【言っておきたい古都がある】

豊臣秀吉アラカルト(後編)

~皆様お忘れでしょうが後編です~

 「え? 後編って前回はこんな話じゃなかったよ」と思われた人もおられるだろう。
 このネタの前編を書いたのは昨年のこと、この連載の67回目であった。
 あろうことか完成していた後編の原稿を送信する前にパソコンがぶっ壊れてしまったのである。人間で言えば働き盛りの突然死だろう。。。いや、6年以上使っていたのでだいぶ弱っていたか。。。

豊臣秀吉アラカルト(前編)
http://kyoto-brand.com/cms/guest/t-taniguchi/kyo-mystery/hideyoshi-a-la-carte-1/

 何はともあれ、ご臨終になったパソコンとともにその中に保存してあった下書きや資料もお釈迦になった。

 死活的に重要なものは何らかの形でバックアップが取ってあったから深刻な被害はなかったのだが、この連載用の資料はフロッピーに入っていた。で、新しいパソコンにはフロッピーを入れるところがなかったのである。これは想定外だった。
 それでもってほったらかしになっていたネタなのだが、一念発起、ようやく続きを書くことにした。

 前編の最後で私は

豊臣秀吉の墓へ行く石段

豊臣秀吉の墓へ行く石段

「秀吉の墓はここだが、奥さんの北政所の墓は高台寺にある。夫婦なのに離れていて気の毒、という人もおられるが、あの世の秀吉さんはそうは思っていないだろう。何故か? 答は来週に続く」

と書いた。

 まずはその答を記さねばなるまい。

 前編で紹介した石段のすぐ近くにこのような石塔がある。これな~んだ? というクイズではない。
 

豊国廟への石段近くにある側室松の丸の墓

豊国廟への石段近くにある側室松の丸の墓


 大きい石塔は豊臣秀吉の側室であった松の丸さんの墓。松の丸さんといえば醍醐の花見での杯争い。
 秀吉が北政所の次に松の丸殿に杯を渡したら淀君が「次は私」と言って杯を取ろうとしたら松の丸殿は渡そうとしなかった。それで大揉めになったと。

 この話は醍醐寺の座主だった義演准后の日記に記されているので事実である。本来の序列は松の丸殿のほうが上だが、淀君は秀頼を産んだことでその日の輿の順番は松の丸殿より先だった。だから杯も、と思ったのだろう。でも厚かましすぎたかな。

大きく、梵字が刻んである松の丸の墓石

大きく、梵字が刻んである松の丸の墓石


さて、問題の「秀吉が喜んでいる理由」についてであるが、要するに、側室の松の丸さんは近くにいて、ちょっと煙たい本妻さんの北政所は離れた高台寺にいる。しかもお墓への参道は遊女が整備してくれた。女好きにはたまらんのではないですか。

 秀吉には側室がたくさんいたが何故か子供は生まれていない。長子鶴松は夭折。晩年になって淀君が秀頼を産んだが、これも「秀吉の子ではない」という説がある。
 まあ私の聞いた根拠は「秀吉は小さい人だったのに秀頼は物凄く大きい(身長170センチ以上)人だった」という他愛ないものだったが。じゃあ父親は誰かと問うと、淀君の側近に物凄く体の大きい人がいたと。。。
 
 確かにそれにも一理あるが、それでは相撲取りの親はみんな大きい人ばかりかというと、そんなことは無い。普通サイズの親から大きな力士が生まれているから、スケールの大きい発想をした秀吉から体の大きな秀頼が生まれてもおかしくないように思うけど。こればっかりは真偽の程は藪。
 と言いたいが、これには意外と有力な説がある。
 つまり、秀頼が生まれた日から逆算して、「その子作りの日」に秀吉と淀君は一緒にいたか、ということ。これ、やはり怪しいらしい。「その時期」に一緒にいたのは松の丸さんの可能性のほうが高いのだとか。

松の丸の隣のある豊臣国松の墓

松の丸の隣のある豊臣国松の墓

 ところで、この松の丸さんの石塔の向かって左隣に小さな石塔がある。
 この小さな石塔。これは豊臣秀頼の息子、国松丸の墓である。

 豊臣国松、御年8歳。慶長20年5月落城寸前の大坂城から乳母とともに脱出し大坂に潜伏していたが、大坂城落城の2週間後、追っ手に捕まり、捕まって3日後に徳川家康の命によって処刑された。遺体は松の丸さんが引き取って供養した由。その関係から2人の石塔が並んでいる。
 

墓所の経緯を示す石碑

墓所の経緯を示す石碑

 この墓は元々寺町の誓願寺にあったが、明治になってから商業活動が盛んになって静かな環境を保つことが出来なくなったのでこの地に移転した。
そのことを記す石碑が建っている。
「国松」の名

「国松」の名



 
「誓願寺」

「誓願寺」の文字

「明治革新後商売多」の文字

「明治革新後商売多」の文字

「子爵京極高徳」の名

「子爵京極高徳」の名


 
 ところで、ここで織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人の性格をたとえたホトトギスの俳句を思い出していただきたい。

信長「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」
秀吉「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」
家康「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」

 僅か8歳の子供を問答無用で処刑するような人が「鳴くまで待とう」なんて長閑なものか?
 どうもこの俳句は江戸時代に出来たので家康に関しては眉唾だと思ったほうがよさそうであるな。

 さて、このネタ、後編が終ってもネタが尽きない。
 そこで次回は「続豊臣秀吉アラカルト」をお届けします。

【言っておきたい古都がある・88】


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