【言っておきたい古都がある】

陰陽師の真実(その11)

~安倍有世が重用された背景~

 前回お話したとおり、足利義満は安倍晴明の子孫である陰陽師の安倍有世を利用してまず「乱の予言」をさせて、それから相手を挑発して乱に持ち込んだ。つまり「安倍有世の予言」は義満による自作自演のヤラセであったと指摘した。

 それでは、義満はどうして利用する相手として陰陽師を選んだのであろうか。

 これは以前にも書いたことだが、重要なので何度でも書くが、教科書では歴史的な日本の権力構造は公家と武家の二極構造であったかのように書かれているが、実際はお公家さんと武士と坊さんの三極構造であった。公家・武家・寺家だったのである。にもかかわらず、教科書からは寺院の権力がすっぽりと抜け落ちている。
 もっとも、近年はわが国の歴史教科書もかなり変わってきているので、少しは改善されているかもしれないが。

朝廷皇位継承争い、荘園警備などで武家勢力が伸長

朝廷皇位継承争い、荘園警備などで武家勢力が伸長

 だいたい、比叡山の僧兵とか一向一揆とかは「公家と武家の二極構造」という捉え方では理解し難いのではないかな。
 足利義満にとって、社会的な影響力が大きい宗教勢力をどう押さえつけるかは重要な課題だった。
 どうしてかというと、強訴が多かったから。

 ご存知の方も多いだろうが、強訴というのは坊主が大挙して都へ押し寄せ、ほとんど暴力的な示威行為を繰り広げて自分たちの要求を認めさせようとしたことである。まあ、似たような反対運動は今でもあるが、昔は神木などを全面に押したて、「言うこと聞かなんだら罰当てたるぞ~」とかなり強引ことをやっていた。
 その強訴であるが、安和元年(968)から元亀2年(1571)までの603年間で261回起きている。だいたい2年半に1回の割りで強訴があったと思ってもらえば良い。しかも大多数は奈良の興福寺か比叡山の延暦寺がやっているのである。この二つが常連さんだったのだ。
 白河法皇が「鴨川の流れとサイコロの目と山法師だけは何ともならん」と言った「山法師」というのはこの強訴のことを言っているのである。

 そこで足利義満であるが、強訴対策というのが避けて通れない政治的案件だったわけだが、どうしたかというと、突っぱねたのであります。

康暦元年(1379)8月14日、興福寺の強訴が春日大社の神木を押し立てて都にやって来た。要するに、坊主が神社の木を切ってデモンストレーションのシンボルにしたのだが、こうなると神仏習合と言うか、何でもありだな。ひょっとしたら、春日大社の神木を勝手に切ったのかもしれない。
 これに対して義満は一切無視して出仕を続けた、つまり平然として日常の職務を続けていたと。
 まさに毅然として平常心を保ったということだろうか。
 で、どうなったかというと、同年12月15日、興福寺の強訴は何ら成果を得ることなく奈良に帰らざるを得なかった。
 日本史上始めての強訴失敗である。
 まさに捻じ伏せたのである。
 これは寺院勢力にとってマジで打撃であった。

平清盛時代嘉応の強訴

平清盛時代嘉応の強訴

 
 ただし、この後で足利義満の政治家としての資質が光ることになる。
 義満は年が明けると興福寺に使者を派遣して直接対話の道を開いているのだ。
 つまり、勝った方が負けた相手に対して頭を下げて和解を申し入れたようなものである。こうして相手を懐柔したのだが、こんな事は中々出来るものではない。

 そこで陰陽師である。(読者の中には本稿が陰陽師をテーマにしているのを忘れてしまった方がいるかもしれないが)
 足利義満にとって一回ぐらい押さえ込んだって、やはり坊主は「敵側」の相手、つまり対立する勢力なのである。だから権謀術数に利用するわけにはいかない。
 そこで権力の枠組みからは外れているけど、安倍晴明以来の知名度がある陰陽師を担ぎ出したと。
 安倍有世が「晴明以来の実力者」だったのではなく、足利義満の深謀遠慮によって「実力者」にされたわけである。つまり「晴明以来の陰陽師」というのは虚像に過ぎない。
 もっとも、有世もそんな事は承知の上で自分を義満に利用させ、この世の春を謳歌していたのかもしれないが。

