【言っておきたい古都がある】

悪霊だらけ(その12)

~崇徳天皇は怨霊になるしかなかった~

順調に進んでいたこの「悪霊だらけ」シリーズだが、先週は休載の憂き目を見てしまった。筆者の引越しのためである。老朽化していた我が家の屋根が落ちてしまったのだが、これも悪霊の仕業か?

さて、菅原道真、平将門とくれば、日本三大怨霊の最後の1人、崇徳天皇に言及しなければならない。
ただ、「三大怨霊」と言われながら、左遷された菅原道真、非業の死を遂げた平将門に比べて、崇徳天皇というのはどうもマイナーな感じが否めない。天皇だから3人の中では一番偉いのに。派手な伝説が現代でも話題になるということがないではないか。
これでは怨霊になってもまだ不遇だということになってしまう。

崇徳天皇

崇徳天皇

崇徳天皇は確かにお気の毒である。
鳥羽天皇の子のはずなのだが、「実は白河法皇の子だ」と言われている。系図から言うと

白川―堀河―鳥羽―崇徳

となり「噂」が本当なら、白河法皇は自分の孫の奥さんに手をつけて子供を産ませたことになる。
しかもそれが事実なら、崇徳天皇は鳥羽天皇の「子供」ではなく「叔父さん」になってしまう。
と言うことは、鳥羽天皇の奥さんの璋子(待賢門院)は崇徳天皇の母親であると同時に鳥羽天皇の祖母になる!?
祖父が妻と不倫をして子供を産ませたのだから鳥羽天皇こそが怨霊になっても不思議ではない。しかし、ならないのだな。

この「噂」の真偽のほどは分からない。
ただ、崇徳天皇が生まれたとき、白河法皇は66歳である。
不倫が事実だとしても子供を産ませることが出来るだろうか。
決して不可能ではないのだろうが、私は可能性としてはかなり低いのではないかと思う。
しかしここで重要なのは、崇徳天皇が実際に

白河法皇

白河法皇

の子供であったかどうかではなく、鳥羽天皇が「この子供は白河法皇の子供だ」と信じていたということである。
一説によると、鳥羽天皇は崇徳天皇のことを「叔父子」と公言していたとか。
自分の子供ではなく叔父であるということをネチネチと言っていたらしい。
これって、本来は崇徳天皇には何の責任もないことである。

平清盛 NHK大河ドラマ 鳥羽離宮 白河天皇成菩提院陵 白河法皇 

自らの墓所とする三重塔が生前に造営されていた


鳥羽天皇はお父さんの堀河天皇が29歳で崩御したため、僅か5歳で即位した。そのため祖父である白河法皇は院政を強化し、教科書にも載っているように「思い通りにならないのは鴨川の流れとサイコロの目と比叡山の山法師だけ」と言うぐらい権勢を誇ったわけである。
そして元永2年(1119)に鳥羽天皇に皇子(後の崇徳天皇)が生まれると、白河法皇は自分の曾孫であるこの子を天皇に即位させろと鳥羽天皇に迫った。
もちろん鳥羽天皇は断ったのだが、法皇の執拗な意向に屈してついに保安4年(1123)1月に退位し、崇徳天皇が即位したのである。
しかし鳥羽天皇は譲位しないと4年も粘ったのであるな。その間、白河法皇からかなりのパワハラを受けていたのだろう。

このように白河法皇が崇徳天皇を即位させようとかなり強引に働きかけていたことが「実は白河法皇の子供」という噂に箔をつけていると思う。
私は白河法皇の強引さは、崇徳天皇が自分の子であったからではなく、成長した鳥羽天皇よりも幼少の崇徳天皇のほうが自分の院政がやり易いという、現実的な打算だったと考えている。
建前としては天皇陛下が一番偉いのだから、鳥羽天皇が積極的に政治に関与してきたら流石の白河法皇もやり難いと思ったに違いない。そして白河法皇のその判断は正しかったのである。

大治4年(1129)7月、ついに白河法皇が崩御する。
鳥羽上皇は自ら院政に乗り出し、祖父(白河法皇)と不倫したと決め付けた待賢門院を退けて得子(後の美福門院)を女御とした。
そして保延5年(1139)、得子に皇子(近衛天皇)が生まれると崇徳天皇を強引に退位させたのである。時に永治元年(1141)であった。
こうなると鴨川の流れであろうがサイコロの目であろうが自分の思いのままにしようとする豪腕振りである。

しかしまあ、崇徳天皇もどうにか3年は粘ったのだな。
多分、この3年間に「叔父子、叔父子」とかなりのパワハラを受けていると思う。
鳥羽上皇にしてみれば、自分がやられたことをやり返しただけなのだが、崇徳天皇は辛かっただろうなと思う。よく3年も頑張ったものだ。
平清盛 NHK大河ドラマ 鳥羽離宮 NHK大河 鳥羽上皇役(三上博史) 鳥羽離宮 東殿白河法皇は正しかった。この人(鳥羽さん)を天皇のまま放置しておけば、いずれは天皇として白河法皇に対抗しただろう。
鳥羽法皇は生きてるうちに自分のゴリ押しが出来たので怨霊になる必要はなかった。
そんなわけで、しわ寄せを受けたのが崇徳天皇である。
まあそれでも「二度あることは三度ある」で、崇徳天皇も次の世代に同じことが出来れば良かったのだが、そうはいかなかったから「怨霊への道」を進むことになってしまったのである。

そういう点では誠にお気の毒なのだが、後に怨霊となる崇徳天皇よりも、生きているうちに血で血を洗うような家庭内パワハラを続けた白川院と鳥羽院こそ、悪霊そのものではないかと思わざるを得ない。
それでも、白川院と鳥羽院は「外向き」であった。ところが崇徳院は「内向き」で鬱屈してしまった。それもまた怨霊へと向かわせたのだろう。

崇徳天皇の挫折と怨霊誕生の話は来週に続く。

【言っておきたい古都がある・112】