京の夏の妖怪 その二

スクリーンでは味わえないゲゲゲの世界を六道まいりに見る

光と闇が交錯している千年の都、京都。
八坂の塔を背に東山通りを西へ、ゆるやかな下り坂を下り始めた。
近くのペンションから出てきた若い女性連れの、高台寺から清水寺に出掛けるという話し声が耳に留まった。炎天下にもかかわらず、元気なはしゃぎ声である。

小生は、直射日光を避け、軒先の陰を探しながら、うつむき加減に西福寺に向かっていた。彼女達はこの辺りの歴史を知って観光しているのだろうか。

その昔、六道の辻より東へ轆轤町(ろくろちょう)の辺り一帯から山麓にかけては、鳥辺(とりべ)と云われ葬送の地であった。亡者を送り、亡者の霊魂に引導を渡す地、いわゆる野辺送りの地で、冥界への入り口にあたるところと考えられていた。
その結界となるところに、西福寺や六道珍皇寺はある。

六道の辻あたりは、おびただしい人骨が出土したため髑髏原と云われていた時代があり、この髑髏(どくろ)が訛って六道(ろくどう)になったという説もある。
「髑髏町」と呼ばれていたのは江戸時代初期までで、轆轤挽職人が多く住むところから、京都所司代の命により「轆轤町」に変更されたとの文献が残っていると聞く。
いずれにしても書けない字で、怪しさのイメージを持つ漢字である。

さて、東山松原を小生が歩いているのは、六道まいりで迎え鐘を撞きに来たのではなかった。目的は、この時期にしか公開されない西福寺の「壇林皇后九想図」と「地獄絵」を見たかったからである。

「壇林皇后九想図」の絵解きは、死人が腐敗し、白骨化して、土に還る様子がリアルに描かれている。
その仔細をじっくりと見た。肉が朽ち果て骨が露わになり、みみずが這い、カラスが啄ばんでいる。
遂には、頭蓋骨だけが残り、そして土に還っていく図である。
その九想をした檀林皇后(786〜850)は嵯峨天皇の皇后で、わが子(正親親王)の病気治癒の祈願に西福寺の地蔵尊に通い続けられたと伝わる。

その横に並んで掛けられている「六道十界図」、「六道絵」の二幅の地獄絵は、幼少の頃の記憶に残る地獄の絵解きである。

閻魔大王に書記官達が上部に描かれ、裁決を下している。裁決の下った者たちを懲らしめているのは鬼達である。赤、青、黒だけではない、黄色が褪せているのか白鬼や明るい茶鬼までいるではないか。
舌を抜かれている者、火あぶりにされている者などなど、凄まじい刑罰が執行されている様子は、下部にかけて横幅いっぱいに描かれている。

百鬼夜行絵巻の有名な作品に、大徳寺真珠庵が所蔵する室町時代の絵師・土佐光信の筆によるものがあり、それが最も古いとされている。その模写は多く、京都の各寺院に残されている。それらは付喪神(つくもがみ)や大入道、一つ目小僧に動物系妖怪、想像力の限りを尽くした様々な妖怪の姿で、妖しいがユーモラスでもある。小生は、鬼、般若の妖怪に最もリアリティを感じ、地獄絵にある地獄の存在を信じ、畏敬していることを否定できないでいる。

平安時代には、聡明な貴族達でさえ、怪異が起こる夜行日を信じ、陰陽師に魔除けの護符を授かり、外出も避けたほどである。
常人では目に見えない妖怪を、それほどまでに恐れていたのである。

地獄絵の真ん中に、「心」という一文字が記されていた。
魔界は人の心に宿る念の世界であることも解いているのである。

さすれば、魔界巡礼に恐れよりも、癒しを求められてはいかがだろうか。
未だに、鬼門に南天が植えられる家が多いのは不思議ではない。
南天は「難」を「転ずる」に掛けられた祈りの伝承であるからだ。

六道まいりと地獄絵
http://blog.livedoor.jp/rockkakudo/archives/51050291.html

百鬼夜行絵巻 (学習院大学)
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/ua/kaiga_00100flash_urban.htm

異界万華鏡 (国立歴史民俗博物館)
http://www.rekihaku.ac.jp/kikaku/index59/index.html

特集 鬼 その由来と伝承 (四国電力)
http://www.akari.ne.jp/yon1/02/to/main.html

長岳寺 極楽地獄図
http://www.chogakuji.or.jp/bunkazai/zigokue/zigokue.html