(来週に続く)

【言っておきたい古都がある・128】

 
《参考》強訴年表

西暦 和暦 寺社 内容
968年 安和元 興福寺 寺田を巡る東大寺との抗争
981年 天元4 延暦寺 円仁派による法性寺座主・余慶(円珍派)の罷免要求
986年 寛和2 興福寺 備前国鹿田荘における備前守・藤原理兼の濫行を訴える
986年 興福寺 大和守・源頼親の罪科を問う
1004年 寛弘元 摂津住吉社 神人を負傷させた摂津守・藤原説孝を訴える
1004年 宇佐八幡宮 大宰権帥・平惟仲の非法を訴える。6月8日、惟仲の執務停止
1006年 寛弘3 興福寺 藤原道長に国内の田畑損亡を愁訴
1017年 寛仁元 興福寺 神木を奉じて入洛(理由不明)
1027年 万寿4 延暦寺 法成寺の尼戒壇設立に抗議
1028年 長元元 金峰山 大和守・藤原保昌の苛政を訴える
1039年 長暦3 延暦寺 藤原頼通に明尊(寺門派)の天台座主補任を抗議。3月16日、僧徒が頼通の高陽院邸に放火
1066年 治暦2 興福寺 神木を奉じて入洛(理由不明)
1079年 承暦3 延暦寺 祇園別当職の譲補を要求
1081年 永保元 多武峰 興福寺の濫行を訴える
1082年 永保2 熊野 尾張国館人の熊野神人殺害に抗議
1085年 応徳2 興福寺 寺家荘園の押領を訴える
1088年 寛治2 宇佐八幡宮 宇佐神輿を射たとして、前大宰大弐・藤原実政を訴える。11月30日、実政を伊豆に配流
1092年 寛治6 日吉社 藤原為房・仲実の下人による神人暴行を訴える。為房を阿波権守に左遷、仲実を安芸に配流
1093年 寛治7 興福寺 近江守・高階為家による春日神人暴行を訴える。為家を土佐に配流
1095年 嘉保2 延暦寺 美濃守・源義綱の流罪を要求(初の日吉神輿入洛)。中務丞・源頼治が防ぎ、僧徒を射殺(頼治は4年後に佐渡へ配流)
1102年 康和4 延暦寺 藤原忠実に仁源の法成寺長吏補任を要求
1102年 興福寺 衆徒が蜂起して権別当・範俊の房舎を破壊。8月12日、朝廷は宇治橋を壊して衆徒入京を阻止
1102年 東大寺 同寺八幡の神輿を奉じて入洛。興福寺の濫行を訴える
1103年 康和5 興福寺 藤原忠実に維摩会竪者の改補を要求
1103年 延暦寺 大衆が法皇御所に参集(理由不明)
1104年 長治元 石清水八幡宮 高信の修理別当補任に反対。2月22日、朝廷が高信の補任を撤回
1104年 越前気比社 国守・高階為家の非法を訴える
1105年 長治2 延暦寺 祇園神輿を奉じて入洛。円僧寺探題・証観の罷免を要求。1月2日、朝廷認可により神輿帰座
1105年 日吉社・祇園社 検非違使・中原範政の兵が祇園社神人と闘争したことに抗議
1105年 延暦寺・日吉社 筑前大山寺竈門宮で日吉社神人を殺害した大宰権帥・藤原季仲の罷免を要求。10月28日、季仲罷免
1105年 延暦寺 藤原季仲の断罪を要求。12月29日、季仲を周防に配流
1108年 天仁元 延暦寺・園城寺 東寺の僧が尊勝寺灌頂阿闍梨となった事を咎める
1108年 天仁元 延暦寺 大衆数千人が神輿を奉じて入洛。朝廷、源平二氏の兵を派遣して防御
1112年 天永3 延暦寺 尊勝寺灌頂阿闍梨の事を訴える
1112年 天永3 下総香取社 藤原忠実に国司の非法を訴える
