【言っておきたい古都がある】

悪霊だらけ(その6)

~本当に怨霊になったのか?~

 前回までで菅原道真が怨霊になるまでの経緯をなぞったのだが、いよいよ怨霊になるところまでやって来た。
 ところが、これがまた「?」なのである。
 道真の怨霊伝説で定番の話は

「道真が失意のうちに大宰府で死んだ後、京の都で地震、雷、台風、竜巻といった天変地異が相次ぎ、藤原時平はじめ道真左遷に関与した人たちが次々に死んでいった」

というもの。
 この情報自体に嘘はない。ただ、事実の全てが盛り込まれているわけでもないのである。

国宝「菅原道真の怨霊が雷を天皇の宮殿に投げ落とした」という絵

国宝「菅原道真の怨霊が雷を天皇の宮殿に投げ落とした」という絵

 道真が死んだのは延喜3年(903)であり、その「祟り」によってまず最初に藤原時平の死んだのが延喜9年(909)、つまり6年の開きがある。
 祟るのならすぐに祟れ、と言いたい。
 道真の「怨霊」は6年間も一体どこで何をしていたのか?
 (この後に続く「怨霊の祟り」に関しては私がやっている「京都ミステリー紀行・東山編」で詳しく解説している)

 さらに時平は「39歳の若さで死んだ」とも言われるが、現代の39歳と平安時代の39歳を一緒にしてはいけない。
 もっとも、時平の兄弟たちは60歳から70歳ぐらいまで生きているので、それに比べれば確かに早すぎる死である。
 「だから怨霊の仕業」なのではなく、私はここに暗殺の可能性を考えるべきだと思っている。

 「讒言により菅原道真を左遷した」なんて言うと、藤原時平はかなりの悪者だったような印象を受けるが、決してそんな事はなかった。
 政治的には道真というのはあくまでも律令体制の立て直しをするための改革を進めたが、時平のほうは社会の実情に合わせて制度を変えていこうとした。

「時平の桜、菅公の梅」(中公文庫)  奥山 景布子  (著)

「時平の桜、菅公の梅」(中公文庫)
奥山 景布子 (著)

 時平は藤原氏の頭領であったにもかかわらず、荘園整理令を出している。頭領自ら一族の利権を潰しにかかったようなものだ。時平は国全体のことを考えていたのではないのかと思われる。
 また、時平は弟の忠平とは仲が悪かったという。しかも時平の死後、その系列は中級下級の官位に落とされ、歴史の中に埋もれていった。
 嫡流がここまで冷遇されるということは、時平は藤原氏全体から疎まれていたのではないのか。

『大鏡』(第二巻)によると、道真の怨霊が現れたとき、時平は怯むことなくその怨霊に

「卿(道真)は生前は私より位が下だったではないか。怨霊になったからといって偉そうにするな」

と言い放っている。
 しかし、時平が本当に罵倒した相手は利権を守ることに汲々としている藤原氏の面々だったのではないのかな。
 でも、こんなこと(荘園整理令)をやられたのでは利権を守りたいほうはたまったものではない。
 

「邪魔者は消せ」

というのは古今東西の真理である。
 時平以外の藤原氏こそが本当の「悪霊」だったのでは?
 だとすれば、菅原道真は死んだ後に再び濡れ衣を着せられたことになる。
 なんともはや、お気の毒としか言いようがない。

 死んだ人は怖くない。本当に怖いのは生きている連中である。
 しかもその連中は祟られていない。
 生きているうちに讒言すれば祟られるけど、死んでからの讒言は祟られないなんて?
 そもそも道真は怨霊になどになっていないのではないか。
 死んで6年もたってから恨みを晴らす霊があるとは思いにくい。

 菅原道真は怨霊になっていなかった!?

 これを検証するために、つぎは道真左遷に関与したにもかかわらず、道真の怨霊に祟られなかった有名人を取り上げることにする。

(来週に続く)

【言っておきたい古都がある・106】