【言っておきたい古都がある】

中世トリビア(その14)

~過ぎたるは及ばざるがごとし~

 前回のエピソードに登場した坊さんは欲の皮を突っ張らかし過ぎて大しくじりをやったわけだが、まあ、何事もやり過ぎると碌な事はないということだろう。
 『沙石集』には同様の、しかももっとはっきりとした話も収録されている。
 巻第8の13。

 ある山寺に出家を希望する女性がやって来た。師となる僧が「尼としての名をつけよう」と言うと、「名前はもう自分で決めてきた」と答える。
 さて、どんな名前かと問えば、

「阿釈妙観地白熊日羽嶽房」(あしゃくみょうかんじはくゆうひはたけぼう)

だという。
 「何じゃ、それは?」といえば、

「私は神も仏も信じて、みんな尊いものだと思ってますのでそれぞれから一字ずつ取りました」

と。つまり

「阿弥陀、釈迦、妙法、観音、地蔵、白山、熊野、日吉、羽黒、御嶽」

から一字ずつ取ったのだと。
 それにしても、あまりにも長い。

 さて、これと似た話をどこかで聞いたことがありませんか?

 そう、落語の「寿限無」(じゅげむ)。
 縁起のいい言葉を並べて息子の名前にしたら

「じゅげむ じゅげむ ごこうのすりきれ かいじゃりすいぎょの すいぎょうまつ うんらいまつ ふうらいまつ くうねるところにすむところ やぶらこうじのぶらこうじ ぱいぽ ぱいぽ ぱいぽのしゅーりんがん しゅーりんがんのぐーりんだい ぐーりんだいのぽんぽこぴーの ぽんぽこなーの ちょうきゅうめいのちょうすけ」

という長いものになってしまったと。これにもちゃんと意味があって

寿限無、寿限無 五劫の擦り切れ
海砂利水魚の 水行末 雲来末 風来末
食う寝る処に住む処
藪ら柑子の藪柑子
パイポパイポ パイポのシューリンガン
シューリンガンのグーリンダイ
グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの
長久命の長助

という漢字が当てられる。
 もっとも、前半は

「寿命は何時までも続き天上界で岩が擦り切れる五劫のときまでに及び、海の砂利や水中の魚のように数知れず、水・雲・風の来し方行く末には果てがなく、食べることや寝る場所に困らず、生命力豊かな藪柑子の木が連なっているような」

という仏教的な話なのだが、後半は「みんな長生きしたというパイポ王国の歴代の王様の名前」といういささか怪しい話になり、締め括りは「長く久しい命を長く助ける」という、とにかく長い長い意味になる。

 この落語にもいくつかのヴァージョンがあるようだが、一般的なオチは「子供の喧嘩で親同士が責任追及のために子供の長い名前を言い合っているうちに殴られて出来たタンコブが引っ込んでしまった」というものだろう。
 私としては、「病気になった子供を病院に連れて行って、医者に診てもらう前に長い名前を言いながら症状の説明をして、やっと治療してもらえると思ったら子供が死んでいた」というのが一番好きである。

 過ぎたるは及ばざるがごとし。

 これと同じで、厳しすぎるルールは却って害になる。
 厳しすぎて守りようがないなら、誰も守らなくなる。「これは誰も守らない」というのが暗黙の了解事項になるから。それが行き着く所まで行くと「守る奴は馬鹿だ」となる。
 ルールは少し隙間のあるほうが良い。

 さて、『沙石集』にある尼さんがその後どうなったのかは分からない。ただ、中世では神様と仏様が共存していて、お互い堅いことを言わず、仲良くやっていたのである。基本的には今もそうだ。
 何度でも言うが、過ぎたるは及ばざるがごとし。
 中心になるものはぶれてはいけないのだろうが、歩み寄れるところは歩み寄ると。
 信念は大いに結構なのだが、本当に信念のある人というのは、その信念を曲げる必要のない範囲であればいくらでも妥協してくれるものである。
 何事も、ほどほどが良いようで。
(来週に続く)
 
 

【言っておきたい古都がある・145】