八重桜の園 千本ゑんま堂

春の盛りに大輪を添える

童観音は高さ2mのブロンズの座像で、蓮の花を手に、ふっくらとした優しい顔つきの子供の仏像である。誰もが立ち止まり、その表情に微笑を返し、溢れんばかりの愛に包まれ、心和ませている。

無表情な強面の男がその前で立ち止まった。目尻が下り、顔の筋肉が緩む一瞬がみえた。幼子を持つ父親なのだろうか、自身の幼少の頃でも想い出したのだろうか。
いずれにせよ、その男に物言わぬ童観音のご利益があったことに間違いはない。

関山桜の枝が伸び、薄桃色の八重の花をつけたその枝先が、童観音を囲うように伸びている。ここは千本ゑんま堂の境内である。ゑんま堂に通い始めた頃には童観音はなかった。
花見に明け暮れたある春、枝垂桜もソメイヨシノも桜吹雪と散り、紅しだれの終盤に八重桜を追っかけて巡っているときであった。
その時、普賢象桜を知ったのが縁で、10年もゑんま堂に通い続けている。

その3年後の平成17年4月に童観音は建立された。本尊閻魔大王の表情とは正反対の童観音は、八重桜の咲き誇る庭を一層楽園と化し、実にお似合いである。
それまでは閻魔大王像に小野篁像、紫式部供養塔と、歴史はあれど重たく、どうも叱られそうで、心癒やされるものは八重桜しかなかった。これで新たな寛ぎの一面も開かれるだろうと、脳天気に思っていた。

ところが、ゑんま堂庵主戸田妙昭さんは、童観音建立以来毎朝、子供達の災禍、除難を念じ祈願されていると聞く。
児童虐待、母子餓死事件、携帯電話やメールを使った悪質ないじめ問題などなど、近年の子ども達を取り巻く痛ましい事件に接する度に、時代を憂い、嘆かわしい思いはすれど、小生は為す術もなく呆然とするばかりであったことを恥じた。そして、見様見真似で合掌した。

左に振り向くと、紫式部(978年頃〜1014年頃)の供養塔が天に向かって伸び、周りには八重桜が雲海のように取り巻いている。
高さ6メートルの花崗岩でできている供養塔は、南北朝時代は至徳3年(1386年)に、圓阿上人(えんあしょうにん)の勧進によって建立されたものであるという。塔には「至徳三年」の銘が刻まれているらしい。

供養塔の屋根の数を数えてみると、何度数えても十である。供養塔の屋根の数は知る限り奇数のはずなのだが、珍しい十重石塔は、国の重要文化財となっていた。
おそらく、地蔵信仰と儒教・道教などにある十王思想と関係していそうだ。

何故、ゑんま堂に紫式部の供養塔があるのかという疑問が涌くが、諸説あるも釈然としない。
現世で源氏物語など絵空言を書いて人々を惑わした罪で地獄行きだったところを、本堂創建者の小野篁(802〜853年)が閻魔大王にとり為したからとか、
小野篁と紫式部は縁者であるとか、
圓阿上人は紫式部の子孫で、式部が不殺生、不偸盗(ふちゅうとう)、不邪淫(ふじゃいん)という罪で地獄で苦しんでいるとのお告げを受け、供養塔を建てよと言われる夢をみたからとか、
庶民の口承による実しやかな話ばかりで、歴然と記されているものはなかった。

ただ、この供養塔は紫野雲林院の塔頭白毫院にあったものが移築されたもので、
大徳寺真珠庵に「紫式部産湯の井戸」もあり、式部の供養塔であることは疑いない。
出生地紫野ゆかりの場所から、何故ゑんま堂へ移築されたのか。
式部が篁の信望者だったからという声もあるが、それだけでは弱い。

一方、堀川北大路下る西側(島津製作所の南隣)に、小野篁と紫式部の墓石が並んでいることからすると、式部は小野篁の子孫、縁者と考え、圓阿上人も縁者とするのが自然かもしれない。

ともあれ、紫式部のブロンズ像も建立された。
平成20年源氏物語千年紀に因んで、信者からの寄進により、童観音と同色のブロンズ像であった。高さ約1メートル、十ニ単衣を纏い巻物を垂らして読む立ち姿、ふっくらとした童女の面持ちで首を傾げている。
翌々平成22年、開山堂から供養塔の傍に安置され、境内は更に華やかさを増した。

式部像と供養塔に向かうように、枝を伸ばしているのが普賢像桜である。
透き通るような淡い薄桃色の花を、ふわふわぷくぷくと咲かせ、式部像や童観音のお顔のようにも見えてくる。
いや、ふくよかに優しい風情は、どれもが庵主のお顔のように見えてきた、といえば叱られるだろうか。

後小松天皇(1377〜1433年)から下賜されたと伝わる普賢象桜は、ゑんま堂が発祥の地で、現在の普賢象は16代佐野藤右衛門の寄進の樹であるという。
その隣には、二尊院普賢が花開かせている。続いてトンネルをこさえるように関山が咲き広がり、鐘楼まで続くのである。

桜の見分け方は簡単である。二尊院普賢は花芯の周りが濃い蓮華色になっているので区別がつく。普賢象と関山は近づかないと難しいかもしれない。やはり花芯に注目すると、関山は花弁が重なっていて特に特徴はないが、普賢は花芯から葉のような緑色のニ本のおしべが伸び出していて、よく見ると、象の牙にそっくりなのである。
普賢菩薩の乗る白い象に肖って名づけられていると聞く。

桜の季節には、ゑんま堂にはニ度足を運ぶことにしている。
遅咲きの八重桜なので急くことはないが、御室のお多福桜が落下する頃に、見頃を迎えるゑんま堂へやってくる。そして、数日後にまたやってくる。
満開見頃の桜の園を眺め、落花の桜を眺めるためである。

桜吹雪がみられるわけではない。散るときは椿の如くに、花冠ごとポトリと落ちる。
この桜の散り様が、さながら斬首される囚人の姿に似ているため、中世の所司代は、この花を獄舎の囚人に見せ、仏心を起こさせたと伝わる。

ゑんま堂の門前にある千本通には、平安京の朱雀大路が重なる。そして、平安京北の葬送地である船岡山・蓮台野へと続き、その周囲には千本もの卒塔婆が並んでいたことより千本通と名づけられたという。

普賢象は、往古の朱雀大路頭(すざくおおじがしら)船岡山の刑場の麓に植えられた八重桜であった。

応永15年(1409年)、後小松天皇の薦めでゑんま堂を参詣した将軍足利義満は、境内に咲き誇ったこの桜に、大層感服したという。