織田信長忌

もし、親方様が、、。今畿内は、、。江戸は、、。

毎年6月2日に、明智光秀に襲撃され自刃した織田信長の忌日法要が行われていると聞く。
そこは織田信長公本廟の石碑が建ち、墓所と伝え、上京区寺町通今出川上る鶴山町にある蓮台山総見院阿弥陀寺である。

普段は非公開の本堂が、6月2日の「信長忌」に因んで一般公開される。
信長の墓碑の建つ墓地を何度も訪ねているが、本堂にはあがった事がない。
今年は必ずや忌日法要にでかけ、本堂でお参りしたいと日待ちにしている。

「信長忌」の2日は、例年午前10時から檀家信徒が集まってご詠歌、読経で法要が執り行われ、11時から信長に関する講話と寺宝の説明があり、午前9時から午後1時までの間、堂内は一般参拝が許されている。

聞くところによれば、
「板戸が外された本堂に上ると、中央に丈六(一丈六尺/約4.85メートル)もある大きな阿弥陀如来像が本尊として座り、右に運慶作と伝わる地蔵菩薩像、開山・清玉上人の木像が、左には、厨子に納められた織田信長・信忠父子、信長の庶兄(しょけい/異母兄)・信広の木像が安置されている。

また、本能寺で信長が使ったとされる手槍、後陽成天皇の勅額、鼓、弓掛、鞍掛、本能寺討死者の位牌等の信長の遺品、更に、羽柴秀吉、明智光秀、松永久秀らの書状等も展示されている」、という。

信長の遺品を納め供養するところは他にもある。
時の権力を以って秀吉が定めた菩提寺、墓所である「大徳寺総見院」には「信長公廟」の石碑が建ち、同じく「安土城二の丸跡」にも総見寺の「織田信長公本廟」の石碑が建つ。
また、三男信孝は、四条坊門の本能寺の焼け跡で収集した多くの遺骨や信長の太刀を「本能寺」に納め、「贈正一位織田信長公御廟所」として法要し、妹お市の方は、妙心寺玉鳳院に信長父子の供養塔を建て、百日忌法要を行っていた。

などなど京都に八ヶ所の墓があるが、いずれも遺品を納めるもので、信長の亡骸が葬られた墓所ではない。

さて、信長の遺骸はどこにあるのか。

本能寺が炎上し自刃する時、信長は側近に「死骸を敵に渡すな」と遺言した話は誰もが知るところで、炎上後、明智軍が血眼になって遺骸を探すが、見つけ出すことができなかったという謎は、地下壕から南蛮寺へ逃げ、生存し隠れているのではという仮説まで生まれた。

さて、阿弥陀寺の寺伝によれば、

「明智光秀が謀反を起し本能寺に攻め寄せているという報せを聞いた清玉上人は、塔頭の僧徒二十人余りを引き連れて本能寺に駆けつけました。
すでに本能寺は明智の軍勢により四方を囲まれ、表門からは寺内に入る事は出来なかったので、裏道よりなんとか境内に入りますが、既に堂宇に火が放たれ、信長公は切腹した後ということでした。

見ると、近くの竹林に十人ほどの武士が集まって火を焚いています。
彼らは信長公の家臣達だったので、上人が顛末を聞くと、
『信長公は切腹する時に、絶対に死骸を敵に渡すなと遺言されたのですが、四方を敵に囲まれ、遺体を抱え逃れる事が出来ないので、やむなく火葬にして隠し、我々は皆切腹しようかと思っています』、ということでした。

上人は、『私は信長公とは格別の由縁ある者なので、火葬はもちろん、将来の御追悼をしましょう。』、といって武士達に乞い、
『自刃するよりも、むしろ信長公の為に敵と戦って戦死する方を、公は望まれるでしょ』、と申されました。

主君の火葬や供養を上人に委ねた武士らは、大いに安堵して戦いに参加していきました。
そして、彼らが門前の敵と戦っている間に、上人は火葬した白骨を法衣に包んで、本能寺の僧徒らが逃げるのに紛れ、阿弥陀寺へ帰る事が出来ました。

そうして、持ち帰った信長公の遺骨を深く土中に隠し置きされました。

また、同時に二条城新殿で明智軍と戦って自刃した長男・信忠公も、遺体を敵に渡さないために火中に投じられたと聞いた上人は、何とかして信忠公の遺骸も得ようと苦慮しました。

同日午後二時頃、
明智光秀が七条河原で休憩していると聞いた上人は、陣中見舞いと称して、多くの餅や焼飯を携えて光秀に献上し、『本能寺や二条城における戦死者の中には阿弥陀寺の檀家の者も多いので、彼らの遺体を阿弥陀寺で弔いたい。』、と願い出たところ、その志に感じた光秀から、許可を得ることが出来ました。

そこで、上人は寺の僧を多数引き連れて本能寺と二条城に向かい、信忠公の遺骨や戦死した者達の遺体など120余体を寺へ持ち帰り、暫く時を経て、秘かに信長公をはじめ戦死者の葬儀を行いました。」と、今に伝える。

永禄年間(1558〜70年)織田信長の帰依を得て、近江国より西ノ京蓮台野芝薬師西町に移築された阿弥陀寺は、塔頭十三ヶ寺を構え、現在の東は堀川通、西は智恵光院通、北は寺之内通、南は今出川通南側あたりに及ぶ、八町四方を寺領として与えられていた。
また、正親町天皇も清玉上人に深く帰依し勅願所とし、東大寺大仏殿再建の勧進職までも命じられるほどの寺勢を誇っていた。

信長公亡きあと、遺骨を秀吉に渡さなかった為か、秀吉の都市改造政策により、蓮台野から現在の寺町に移築の命が下った時には八分の一と、寺領は著しく狭められている。

本能寺の変での明智光秀に語ることはない。信長公の扱いに不満を持った腹いせに魔がさしたようなものだ。親方様はまさかの虚を衝かれたのであろう。
親方様の油断癖と支配に対する過信が招いたものである。
人間不信に陥る前に、誰もが肝に銘じなければならないことを教えてくれる。

名だたる武将を打ち破り、時の延暦寺さえも焼き討ちにし、神をも恐れぬ独裁者として名高い織田信長を、欲をいえば、清玉上人が戒め、京にあっての自らの護りを忠告して貰いたかった。

遺骨を拾うのではなく、信長公による天下布武の完成と先見的政策の自らの執行を暫く遣らせてもらいたかったと思う。
あまりにも哀れな末路ではないか。

近く信長公を偲ぶなら、阿弥陀寺に参るのが好ましく思う。

しんみりとばかりしているわけにはいかないとなれば、織田信長公を偲ぶ法要のあとは、本能寺へ向かい「信長まつり」の武者行列イベントを観覧し、時代絵巻に歓声をあげ、信長公の高笑いを思い浮かべてみたい。
         (本能寺本堂改修の為、2012年まで行列などは休止)