平安時代に確立された葬送のルートには実際に地獄絵の世界が構築されたワンダーランドだった。
魔界ウォークやまいまい京都などで実際にガイドしているコースを少しだけ紹介。
今回は京都の魔界といえばこちら、六道の辻。しかし辻だけではなくて平安京の成り立ちや、周りの様子からも検証していくのが面白いと思う。
これを読みながら松原通りを歩くと、まるで魔界ナビゲーターが実際にガイドしている様です。
さあ、出かけよう!
松原橋(川端松原西側)
松原通りは平安時代の五条通りである。平安時代中期の都の南端がこの松原通りにあたる。。鴨川と堀川に囲まれた間が平安京になったことから、この二本の川が「三途の川」にみたてられ、松原橋から鳥辺野までが葬送のルートであり、現実に地獄絵の世界が構築されたのである。
この橋を境にして、まさに西側はこの世、東側はあの世ということになる。
また、この橋が五条大橋ということになると、牛若丸と弁慶が戦ったのはこの橋ということになるが・・・。
それは平安時代に操作されたものであって、いわばその時代から京都は観光都市であり、テーマパークであった。
いまだに日本一の観光地と認識されているのは、千年前からの取り組みにあるのだ。
本来はこの松原通りこそが清水寺への参道なのでこの細い道筋に店が立ち並んでいるのはそのせいである。
晴明塚(川端松原北東角・東山区宮川筋五丁目))
昭和の初めまで川端松原の東側にあったと聞く。これはもともとは大黒堂にあったものだ。
かの安倍晴明が何人かの陰陽師で鴨川の氾濫をおさえるため、当時は存在した鴨川の中州に寺を建立した。
名を「法城寺」といい、水が去り、土に成るという願いを込めて名づけたそうだ。それが別名「大黒堂」という。
400年ほど前に三条に移築し、法城山晴明堂・・寺という寺号で現在に至る。移築の際に寺町の長仙院にある安倍晴明像や晴明塚が離れ離れになったということだ。
姥ヶ堂(大和大路松原北東角・東山区弓矢町)
大和大路・松原北東角に存在していた。
松原橋から鳥辺野までが葬送のルートであり、現実に地獄絵の世界が構築されたことから、最初の難関。
あの世で三途の川を渡る時、個人によってそれぞれ川の様子が違ってくる。
善人が渡ろうとすれば橋が現れ、その上を渡る。着物は濡れない。並みの人が渡ろうとすれば、川に膝から腰まで浸かり着物は多少濡れる。
悪人が渡ろうとすれば川は濁流になり、流されながらも渡りきる。もちろん着物はびしょ濡れになる。
渡りきった所に「奪衣婆」が居り、着物を脱がせて、木の枝に着物を掛けて、その枝のしなり具合を見て地獄へのルートが振り分けられるシステムだ。
現在この姥ヶ堂の奪衣婆は、六波羅蜜寺の宝物館にあるものだと私は解釈している。
愛宕念仏寺跡(大和大路松原を東へ100M北側)
路地の入口に小さな石碑が建っている。「おたぎねんぶつじ」と読む。現在は路地奥の個人宅に小さなお堂・愛宕観音堂を残すのみである。
愛宕山信仰が盛んで、愛宕鉄道が存在していたころ、昭和の初めに松原警察の敷地を確保するため、現在の清滝トンネル前に移転したと聞く。
ご存じのように、清滝トンネルは現在、京都屈指の心霊スポットであるが、もとは鉄道が通るためのトンネルであったわけだ。
六道の辻(京都市東山区松原通大和大路東入二丁目 轆轤町81)
もとは六堂の辻というように呼ばれていた。六軒のお寺があったという意味だ。姥ヶ堂・念仏寺・西福寺・六波羅蜜寺・閻魔堂・珍皇寺を指しているのだろう。
「辻」というのは、あの世とこの世の別れ道。葬送される人が精神と肉体に切り離され、精神はこの地にあるお寺から六道輪廻によって閻魔大王に裁かれいつの世にかまた生まれ代わることから、お寺が密集してある。みなさんのお住まいの地域にも辻にお寺が存在しているのではないでしょうか?