1113年 永久元 興福寺 清水寺別当・円勢(延暦寺系)の罷免を要求。閏3月22日、円勢に代えて永縁(興福寺系)を補任
1113年 延暦寺 大衆数千人が清水寺の房舎を破壊して、法皇御所に参集。興福寺衆徒による祇園社神人暴行を訴える。白河法皇、権少僧都・実覚を流罪として延暦寺を慰撫
1113年 興福寺 裁定の撤回を求め、京中で延暦寺大衆と対峙。4月10日、朝廷が両寺に勅命。僧徒が兵仗を帯びて上京する事を禁止
1113年 興福寺 延暦寺攻撃を企図。朝廷、平正盛・平忠盛・源重時を宇治に派遣。4月30日、合戦となり衆徒追却(永久の強訴)
1114年 永久2 興福寺 金峰山別当の不法を訴える
1116年 永久4 興福寺 讃岐守・藤原顕能を訴える
1116年 園城寺 法勝寺を訴える
1117年 永久5 興福寺 春日神人を暴行した丹波雅康を訴える
1120年 保安元 興福寺 和泉守・藤原雅隆による春日神人暴行を訴える。雅隆、罷免
1123年 保安4 延暦寺 越前守・平忠盛が逮捕した悪僧の釈放を要求。忠盛と源為義に撃退され、神輿を棄てて逃走。9月12日、白河法皇、神輿を修造して日吉社に返還
1137年 保延3 興福寺 権僧正・定海が権僧正・玄覚を超えて僧正に任じられたことに抗議。2月16日、定海に代わり、玄覚を僧正に任命
1138年 保延4 延暦寺 加茂社領下司の日吉祭参加停止を要求。朝廷認可により帰山の途中、加茂神人の家宅を破壊
1144年 天養元 興福寺 藤原頼長に荘園検注を実施した大和守・源忠清を流罪にするよう要求
1147年 久安3 延暦寺 加賀白山社を末社にする事を要求。5月4日、鳥羽法皇、認可。
1147年 延暦寺 祇園社頭の闘乱で宝殿が破損した事につき、平忠盛・清盛父子の処罰を訴える(祇園闘乱事件)。7月24日、清盛、贖銅三十斤
1148年 久安4 興福寺 入京を図る(理由不明)。27日、藤原忠実が慰撫
1150年 久安6 興福寺・春日社 同寺別当の長期空席を訴える。16日、隆覚を別当に補任
1154年 久寿元 延暦寺 加賀国住人・林大夫光家が赦免された事に抗議。光家、再び禁固
1160年 永暦元 延暦寺 筑前竈門宮・安楽寺の焼亡、および菅原貞衡の事を訴える
1161年 応保元 延暦寺 日吉神輿を奉じて入洛、菅原資成と菅原貞衡の処分を訴える。17日、資成配流、貞衡解官
1162年 応保2 延暦寺 覚忠の天台座主補任を拒絶
1163年 長寛元 延暦寺 園城寺の僧を比叡山で受戒させる事を要求。5月22日、園城寺に延暦寺での受戒を命令
1163年 興福寺 延暦寺を興福寺の末寺とし、園城寺の僧を興福寺で受戒させる事を要求。6月9日、延暦寺大衆が園城寺を攻撃し、堂塔房舎を焼く
1165年 永万元 延暦寺・興福寺 8月7日の二条天皇葬儀において墓所に掛ける寺額の順序を巡る争論により、延暦寺大衆が清水寺を焼き討ち。興福寺衆徒も入京するが、朝廷が制止
1165年 興福寺 天台座主・俊円の流罪を要求、28日、俊円配流
1167年 仁安2 興福寺 前別当・恵信の流罪を訴える。25日、恵信を伊豆へ配流
1169年 嘉応元 延暦寺 尾張国目代が美濃国平野荘住人を暴行した事件につき、尾張知行国主・藤原成親の処罰を訴えて内裏に乱入(嘉応の強訴)。
1170年 嘉応2 延暦寺 裁定逆転に抗議。朝廷、武士を鴨河原に派遣して防御。2月6日、時忠・信範召還、成親解官。4月28日、成親還任
