お田植祭・伏見稲荷大社

神と人と稲と暦が一体となる瑞穂の国よ、がんばれ

気象庁の「梅雨入り宣言」がいつになろうとも、暦が「入梅」となるのは立春から135日目で、概ね例年6月11日頃である。
その頃は青梅が熟し始め出す頃で、雨季に入る目安となることから「入梅」と言われるようになったとか、湿度が高く黴(かび)が生え易いため「黴雨(ばいう)」と呼ばれ、それが転じて「梅雨」になったとも聞く。
6月は、まさに水無月と呼ぶに相応しく、水に縁のある月なのだ。

水無月の「入梅」の5日前の日が、暦では「芒種(ぼうしゅ)」で、稲や麦など穂が出る穀物の種を蒔き、苗を植えつける頃であったという。
雨の恵みで秋の豊作を得るべく、稲作伝来の時より営々と、毎年毎年田植えが行われていたのである。

幼少の頃は近くで田植えの姿を見ることもあったが、昨今は田んぼを見るにつけても出かけなくてはならないし、田んぼを見つけたからといって田植えが行われているとは限らない。

然しながら毎日来る日も来る日も、何処にいても飽きることなくお米を食している。

一粒足りとて、粗末にしたり、残したりしようものなら、こっぴどく叱られたものだ。「罰があたるえ。」「お百姓さんが、苦労して作ってくれはったんや。ちゃんと食べんと目が潰れるえ」と。

そうして、モノを大切に扱い足ることに感謝する、「もったいない」の心を躾けられた。

弥生時代の水稲から数えても約3000年、縄文時代の地層から発見された陸稲のプラントオパールから数えると約6000年も前から、日本人は稲を栽培し食してきた歴史を持つ。

封建時代では給料は俸禄で扶持米、藩の勢力も領地米の石高で表わされていた。
五穀豊穣が何よりもの国家国民の重要関心ごとであった筈である。

自ずから、信仰される神には五穀豊穣、家内安全、無病息災が祈念の要となる。
商売繁盛や恋愛成就、交通安全などは、転じて現代の祈りとなっているものだ。

兼業農家が増え国家の自給自足も危うい昨今、先進国家をひた走り、生命の糧となる五穀豊穣を、第一次産業を軽んじてきたのではないだろうか。自由貿易という名の下にわが国の食料問題が空洞化していかないかと、つい懸念を抱く。

米を主食とするわが国は、自前で命の源を賄うことの重要さを忘れてはしてまいか。米作りを自らの手で行えるのだろうか。

かろうじて、神事に残る「お田植祭」というものが各地の神社には残されている。
関西で一番、日本で五指に入る初詣客で賑わう伏見稲荷大社にも、「お田植祭」はある。
いや、お田植祭ばかりではない。
4月12日には水口播種祭(みなくちはしゅさい)が行われ、6月10日にお田植祭、10月25日には抜穂祭(ぬいぼさい)が執り行われている。

神のご加護のもとに豊かな稔りを祈願し、自然の恵みに感謝する神事と式典であるが、そこでは斎種(ゆたね・籾)を苗代に蒔き、生育した早苗を田に植え付け、豊かに生育した稲を刈り取る一連の稲作を実際に行うのである。

刈り取られたあと稲束は干され、11月8日神苑斎場においての「お火焚祭」で、大祓詞を奉唱して焚きあげられ、神恩に感謝し万福招来を願い、「抜穂祭」で収穫された初穂は、11月23日「新嘗祭(にいなめさい)」で神殿に供えられ、今年の収穫に感謝するとともに、人々の暮らしの安泰が祈念される。

こうして一年を通じ、五穀豊穣が国と暮しの根幹であるとの基、古来より今も重要神事として祀られている。
このことからも、商売の神様として名高く篤い崇敬者を誇る伏見稲荷大社も、元来、五穀豊穣の神様で、農耕神が原点であることがわかる。

