京の人の日々の暮らしや文化をコラムと写真で紹介します。

天国に一番近い寺

魔界ウォークやまいまい京都などで実際にガイドしているコースを少しだけ紹介。
今回は、京都最大の墓地・鳥辺野から清水寺まで。普通の観光とは違ったルートから清水の信仰を紐解きます。
さあ、出かけよう!

大谷本廟 (五条東大路北東角)
巨大な納骨堂は一号線(五条通り)からの姿は圧巻。またその東に広がる谷間は京都一の墓地で、鳥辺野とかつては言われていた葬送の地。
鳥辺野から大谷本廟の南に向かって流れる音羽 川にも注目したい。このルートの意味はこの音羽川の解明でもある。
鳥辺野(大谷本廟と五条坂の間のルートを東へ、墓地の中を通り清水寺を目指す)
古くは平安時代以前、豪族・鳥部氏の領域になる。現在の五条通りは昭和40年代に開通。これより北側は一般庶民の葬送の地「鳥辺野」。
またこれより南側の東福寺あたりまでの山麗は、高貴な人の葬送の地「鳥戸野」と区別される。読み方はいづれも「とりべの」。
乱立する墓標。お墓の数に圧倒されるが、各家の紋などを比較しながら歩くのも面白い。15分も歩いて登るとパッと視界が開ける。
眼下に乱立する墓標の隙間から京都市街の立ち並ぶビル群が見え、どちらが墓標なのか区別もつかない錯覚を覚える。
鉄のゲートを抜けると 清水寺の敷地内になる。なお、このゲートから入山できるのは午後4時半までとなっている。
閉門後このゲートに近づくだけで警報が鳴るので注意したい。
筆者は、夜の徘徊の際うっかり近づいて警報どころかアナウンスまで流れる始末。

京都府京都市東山区五条橋東6丁目514

清水寺 (東山区清水1丁目294)
仁王門を過ぎ、西門、三重塔、鐘楼、経堂、田村堂(開山堂)、朝倉堂などを経て本堂に至る。
この間に「清水寺の七不思議」を楽しんでいこう。
清水寺の首振り地蔵・馬駐(うまとどめ)の金具・阿・阿の狛犬・八方にらみの虎・カンカン貫(ぬき)・鐘楼の柱・景清爪彫りの観音・三重の塔の屋根瓦・轟橋・轟橋の門・手水鉢の堂を支える脚が二本しかないのが不思議・梟の手水鉢・弁慶の指跡・弁慶 の足形石・弁慶の鉄の下駄と杖・清水寺舞台の柱。
7つどころか16くらいあります。笑

轟橋 (清水寺入口)
こんなところに橋が架けられているのは不思議といわれるが、過去には轟川という川が実際に流れていた。
またこの川は結界という意味でもあったのでは。

清水の舞台
未だかつて舞台の建設された理由というのが解ってないとされている。それは有力な説がないからか。
清水に訪れる人々は、ほとんど参道を上がってくるわけで、この裏ルートにこそ本質が見えてくるのである。

平安時代の初期というのは、葬送といえば鳥葬・風葬だったわけで、それは「生まれ変わり」を固く信じて葬送したのである。
だから、鳥辺野は死体の棄て場だとか、 ひどいものになると舞台から死体を投げ捨てたなど聞くに耐えない説が横行している。
亡骸が土に還るという信仰から、自然にまかせて葬ることになった。しかしながら亡骸が土に還るまで3~5年の月日が必要になってくる。
その間、その臭気というのが半端ではなく、問題になってくる。
寺のすぐ下まで葬送の地であって、おまけに谷間を抜ける上昇気流が絶えず吹いて、悪臭を運び上げてくるわけだから堪ったものではない!
そこでネズミ返しの様な張り出しを作って悪臭対策としたものが舞台建設の理由ではないかという説を立てたい。
「能を奉納するための舞台」ということになってはいるが、舞台が外側に向いて傾いていることは疑問視せざるを得ない。
お寺さんとしては、悪いイメー ジを払拭するためにそういう呼び方をしたのではなかろうか。
081216_02kiyomizuderaいずれにせよ48本のケヤキの柱は釘一本使われておらず、見事としか言いようがない。奥の院もこの舞台が存在している。
余談ではあるが、わたしは小学生の頃、友達と遠征と称して清水寺に訪れ、舞台下で蟻地獄を捕獲するという遊びをやっていた。
ところが、今思えば過去に屍がゴロゴロしていたところを掘り返していたのである・・・おそろしや。

地主神社
101228_jishujinjya明治時代の神仏分離によって清水寺と分けられた神社である。
縁結びの神様などの信仰で若い女性たちに人気のスポットである。特にこちらの携帯サイトなどは、神社が生き残っていく最先端のコンテンツがあり面白い。
しかし、縁結びの信仰の裏側に はもちろん逆の信仰も存在していたのは確かである。地主神社の敷地の一番奥には「呪いの松」というのがある。
ここ清水でも丑の刻まいりがおこなわれていた証拠である。現にこの松の裏側には藁人形を打った五寸釘の痕が無数に見つけられる。女の執念はおそろしい。
華やかな信仰の裏には必ずこういう信仰が。まさに魔界である。
「京都に魔界なんてあるんですか?」とよく聞かれる。寺社の数だけ魔界は存在するのである。