1171年 承安元 興福寺 前下野守・信遠の処罰および末寺荘園50余箇所の立券を求める。松殿基房が慰撫
1172年 承安2 興福寺 平重盛の家人による春日神人殺害を訴える。朝廷、武士を派遣して制止
1173年 承安3 延暦寺 6月25日の興福寺による多武峰攻撃に対して報復を企図。朝廷、延暦寺を慰撫。10月9日、多武峰襲撃の首謀者・覚輿を播磨に配流
1173年 興福寺 覚輿の宥免および天台座主の流罪を訴える。後白河法皇、武士を宇治に派遣して制止。11日、東大寺・興福寺以下南都15大寺ならびに諸国末寺荘園の没官を命じる
1177年 治承元 加賀白山社 白山神輿を奉じ、加賀国目代・藤原師経の不法を訴える(白山事件)。30日、師経を備前に配流
1177年 延暦寺 日吉社・白山社の神輿を奉じて入洛、加賀守・藤原師高の流罪を訴える(兵の放った矢が神輿に当たる)
1177年 延暦寺 近江国・粟津で大衆が明雲を奪還。29日、後白河法皇、延暦寺攻撃を企図し武器を携帯して京中を往来する輩の捕縛、諸国司への延暦寺の末寺・荘園の注進、近江・越前・美濃の国内武士動員を行う。
1178年 治承2 延暦寺 後白河法皇が園城寺で灌頂を受けることに反発し、園城寺攻撃を企図。朝廷、使者を派遣して慰撫
1179年 治承3 興福寺 治承三年の政変で配流された前関白・松殿基房の帰京を求める
1180年 治承4 園城寺 平氏討伐計画が露見した以仁王が園城寺に逃げ込む(以仁王の挙兵)。18日、延暦寺と興福寺に救援を要請
1180年 延暦寺 福原から平安京への還都を要求。27日、朝廷、延暦寺・園城寺に源頼朝に呼応する僧徒の糾弾を命じる。12月11日、平氏軍、源氏に応じた両寺の僧徒を掃討
1180年 興福寺 衆徒が近江源氏に呼応して蜂起。28日、平重衡、興福寺・東大寺を攻撃(南都焼討)。翌年1月4日、興福寺・東大寺の寺領を没収、僧綱の官職を解く
1185年 文治元 興福寺 南都焼討をした平重衡の身柄引き渡しを要求。23日、重衡斬刑
1188年 文治4 石清水八幡宮 頼朝の御家人・松井宗長を訴える。朝廷、宗長を土佐に配流
1191年 建久2 延暦寺 日吉・祇園・北野の神輿を奉じて入洛。日吉社の神鏡を破損させた佐々木定綱・定重父子の断罪を訴える(建久二年の強訴)。
1194年 建久5 延暦寺 栄西・能忍による禅宗布教を糾弾。朝廷、布教を禁止
1198年 建久9 延暦寺 西塔・横川の大衆が執当・実誓を訴える。実誓、禁獄
1198年 興福寺 和泉守・平宗信を訴える。宗信、罷免
1200年 正治2 延暦寺 権中納言・徳大寺公継を訴える。公継、処罰
1201年 建仁元 興福寺 訴える事あり(理由不明)。神木を金堂前に遷座
1202年 建仁2 延暦寺・興福寺 祇園社と清水寺の境界争いに、両寺の僧徒が介入。朝廷、裁決を下す
1203年 建仁3 延暦寺 寺内の学生と堂衆の抗争につき、学生が堂衆の横暴を訴える。10月15日、朝廷、佐々木経高・盛綱らの兵を派遣して堂衆を討伐。
1205年 元久2 興福寺 法然の唱える専修念仏の禁制を要求
1211年 建暦元 延暦寺 学生が堂衆の帰山許可に抗議。朝廷、慰撫
1213年 建保元 延暦寺 越前守護代官と抗争。朝廷、代官を処罰
