続2 魯山人の光と影 / 星岡茶寮の原点

美味求心の生き方こそが芸術作品

不遇の幼少から、書家として認められ、また美食家としての感性は日本の会席料理の形式を根底から覆し、そのスタイルを日本一の文化サロンの場「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」で披露し、その料理人としての名をも欲しいがままにしたのが北大路魯山人である。

大正14年(1925)東京麹町に開いた美食の殿堂「星岡茶寮」のコンセプトの下敷きは、その魯山人が食客として歩んできた過程で学んだ事の集大成であったといえる。

選ばれし人達が、美食と器と調度品が奏でる割烹料理という協奏曲として楽しむ星岡茶寮の原型は、大正10年に開いた「美食倶楽部」にあった。

美食倶楽部は大正8年に中村竹四郎と共同で創業した骨董・古美術商「大雅堂美術店」の2階に設けられた。始めは大雅堂芸術店(後に美術店)」の上客をもてなすために、自らが厨房に立ち料理を出すと口の肥えた上客を唸(うな)らせてしまった、つまるところ会員制として発足させたものである。

福田大観の名で美食倶楽部を発足した翌大正11年、この時より「福田大観」の雅号を改め、「北大路魯山人」と正式に号したのである。魯山人を一躍有名にした星岡茶寮開店より3年前のことである。

そもそも、美食倶楽部の「料理と器の妙」は、魯山人が食客福田大観として長浜・福井・山代・金沢を転々としていた頃、北陸金沢の商家細野家の食客となった時(大正4年)に体験したことが土台にあり、茶人の細野や九谷焼の須田などから習ったことと言って過言でない。
喧嘩別れの多い魯山人ではあったが、特に北陸の人達との縁は深く、暖かく迎え入れてくれたのは福井鯖江の豪商窪田朴了、金沢の高級料亭「山の尾」の大田多吉、山代温泉の旅館「吉野家」の吉野治郎であり、長浜の河路家で食客をしていた頃に出会いがあった。後に魯山人は細野燕台を星岡茶寮の顧問として招いている。
それもそのはずである。

魯山人が食客(しょつかく)として細野家に招かれた時は、書道と篆刻(てんこく)の才を認められてのことであって、陶芸や料理の粋はここで開眼し磨かれたものであった。

細野燕台に連れられ須田菁華窯で九谷焼の絵付けを初めて体験し、陶芸に目覚めたのだ。

その後に、織部焼、瀬戸焼、備前焼と種々の陶磁器の制作に励み、陶芸家として大成していったのである。
料理ごとに器を替え、料理に似合う陶器を自ら作り焼かせていたのは、他ならぬ細野燕台であり、魯山人はそれを見て美食家、陶芸家への道を動機づけられたという。

料理好きだった魯山人は、近江町市場に買出しに出かけ細野家の食卓に京料理を披露していたが、加賀の地の自然の恵みや珍味には目を白黒するばかりだった。大田や吉野が魯山人に手ほどきする食材の話には食い入る様に貪欲であったという。
とりわけコノワタ、コノコ、クチコなどナマコには感嘆したようで、温泉郷の最上部屋五泊の旅館代に相当するコノコ三桶を平らげ、さすがの細野燕台も呆れたという話さえ残っている。

美食の追及に明け暮れていた魯山人の豪放な様子が目に浮かぶ。
まさに「美味求心」の日々を実践していたのである。
それを支えていたのは北陸の風流人であったことは言うまでにも及ばない。

陶芸家としての原点の地となり、美食の調理を教えられた地となる北陸には、書家福田大観の刻字看板が今も残っている。  彼の創作する作品は多岐にわたるが、一体何を作りたかったのだろうか。

丁稚奉公のとき日本画に触発され、その関心は転々としている。そして、そのどれをも極めている。

晩年68歳、パリ「現代日本陶芸展」で、ピカソに激賞され、あるいは翌年、雑誌「独歩」を創刊し、70歳でパナマ船に「桜」と「富士」の大壁画二面の絵を製作するなどの活動は、やはり唯の芸術家とは思えない。
作品づくりの芸術と呼ぶよりは、彼の生き方そのものが芸術だと呼びたい。

彼の人生そのものが、魯山人の芸術であり、芸術作品なのだろう。

魯山人料理の極意 (辻調グループ校)
http://www.tsuji.ac.jp/hp/jpn/kanazawa/6.htm

山代温泉と魯山人
http://www.harara.jp/yukariyado/rosanjin/rosanjin.html

北大路魯山人資料室
http://www5e.biglobe.ne.jp/~modern/index.html