【言っておきたい古都がある】

後陽成天皇と朝鮮出兵

〜「あの戦争」はみんな反対していた〜

 つい先日まで京都国立博物館で「天皇の書」の展覧会があった。それに絡む話題を取り上げる。

 展覧会に天皇から朝鮮出兵に関する豊臣秀吉へ宛てた手紙があった。
 また朝鮮出兵というと耳塚とワンセットにされるので、それについても一言。

 まず耳塚だが、ご存知のように、豊臣秀吉が朝鮮出兵をしたときに、朝鮮兵の耳を切り塩漬けにして日本に送らせた。その耳を埋めた場所だとされている。しかし「本当は何が埋まっているのか」という疑問は江戸時代からあったらしい。つまり、徳川幕府が豊臣家を貶めるためにプロパガンダとして言いふらしたことではないのか、と。
 その証拠としてこの耳塚は「方広寺七不思議」の一つに入っているのである。

 方広寺についてはこの連載の「京都の大仏物語」で紹介したので読者も覚えておられると思う。
 そこで耳塚への疑問なのだが、確かに、耳を埋めたといいながら未だに発掘調査をされたことがない。
 では耳塚とは何かというと、京都の大仏を鋳造した後の土を埋めた場所であると。
 それが御影塚(みえつか)と呼ばれていた。これが訛って耳塚になったのだという。
 これもありそうな話ではある。

 それにしても、だいたい政権がひっくり返ると新体制は旧体制の悪口を言う。江戸時代の小説で江戸っ子が「おいこら、この太閤!」と言っていたら、それは「この馬鹿」という意味である。やはり「朝鮮出兵」は現代のみならず、江戸時代でも「暴挙」とされていたのだ。

 それはその通りで、秀吉以外は全員反対だったといっても過言ではない。ただし、誰も秀吉には逆らえなかった。でも本心では反対で、しかし「反対」なんて言ったらどんな目に合わされるか分からないから黙っていた。
 そんな人たちの中で意外な人が明確に反対を唱えている。その手紙が残っているのである。豊臣秀吉の朝鮮出兵にはっきりと「やめてくれ」と言った人は誰なのか?

 問題の手紙は写真も掲載する。史料集から撮ったので少し見にくいかもしれないが、拡大していただければ文字は確認できるだろう。
 
 この差出人は後陽成天皇なのである。以下、現代人にも分かり易いように書き直す。

 高麗国への下向、
 険路波涛をしのがれん事、勿体無く
 諸卒をつかわし候ても事足るか
 朝家のため且つ天下のため
 かえすがえす
 発足ご遠慮していただきたく、
 勝ちを千里に決して此度の御事、
 おもいとどまり給えば
 こんな嬉しいことはなく
 そこでこの手紙を遣わします
 あなかしく
 太閤とのへ

 少し意訳っぽくなるが、現代文にすると

 高麗国への進出の件ですが
 大海原を越えて向こうまで行くのは大変で
 どれほど多くの兵隊を送り込んだとしても成功するとは思えません
 皇室のためにも豊臣家のためにも
 もう一度よくお考えになって
 出兵は取り消していただきたく存じます
 勝ちを千里の外に決して(注)
 今回のことは思いとどまってください

(注)・『史記』にある言葉。いながらにして、優れた謀をめぐらして遠い戦場で勝利を収める。画策そのよろしきを得ること。
    ここでは軍事力ではなく外交力で目的を達しましょう、という意味か。

 解説書の中には天皇が秀吉を「諌めた」としているのもあるが、私はこれは「嘆願書」だと思う。
 だいたい当時20歳代半ばだった後陽成天皇が60歳近い(つまり親子ほど年の離れた)秀吉を「諌める」なんて出来るわけが無いだろう。しかも秀吉は皇室の重要な支援者だったのである。
 これは諌めたのではなく必死の嘆願である。
 
 ざっくばらんな書き方をすると、

「おっちゃん、それヤバイしやめとこ」

となる。とにかく、やめてくれと。
 でも、秀吉さんはやっちゃったんですね。しゃーない人やわ。天皇陛下もくそもあったもんやない。
 それで負けたのだから、どうしょうもない。

 そう、朝鮮出兵だ、侵略だといっても、「あの戦争」は日本が負けたのですよ。勝ったのは朝鮮側。何故かこの視点が抜けているようなので、ここで念を押しておく。

【言っておきたい古都がある・27】