このエリアは普段、あまり観光客が行かない方面だが なかなかどうして 視点を変えて見るといろんなものが見えてくる。魔界の醍醐味があると言ってよいだろう。
総本山 知恩院 (京都市東山区林下町400)
現在は御影堂の大改修がおこなわれている。
そのせいもあって一部拝観できない七不思議であるが 展示ブースが設けられた。これは解り易い!
七不思議は、「忘れ傘」や「抜け雀」など、方丈や御影堂内に収められているものが多く場所も散乱しているのでなかなか一度では見つけきれない所もあったからだ。拝観も無料なのでぜひ。
七不思議にも諸説あるので、お寺さんが提示されている以外にもあったりする。
HPにもアップされているので、見てから行ってほしい。
その一つに「瓜生石」というのがある。正式には「かしょうせき」と読むらしいが、子供の頃はこの付近の地元民の通称は「亀石」である。見れば頭が出っ張って亀のような形をしている。そしてここには都市伝説までもが存在する。
それはこの亀石を除けると秘密の地下通路があり、なんと二条城まで繋がっているということだ。
子供心にこの話にはワクワクしたものだ。
それが今になって考えてみれば、この通路が存在する理由が無きにしも有らず。
このお話は長くなりそうなので、また別の機会にすることにしましょう。
また、僕の通っていた高校はこちら系の学校だったので 知恩院で法要がおこなわれることしばし。
同じ系列の女子高とも会うチャンスがあったりする。
そんなことも懐かしい知恩院である。
瓜生石から華頂道を西へ下ると左右に女子高がある。実は僕はここの出身でもある。
女子高なのに男子の小生が何故?と思われるのも無理はない。
華頂学園には幼稚園があって、そこの出身なわけである。
思えば幼稚園の頃から仏教の時間があって釈迦の物語を知っていた。
なお西にとって門をくぐると白川が目の前を流れている。
子供の頃不思議に思っていたのは 毎日、川の色が違っていたのだ。青・緑・茶色の川、時には真っ赤。
なのに名前が「白川」(笑)。由来は大人になってから知る。
これは染物屋が上流にあって川で洗っていたので毎日色が着いていたということ。
今の時代にそんなことをやっていたら「公害だ!」といって大変である。過去にはゴミも流れていたが最近は、もちろん綺麗になり水のせせらぎが気持ちを「ほっこり」させる。
だが、自分にとっては、色の着いていない白川はあまりピンとこないのも確かである。
右に行くと川面にデッキがあるが、この風景。どこかで見覚えがないだろうか?
よく船越栄一郎さんや名取裕子さんがここで話をしてる場面を二時間サスペンスなどで見かける。
ここがロケ地なのだ。名取さんが今は無き某店・妖怪堂に来てくださったこともあったっけ。
そういえば僕が高校の時の担任の先生は小説家・山村美紗さんの旦那さんだったり、学園祭には 藤山直美さんが遊びに来たりしていた。
京都は狭い。
子供の頃にこの橋を自転車で渡ることが流行っていた。今考えると無謀で危険だがスリルがあって、当時はハラハラ・ドキドキしながら渡ったものだ。
この橋、真ん中に継ぎ目があるのでそれにハンドルをとられることしばし、なんとか無事に渡っていた。
そういえば落下した奴はあまり知らない。これも不思議ではある。
この橋、実は由緒があり比叡山延暦寺の阿闍梨さんが修行で都に下りてきて最初に渡る橋なので「行者橋」と呼ばれているそうだ。
こんな所に住んでいると 虚無僧や修行僧は毎日見かけていたので大して気にするほどでも無かった。
行者橋を渡っていくと川沿いから斜めに 商店街に入る道がありこの道が「古川町商店街」である。
かつては東の「錦」といわれていたが、今は人もまばら。
けれどもレトロ感イッパイで個性的な店や最近は若い店主たちも頑張っている。
ここで意外なのは デビット・ボウイが買い物をした商店街であるということ。
とある店先にはその証拠となる写真が今でも飾ってある。ちなみに九条山に住んでいたというから驚きである。コンビニもない時代だったので山からここまで買い物をしに来ていたというらしい。
次はここから東へ行って白川を渡り、川沿いを訪ねていく。
川沿いに 餅虎さんという老舗の和菓子屋さんがある。
この和菓子屋の名物といえば「光秀饅頭」である。
餅虎さんと変なマンションとの小道を入ったところに
「光秀公」と書かれた祠がある。
これが、明智光秀の首塚である。
東梅宮 明智光秀墳 (京都市東山区白川筋三条下る梅宮町475)
山崎合戦で豊臣秀吉軍に破れ、深草から山科の小栗栖を抜けようとした所で 農民の竹槍の前に深手を負った。