肉体もまた辻から鳥辺野に運ばれ鳥葬・風葬によって自然のサイクルに溶け込み、やがて残った骨も雨風に打たれて土に還っていく。土に還るとまた、なんらかのカタチで生まれ代わってこれるという思想があったので、そのような葬り方が推奨されたのが見て取れる。
鳥辺野は死体の棄て場所や、ひどいものになると清水の舞台から死体を投げ捨てたなどという話もあるが、そんなものはこのシステムのことを知らない。
ここを訪れるには8月7〜10日をおススメする。なぜならこの期間は「六道まいり」で、普段見れないものが見られるからだ。
西福寺(京都市東山区松原通大和大路東入二丁目 轆轤町81)
壇林皇后祈願所でもある。高貴でも美人でも亡くなれば皆屍と化すもののあわれを教えるために壇林皇后が描かせたといわれる「壇林皇后九相図絵」が六道まいりの時期に地獄絵とともに公開される。お寺に上げていただき、じっくりとこの絵をみられるのもここの良いところだが、礼儀だけはわきまえよう。
幽霊子育て飴(みなとや幽霊子育飴本舗・京都市東山区松原通大和大路東入二丁目轆轤町80-1)
もともとは西陣にあったときくので、五辻あたりだろうか。夜ごと、飴を買いに来る女を不思議に思った店主が後を追うと墓場に消えた。
翌日、そこを訪れると赤ん坊の泣き声が。死人となった母親は乳が出ないので、栄養価の高い飴を買いあたえていたというお話が伝わる。
のちにこの女子は名のある高僧になったと聞く。この話にヒントを得た水木しげる氏が鬼太郎の出生にリスペクト。
閻魔堂(みなとや東側・京都市東山区松原通大和大路東入二丁目 轆轤町80-1)
子育て飴の東にあったと聞く。六道珍皇寺の篁堂に祀られている閻魔大王がもとはここにあったらしい。これも六堂のひとつか。
六波羅蜜寺(六道の辻を南へ100M・東山区松原通り大和大路東入ル2丁目轆轤町)
六波羅蜜は六原とは関係がないとのことだが・・。六原はもともとは髑髏原が訛った地名ということだが、こんなところに髑髏が転がっていたとはあまり思えない。中世の人たちによる創作かと思われる。ここの地名は轆轤町という。明治に髑髏町から改められた。
境内には平清盛塚・宝物殿には清盛像があるが違うとの説も存在する。平家のお寺であるのはいうまでもなく、平家全盛期にはこの地から三十三間堂まで平家の屋敷が立ち並ぶ地域であった。
六道珍皇寺(東山区大和大路通四条下る四丁目小松町595)
小野篁の伝説の地。御所に仕えた神官で変わり者の篁からついたネーミングの寺号か。小野篁についてはさまざまな伝説が継承されている。
特にこちらの本堂庭の右奥には「冥土通いの井戸」があり、夜ごと篁は井戸から地獄に通い、閻魔大王の側近として務めたとある。有名な話である。
近年、「黄泉がえりの井戸」が発見された。伝説では出口の井戸は嵯峨の清凉寺あたりに七つの井戸があったと伝わる。
また、六道参りの時には先祖の霊を地獄から呼び寄せる「迎え鐘」があり、それを突く人の列が絶えない。ここでも地獄絵が公開されるが、地獄絵の絵解きが本来の行事である。道徳・モラルを教えるために用いられたが、現在では絵解きができるのは地獄絵オタクの大学教授しかおられない。
黄泉がえりの井戸(六道珍皇寺の東の路地を北へ、西側)
近年発見された、小野篁が地獄から帰って来たとされる井戸。普段、門は閉められているが隙間から覗くことは可能。
珍皇寺に拝観を願えれば、地獄絵・篁堂・冥土通いの井戸・黄泉がえりの井戸などを拝見できるかも知れない。
さてどうでした?現地へ行けない方は、Googleのストリートビューアーなんか見ながら読むのもいいかも?
ほんとはここだけではなく「魔界」はどこにでも存在するものです。人間が居るならね。