傍目八目:世の中、見方違えばこう変わる。

京都と君府

明治初期から中期の頃、イスタンブルは日本で君府と呼ばれていた。国交もなかったその時代にトルコと深い関わり合いをもった人として、山田寅次郎(宗偏流八世家元・宗有)氏のほかに京都に縁の深い人がいる。

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大谷 光瑞(おおたに こうずい、1876年(明治9年)12月27日 – 1948年(昭和23年)10月5日)は日本の宗教家。探検家。明治時代から昭和時代までの浄土真宗本願寺派第22世法主。伯爵。諱は光瑞。法名は鏡如上人。院号は信英院。大正天皇の従兄弟にあたる。

私の家は、浄土真宗西本願寺派、所謂「門徒、モノ知らず。」という家系である。この西本願寺に大谷光瑞という、中央アジアに西域文化調査の大谷探検隊で知られる宗主がおられた。この方は当時の日本人としては稀有の国際的感覚の持ち主であったような印象をもっている。上海、イスタンブルそしてロンドンでその人生を送られ、上海には学校を、トルコではオスマントルコ最初の都・ブルサで養蚕業を立ち上げ、日本の外務省には対外通商政策の遅れを指摘されている。ブルサは温泉の湧く、当時はもちろん、現在も絹織物の主産地として国内外から高い評価をうけている町である。

この大谷宗主に生涯、側近として仕えた上村辰巳という人がいた。何でも京都の商家生まれの方らしい。この上村という人物が「秘史」という書物を著している。読むと「ホンマかいな???」という感を拭えないのではあるが、イスタンブルのみならずアンカラにも赴き、世情を調査した結果、ケマルパシャ(後のケマル・アタチュルク)を支援すべきであると大谷に進言、その結果、日本で調達した武器・弾薬をケマルパシャに供与、イギリスに率いられた連合国軍から自国を解放、また革命を決定づけたギリシア軍との戦い(サカリアの戦)の圧勝への縁の下の力持ち的な役割を果たしたというものである。

以前、このブログでも書いたが、の折、串本の漁民が懸命にトルコ人の救出にあたった。この串本とトルコのメルシンという町が姉妹提携をしている。そして串本には大谷が揮毫した慰霊碑が建っている。上村によれば、日本から調達し供与された武器・弾薬はこのメルシンで陸揚げされたという。あながち、フィクションとばかりは言い切れないのでは・・・・・

メルスィン
第1次世界大戦後のトルコ人による祖国解放運動,およびその結果成立したトルコ共和国における一連の改革。ただし,後者のみを指す場合もある。オスマン帝国が第1次大戦に敗北すると,アナトリアはイギリス,フランス,イタリアおよびギリシアの占領下に置かれ,民族的独立を脅かされた。トルコ人は各地にパルチザン運動を組織してこれに対する抵抗を開始。やがてムスタファ・ケマル(のちのケマル・アタチュルク)が,1920年4月23日にアンカラに〈トルコ大国民議会〉政府を樹立してこれらの運動を統合し,連合国の側に回ったオスマン帝国のスルタン・カリフ政府に対して,公然と反乱。

エルトゥールル号エルトゥールル号遭難事件
1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号(Ertuğrul Fırkateyni)が現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し500名以上の犠牲者を出した事件である。この事件は、日本とトルコの友好関係の始まりと考えられている。
現在、和歌山県串本町の樫野崎灯台そばにはエルトゥールル号殉難将士慰霊碑およびトルコ記念館が建つ。また、町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭も5年ごとに行われている。