また、稲荷大社の名にある「稲荷」の地名「イナリ」は、「イネナリ」の音が訛ったと考えられ、「稲成」「伊奈利」「稲荷」に転じたものだと言われている。

「山城国風土記」によると、秦伊呂具(はたのいろぐ)が、ある日のこと餅を的にして矢を射たところ、その餅が白鳥に化けて飛び去り、降りたところの山の峰に稲が生じ、その年には五穀大いに稔り国は富み栄えたということから、「伊奈利(イナリ)」という地名になり、深草の秦氏族は、翌和銅4年(711年)2月初午の日、稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神三柱(主祭神/宇迦之御霊大神)を祀ったことに稲荷大社の歴史が始まると伝わる。

主祭神宇迦之御霊大神の名の「宇迦(うか)」は、穀物・食物の意味で、まさに農耕の神であり、生命の源である米など穀物の豊作が、豊かな暮らしの象徴であることから、古くより「お稲荷さん」として広く親しまれ信仰されてきたのである。

お稲荷さんの参道を行くと、門前には神具店や茶店、商店が建ち並ぶ。
稲荷ずしにきつねうどん、稲荷せんべいに伏見人形など、伏見名物が並ぶ中に、つけダレの焦げる香ばしい匂いを漂わせ、「スズメ」がまる焼きされている。
京都の神社仏閣のどこへ行っても見られない光景である。
何故だか、もうお分かりだろう。お狐さんの好物では決してない。
スズメは稲穂を啄ばむ宿敵なのである。お山に飛び交うスズメが捕られ、焼き鳥として売られていた名残だったのである。

祢ざめ家(ねざめや)で昼食を済ませ、豊臣秀吉公寄進と伝わる朱の楼門北の道から神田の方に向かおうと、本殿脇を急いだ。
本殿前拝所の人だかりで神事の最中であることがわかる。奏じられている雅楽が聞こえてきた。平安朝装束の「神楽女」が舞を奉納しているのである。

古札納札所を経て十石橋を渡りお山に入る。左手に道なりに進むと神田がある。
木々が茂り鬱蒼と神秘的な空気が漂う。恵みの雨がその先をもやらせ、薄暗い。
石碑が見えた。明るく開けた先の川傍に青紫の花が見える。
遠くて判別がつき難いが野花菖蒲ではないだろうか。古来より田植えの時季を知らせる花として、田んぼの畦に植えられていた花である。

暫くすると、神官の一団に続いて、汗衫(かざみ)をつけた「神楽女」が続き、茜タスキに菅笠(すげがさ)姿の「早乙女」らが、神田斎場へと列をなし畦道を歩き入場となった。

神田は1畝(せ)半ほどの田んぼが2枚(約300平方m)である。その収穫は米俵2俵半(約150kg)ほどというから、茶碗2000杯分にあたる。それは新嘗祭に供えられた後、稲荷の神々への朝夕の御饌(みけ)として供えられる。

神官は畦道をまわり中央に立ちお祓いを行った。そして、水口に斎串(いぐし)を立て、籾種から育てられた早苗に穀霊を宿し、豊穣を祈願する。
斎場での儀式の内に、神官から早苗が「早乙女」らに手渡され、次々と神田に入っていくのである。早苗を手にした早乙女らは神田に足を入れ一列に並び、神官の田植えの号令を待っている。
斎場で笙(しょう)や篳篥(ひちりき)が鳴り始め、萌黄の「神楽女」が「お田舞(おたまい)」を舞い、「お田植歌」を奏し始めると、一切に植え付けが始まった。

この舞の間中に田植えを終えることになる。神官の合図で「早乙女」らは手を止めた。

古代より、植つけされる苗には強力な穀霊が宿るものとして考えられ、田植えに際して音曲を奏で、歌をうたい踊りや舞を演じるのは、田や早苗に宿る穀物の力を増やすために行われていた。
穀物が豊かに育ち、稲穂が十分に稔る秋を迎えるための厳かな儀式だったのである。

伝統行事として観覧するに止まらず、自らの命の糧を得る術として忘れてはならないと思った。
全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本宮の神田は、樹木に被われた谷間にあった。

米を主食とする日本ならではの伝統的な神事、祭事をぜひ体験されてはいかがか。

伏見稲荷大社
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