音羽の滝
101207_DSC_0297音羽川の源流がこれである。無数の屍が置かれた鳥葬・風葬の地 鳥辺野の中を流れる川である。良い天気の日ばかりではない。雨が降り続いたり・嵐がきたり
すると川の流れは濁流に変わることもあったのであろう。その川の流れが屍の破 片や諸々を流したこともあったのであろう。
いわば浄化のための流れ、水であり、不浄なものを流す聖なる水という信仰から「清水」と名づけられたのではないだろうか。
とすれば清水とは、音羽川の水を指し、清い水の源流が音羽の滝ということになる。
余談ではあるが、音羽の語源はもしかしたらエトワ―ル。エトワは永遠。永遠と書いて「とわ」と読む。
古代の人は魂の永遠を信じて「音羽」と名付けたのではないだろうか。

阿弖流爲・母礼の顕彰碑
平安遷都1200年を記念して、1994年(平成6年)11月に「アテルイ・モレ顕彰碑」が建立されている。
平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。789年(延暦8年)に日高見国胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、 坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。
モレ(母礼)もアテルイと同時期、同地方に伝えられている蝦夷の指導者の一人と見られている(『日本後紀』、『日本紀略』では磐具公母礼)。
アテルイと共に、河内国で処刑されたことが記されている。磐具公母礼(いわぐのきみもれ)。
いずれにせよ、蝦夷の人たちは日本人ぽくない名前である。土着の民族となっているがヨーロッパか中央アジアの影響があるのは確かである。

舌切り茶屋 (京都市東山区清水1-294 清水寺境内)
舌切茶屋は清水寺の僧・月照を守り、安政の大獄で捕えられた近藤正慎が獄中で舌を噛み切って自害したことにより、その妻子が境内で茶屋を営業することを許された。
この正慎の子孫である川口正臣が俳優に成るにあたり、近藤正臣を名乗った。茶碗坂の一番上手に近藤悠三記念館があるが、この陶芸家の近藤氏も子孫である。
山科の大石神社近くの近藤氏の自宅にお邪魔したことは、今から30年も前にはなるがはっきりと憶えている。

子安の塔跡
清水寺仁王門の視界が開けた広場の南西の生垣の中に子安の塔跡の石碑がある。現在、奥之院のまだ奥の山科に抜ける道の途中に子安の塔はあるが、もとはこの地にあった。都名所図会などにその様子が描かれている 。子安は産むが易いからきていて、これが産寧坂の由来となった。
ここに埋もれた伝説があるので紹介しよう。
子安の塔は、秦産寺の塔である。この寺に居た尼僧がなんと身籠るのである。そして産んだ子が男女で、目が四つ、腕が四つ、足が四つあったというのだからこれは人ではないという話だが、たぶん背中がくっついたシャム双生児だったのではないだろうか。こういう子が生まれると世間で悪いことが起こると、悪魔の手先と呼ばれたり、逆に良いことが起こると神の使いというふうに仕立て上げられるが、当時はそういう記録はないみたいで、そんな子でも産むが易しだったことから子安または産寧と名づけられたというお話である。
私的な考えでいうと、秦氏が山の頂上に塔を建てた 理由は天体観測をしていたのではないかということで、それにふさわしい場所がここであったのではないかと思う。
それが証拠に近年この山の東側に、京都大学の花山天文台が建設されている。シャム双生児をふたご座と解釈すれば納得がいくのは私だけだろうか?

安祥院・日限地蔵 (京都市東山区五条通東大路東入遊行前町560)
参道の喧騒をのがれて五条坂を下りていき、駐車場を越えると、道に石段の飛び出たお寺がある。赤い提灯に「日限地蔵尊」と書かれている。
自分で日にちを限ってお参りをすると願いが叶うことから日限(ひぎり)地蔵と呼ばれる。
境内の庭には「車石」という真ん中がUの字に凹んだ石があるが、これは木喰上人という方が都と山科・大津をつなぐ山越え がぬかるんで荷物を運び難いことから石のレールを敷きつめて、大八車の通る道としたもので、本堂にもこの木喰上人ゆかりの品々がある。
101214_DSC850_ansyoinn日限地蔵さんにお参りをして右の絵馬堂に進む。そこには判別のつきにくくなった鬼の絵馬が飾られている。
亡くなった夫人を、地獄の火車や鬼が迎えにやってくるが、地蔵菩薩の額から光がでて、それを阻止するかのような絵になっている。
いろいろと文字も書かれてはいるが、判読できないような状態である。
こちらにはもう一つ鬼にちなんだものがある、温和な表情の中に何か力を秘めておられるような加藤住職にお願いして「鬼の歯型」を見せていただく。
それはそれは不思議なもので、一見の価値はあるが、そう容易く拝見できるものではない。数 年前から親しくしていただいている私の特権である。

いかがでしたでしょうか?

谷間が奥に行くにしたがって細くなり行き着く先に清水寺はあります。なんて素晴らしい立地なのでしょう。
参拝者のほとんどが言われもない解放感や浄化されたという気持ちになるのは、きっとこの地形のせいも多いにあると思います。
これはやはり上昇気流が常に吹いているということで、屍の臭気を吹き上げるだけではなく、俗世間にある諸々の混沌としたものや、人間の思いまでもが気流に乗って天高く舞い上がっていく絶好の場所。この場所を選んで清水寺は建てられました。
言わば「天国に一番近い寺」なのである。

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独自の解釈でコンプリートした魔界の町歩き「魔界ウォーク」

清水裏ルート・鳥辺野コース
大谷本廟と五条坂の間のルートを東へ→鳥辺野→清水裏門→清水寺七不思議→清水の舞台→地主神社→音羽の滝→アテルイの碑→舌切り茶屋→子安の塔跡→日限地蔵