのことである。

期待に胸を膨らませ、チップの敷かれた奈良の小川縁を歩いた。せせらぎの音が肌を通して聞こえてくる。まだ姿は見えない。やはり8時を過ぎないと飛び交わないようである。

楼門前に出ると「納涼市」の屋台がある。加茂のみたらし団子や申餅などの和菓子や漬け物、そばに鯖寿司、竹製品に扇子等の名店が出店し実に賑わしい。楼門をくぐると神服殿で神職による雅楽の演奏や十二単衣の舞いが披露されていた。

境内にある橋殿と細殿では、立礼と座礼の茶席が設けられ、螢と笹の入った籠を置き、季節の草花を飾ったしつらえで迎えられている。

午後八時のメインイベントの時間が迫ってきた。御手洗川の井上社の祠の横に陣取った。

大籠が開かれホタルが放たれた。数匹の光線が輪橋(そりばし)の方と、井上社の松の木の方へ、一瞬にして飛翔する。あとは御手洗川に倒された笹の葉の影で、弱々しい光を時折点らせるのである。群舞を見ようとした期待が大きすぎた。

糾の森にて、暗闇の中で幽玄に飛び交い乱舞するホタルに出遭うには、まだ相当の年数が必要なようである。しかし無理からぬ話ではない。絶滅したホタルは10年の歳月を経て神職らの手で棲家が与えられ、糺の森の小川のあちこちに、やっと数匹づつがダンスするようになったのだから。

帰り際に感謝の意を込めて、糺の森財団に志を納め、ホタルの刺繍部分が暗い所でうっすらと光る「ほたるの輝き守」を授かった。小生もこの日限りの品には弱い小市民だったのである。

さて、6月中旬からなら、前出のほかに、宝ヶ池の国際会館のすぐ北にある「椿の道」に、下旬頃なら、貴船にもホタルが飛び交いだす。

群舞などとの期待欲求はしないから、せめても、いつまでもホタルの飛び交うきれいな空気と土地とそして澄んだ水の京都であって貰いたい。

物思へば 沢の蛍も 我身より あくがれ出ずる 魂かとぞみる 和泉式部