傍目八目:世の中、見方違えばこう変わる。

小さいキッカケ。だから、私はここにいる・・・

明治時代のエルトゥールル号の遭難以降の日土関係を描いた映画「海難1890」の予告編をFBに投稿しようかなと思っていたところ、今朝、友人が「海の翼」の読後感をFBに投稿していました。この本を読んでみたいという衝動と同時に、私が現在イスタンブルに住んでいる遠因にもなったあることを書いてみようという衝動も覚えた次第です。

1985年3月下旬、私はミラノのドゥオモのほど近くにある定宿、Hotel Ambasciatoriに滞在していました。外出先から戻って、ラウンジのソファでボォーとしていた私に、バーテン「酔っ払いのオズワルド」が話しかけてきました。「戦争が激しくなってイランから多くの外国人が脱出している、日本人はイランにいるのか?」、「???もちろん、いるけど・・・」。翌日、僅かな取引のあった伊藤忠商事ミラノ支店のKさんに電話、私のホテルと彼のオフィスのちょうど中間にあったil Fontanelliで昼食をしながら、前日「酔っ払いのオズワルド」の言っていた「イラン・イラク戦争の状況」を尋ねてみました。「なんでも救援機を飛ばすことにJALの労働組合が首を縦に振らなかったらしい。そこで、うちのイスタンブル支店長のMがトルコのオザル首相とやたら仲良いので頼み込んだところ、トルコ航空を飛ばして200名以上の日本人を救出してくれたらしいよ。」 聞いた私にしてみれば「そんな小説かドラマのようなことが起こり得るの?」といっそう興味津々になったことはお分かりいただけることと思います。

私とトルコ(イスタンブル)との出会いは高校3年生の時でした。映画007シリーズ「ロシアより愛を込めて」ではジェームス・ボンドのハラハラ・ドキドキのアクション同様、舞台になったイスタンブルの街並みも魅力あふれるものでした。ずっと一度は行ってみたいという気持ちもあって、1985年10月パリでの仕事を終えた私は思い立ってイスタンブルに飛ぶことにしました。ホテルは、名前だけは耳にしていたペラ・パラス、なぜ耳にしていたかというと、アガサ・クリスティーが「オリエント急行殺人事件」をこのホテルで執筆していたとか、イタリアのヴィットリオ・エマヌエレが利用していたとかというミーハーな理由によるものにすぎません。今ではすっかり改装され(新築)立派になっていますが、当時は廊下を歩く人の足音が部屋に響いて来たり、壁にクラックが入ったりして期待外れも甚だしい状態であったものの、フローリングの床や「カゴ」と呼ぶに相応しいエレベーターなど往時を偲ばせる雰囲気は残っていました。宿泊代は日本円で1泊7,000円、バブル期の日本から来た私には「ホントに?」と思わせるほど安い料金でした。チェックインと同時に「日本語を話せる大学生を探してほしい。」と依頼しておくと翌朝にエライという名前の若者が9時にホテルにやってきました。「今日一日は観光案内を頼むけれど、私の滞在する4日間の間に<あること>を調べてほしい。」 <あること>とは言うまでもなく日本政府やJALができなかったテヘランの日本人救出をなぜトルコ(航空)がやってくれたのか、できたのか?ということです。その日はエライ君にスルタンアフメット地区を案内してもらいあとの3日間は、自分で街中をブラブラして過ごしました。

パリへの出発の日、ロビーでチャイを飲みながらエライ君に調べてもらったことに耳を傾けました。>>>「フセインが爆撃を開始するといった時、300人近くの日本人がテヘランにいました。日本政府は助けることができない。40名くらいはなんとか欧州系の航空機に乗れたようですが、まだ200名以上の日本人が残っている。JALは組合がNoという、そこでオザル首相はトルコ航空で助けようと決めたらしいですよ。ところが色んな国から救援機が殺到していますからトルコ航空には2機しかイランは運航許可を出さなかった。当然、イランには日本人よりはるかに多いトルコ人がいましたから、ほとんどのトルコ人は陸路、バスとトラックで運ぶことにしたそうです。その時、オザル首相に日本人を助けるように要請してきたのは、伊藤忠のMさんと駐イランのトルコ大使イスメット・ビルセルさんです。」、「よく分らないけど、首相が自国民を後回しにして他の国の人を優先的に救助したら文句や抗議は出てくるよね?トルコの人たちから・・・」、「少しはあったと思いますけど・・・」、「まだ、分らん、なんで?」、「吉本さんは、エルトゥールルのことは知っていますか?」、「いや、聞いたこともない。」、「そうですか、我々は日本の串本というところでトルコの軍艦であるエルトゥールルが嵐で遭難した時に日本人に助けられたこと、そして山田寅二郎という人が日本から義捐金をもってきてくれたことを小さい時、学校で教わります。だから首相にしてもトルコ航空のパイロットにしても、また国民にしても借りを返そうと思ったんだと思いますよ。」

空港へ送ってくれたエライ君が「吉本さん、トルコにはヘレケというところで作られているとっても綺麗な絨毯があります。今度、是非ご覧になってください。」その彼の言葉がキッカケで、その後10年近くヘレケの絨毯やトルコ製の家具を商うことになったのだが、今の様に携帯電話やインターネットが整っていた時代でもなくエライ君とはそれっきりになってしまっている。一方でテヘランの日本人救出の時に感じた「なんでや?」というトルコ(人)に対する興味は薄れることもなく、その後色んなトルコ人に出会い、彼らのいい加減さに腹が立つこともしばしばですが、多くのトルコの人たちが与えてくれるフレンドリー感に包まれて、いまここに住みつくことになってしまっています。

*後日談
<1>(もちろんチームプレーではありましたが)マスコミや政府筋でこの時のパイロットがアリ・オズデミル氏と報道されていました。日本人を救出したパイロットはオルハン・スヨルジュ氏でした。
<2> 1999年にマルマラ地震が発生、日本政府はもとより民間でも1985年にテヘランで社員を救出された会社を中心に救援活動を実施しました。

2015年8月3日 – 9:01 PM