元禄時代の話なので信憑性はあまりないが、『明智軍記』には、近臣の溝尾勝兵衛に介錯を頼み自刃したとある。
そこから首だけを持って入洛し粟田口に首を埋めたとある。
祠の前の五輪塔がその当時からの慰霊碑でもう少し東にあったらしい。
餅虎さんで、明智の紋が入った光秀饅頭をいただくと、奥さんがお茶をいれてくださった。
考えてみれば、首塚で饅頭を売るというのはキャラクター商品で、斬首というイメージはもうそこにはない。
そう思わせる餅虎の奥さんは明るい。
川沿いの町家ステイや首塚もこの餅虎さんの管理である。
世間話から始まって、梅宮町の貸家を借りてくれないか?などとの展開に商魂たくましいなと思う。
光秀饅頭のノボリをふと見ると「一澤信三郎帆布製」とタグが付いている。
地元民ながら、皆さんのバイタリティーには恐れ入る。
ある意味、魔界もやはり観光資源なんだなあと あらためて納得する。
明智光秀公も よもや自分が午後のティータイムのネタにされようとは思ってもみなかっただろう。
粟田神社 (京都市東山区粟田口鍛冶町1番地)
白川を北へ抜け、三条通りに出る。三条を東へとって神宮道へ少し東へ行った南側に粟田神社の参道がある。
神宮道を南へ行くと 例の瓜生石がある。先ほどの知恩院の七不思議だが、この石に、牛頭天王が降臨し、一晩のうちに瓜の実がなり、それを粟田神社に奉納したという。
粟田神社の剣鉾は 祇園祭の鉾の原型ともいわれているので興味深い。
最近の粟田祭はどんどんゴージャスになっていってる。
剣鉾は出るわ、神輿は出るわ、ねぶたまで出ている。
祭り行事で僕が一番気に入ってるのは「夜渡り神事」だ。
神輿の起点が瓜生石になっているのだが、神幸祭の前日の夜、えも言われない風景が見れるからだ。
瓜生石に置かれた神輿とそれを囲む神官さんたちのところへ、知恩院の門が開き 僧侶がそろそろとお経を読みながら神事である神輿を拝むのである。もちろん神官の祝詞もあげられる。
いわば神仏習合がこのとき 再現されるのである。それは不思議な世界でみなさん息を呑んで見ておられる。
これも機会があれば、ぜひ見ていただきたい。
祭られているのは 牛頭天王と習合された素戔嗚命である。
合槌稲荷 (不掲載)
正直な話、ここの場所は明確にはしたくない。
何故なら路地裏に生活しておられる住民のお宅の前を通って行かなければならないからだ。
もし見つけたとしても、静かに静かに参ってほしい。
平安時代のこのあたりに 刀鍛冶である宗近という人物が住んでいた 通称「三条小鍛冶宗近」である。
ある日 天皇の命により刀を打つことが決まったが やれやれ途方にくれていた。
相槌を打つ人間がいないからだ。刀というのは刀鍛冶だけではなく、相槌を打つ者がいなければ仕上がらない。
近くのこの稲荷に日参して「いい相棒をお願いします」と願をかけた。
そうすると青年があらわれて相槌を打ち、無事に刀を奉納することができたという。
この青年はキツネの化身とされていて。刀には「小狐丸」という銘がつけられた。
三条小鍛冶宗近というとあまりピンとこないかなと思うのであるが祇園祭の先頭に君臨する「長刀鉾」実はこの長刀を打ったのも宗近である。
平安時代にやはり疫病が流行っており、宗近の娘も疫病にかかり 当時としては助からない病気ではあるが奇跡的に命を取り留め、宗近は御礼に長刀を打って祇園社に奉納したことが始まりで長刀鉾ができたのである。鉾の波風には三条小鍛冶宗近が長刀を打つ場面を細工してある。
祇園祭のときに、確認してほしい。
また現在、鉾の天辺にはレプリカの長刀が挿げられているが昨年、幸運なことに本物の長刀の拓を、とある場所で見せていただいた。
それは形はやはり年代物だけあって古風なものであったがその大きさに圧倒された代物だった。
これはそうとうな労力がかかったであろう。
ある日の夕方 合槌稲荷にお参りを済ませて三条通りに出ようとした。
ここでは滅多に人に遇うこともないのだが 色の白いスリムな美女が入ってこられ、「こんにちは。」と声をかけてくださった。
あ・・、ここに住んでおられる方なんだなと思い「こんにちは」と返事をした。
三条通に出て、ふと思った。
あの方は 宗近の合槌を打ったキツネの化身の子孫だったのではないか・・・と。
さていかがでした?
ほんとはここだけではなく「魔界」はどこにでも存在するものです。人間が居るならね。
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