粟田神社の参道を南へ行くと 石段が見える。この交差する道はどうも古代の三条通り、つまり東海道なのだ。
この道を東へ進むとウエスティン都ホテルに突き当たる。ホテルができる以前は日向大神宮の参道へ続いていたそうだ。このあたりには粟田焼の窯があって粟田焼発祥の地とされている。窯の跡もこのあたりにあると聞いたが、今は発見できない。
突き当たりを左へ降りる石段があり廃墟の町家路地を抜けると現三条通りにでる。
その途端に現在に引き戻された感覚になる。
気を取り直して東へ進み、蹴上駅を とおり越しての参道を登る。
少し登ると橋が架かっており疎水が流れている。
この前の道もどうやら東海道らしい。
ここには昔、茶店が数件あって往来する人が休憩していたときく。
まわりは疎水の施設だが西に児童公園があり、その奥に祠がある。目的地はこれだ。
台座にのった大きな石仏がある。
よく見ると、石仏の脇の花活けに「義経大日如来」と文字が入っている。
平安時代、源九郎義経が元服し、京の都から奥州に旅立つときのことである。
朝早く出立した義経は東海道を行き、最初の峠に差し掛かった時その悲劇は起きた。
向かいから平氏とおぼしき九名がやって来るではないか。
波風を立てずに、ここはやり過ごそう・・・とその瞬間
あろう ことか平氏の乗った馬が泥水を蹴り上げ、義経の着物を汚した。
怒り狂った義経は八人を惨殺し、残りの一人の耳を削いだ。
この物語にちなんで、この地を「蹴上」・付近を「九体町」と呼んだという。
惨殺された者が祀られた地蔵やこの義経大日如来もこの慰霊のために作られたという。
そして義経は山科の御陵で血の付いた刀を池で洗ったという。
その池は、現在ののグランドの隅に義経腰掛石があり、その後方の塀の向こう側。
普通の民家の庭先に今でも美しい水が滾々と湧き出る小さな小さな池が 血洗い池なのである。
この物語を聞いて最初に自分が疑問に思ったことがある。
「どうしてこんな距離のところで刀を洗ったのか?」ということである。
つ まり惨殺現場から2キロ以上離れた峠越えなのである。
一説によると九条山に刑場があり、その刀などを洗ったということも言われているし、近辺に祀られた石仏はその慰霊の為だったという。それと義経に殺された者の慰霊の石仏がごっちゃになって、判別がつかないというのも事実だ。
幼い時に鞍馬山で天狗を相手に武術を磨き、元服し、奥州へ旅立つ。
この間に人を斬った物語は見当たらない。
もうひとつ付け加えるなら、鞍馬山に義経の背比べ石がある。これはわずか120CM位の高さだ。
平安時代の大人の男性の平均身長が156CMと聞いたこと がある。
なかでも義経は小柄な人物としてとおっているので 120CMという身長はオーバーではないと思う。
剣術を磨いた義経は、都を出立するとき思ったに違いない。「自分はどれだけのことができるのか?」と。
打倒平氏の意志を持って、鞍馬山で修行に明け暮れた身長120センチの15歳の少年。
その少年は自分の鍛錬の成果を見届けるため、機会を探していた。
そこへ又とない機会が訪れる。
「波風を立てずに、ここはやり過ごそう」などとは思わず。機会を狙っていたのだ。
如何なく実力を発揮した義経だが、追手を心配し、人を斬った興奮から、峠を全力で越える。
見晴がよく、ようやく落ち着いた場所は 天智天皇が眠る御陵(みささぎ)に滾々と湧水をたたえた池だった。
ここで我に返った義経は刀を洗い、身形を整えた。
これが事実だとすれば、血洗い町と名付けられたところに小学校がある。
無邪気に笑い、そこに通う子供たちは、その所以を知っているのだろうか。
まさに魔界と現実が混在する場所。それが京都なのである。
だから京都は面白い。1200年前から存在するテーマパークなのである。