1213年 興福寺 延暦寺が清水寺を末寺とした事を訴える。18日、朝廷、葉室光親を宇治に派遣して慰撫。天台座主・公円を罷免
1214年 建保2 延暦寺 大衆が園城寺を襲撃して堂宇房舎を焼く。5月7日、朝廷、幕府に園城寺の造営を命じる
1214年 興福寺 園城寺の要請に応じ、神木入洛を図る。朝廷、宇治・勢多・淀に兵を派遣して制止
1218年 建保6 延暦寺 石清水領筥崎宮留守・行偏らによる、延暦寺末寺・大山寺僧の殺害に抗議して、日吉・祇園・北野の神輿を奉じて入洛
1219年 承久元 熊野 湯浅宗光を訴える。宗光、対馬に配流
1226年 嘉禄2 金峰山 高野山衆徒による吉野蔵王堂放火に抗議。入京を図るが、制止。15日、朝廷、高野山衆徒の帰住と覚観の捕縛を命じる
1227年 安貞元 熊野 神輿入洛を図る(理由不明)。六波羅探題、制止
1227年 延暦寺 専修念仏の禁制を要求して蜂起。法然の大谷墳墓を破壊。7月6日、隆寛を陸奥、空阿弥陀仏を薩摩、幸西を壱岐へ配流(嘉禄の法難)
1228年 安貞2 興福寺 多武峰襲撃の件で罷免された別当・実尊の還補を訴える
1228年 延暦寺 多武峰の焼亡を訴える。朝廷、武士を派遣して制止
1229年 寛喜元 延暦寺 六波羅探題の武士による日吉社宮仕殺害を訴える。5月4日、三善為清を日向、大江貞知を大隈へ配流
1229年 東大寺 九条道家に僧綱が訴える(理由不明)
1234年 文暦元 興福寺 大安寺相論の事につき神木動座
1234年 金峰山 山伏が九条教実の邸に群参して訴える
1235年 嘉禎元 延暦寺 佐々木信綱の子・高信による日吉社宮仕殺害に抗議して、神輿を奉じて入洛。武士と交戦。8月8日、朝廷、高信を豊後に配流
1235年 興福寺 寺領について訴えるため、神木動座
1235年 興福寺 石清水神人との水利争いを訴えて、神木を奉じて入洛。朝廷、六波羅探題に命じて制止
1236年 嘉禎2 延暦寺 前年の強訴における首謀者の宥免を幕府に愁訴
1236年 興福寺 衆徒が城を築き兵具を備える。幕府、同寺の荘園を没収して、衆徒を鎮圧
1236年 興福寺 衆徒が再蜂起。幕府、大和に守護・地頭を設置。11月14日、南都鎮静化により、大和の守護・地頭を撤廃。荘園を返還
1239年 延応元 延暦寺 四天王寺別当職の人事について、入洛を企図。六波羅探題、兵を派遣して防備
1240年 仁治元 延暦寺 幕府に専修念仏禁制を要請
1249年 建長元 延暦寺 四天王寺別当職の人事について訴える
1255年 建長7 金峰山 神領地頭・源資国を訴える
1256年 康元元 北野宮 検非違使・章国を訴える。章国、越前へ配流
1257年 正嘉元 園城寺 戒壇設立の勅許を求める。朝廷、六波羅探題に命じて鎮定
1257年 興福寺 寺領の事につき、神木遷座
1258年 正嘉2 延暦寺 園城寺戒壇の設立中止を訴えて、日吉神輿を奉じて入洛。5月1日、朝廷、園城寺戒壇宣下を停止
1258年 園城寺 戒壇設立の勅許を求め、幕府に訴える
1260年 文応元 延暦寺 園城寺への三摩耶戒壇建立許可に抗議して、日吉・祇園・北野の神輿を奉じて入洛。六波羅探題、鎮定。19日、朝廷、戒壇勅許を撤回。代償として四天王寺別当職を園城寺に与える
1264年 文永元 延暦寺 四天王寺別当職を園城寺に付与した事、前権大納言・藤原実藤による宮仕殺害を訴える。4月6日、四天王寺別当職を延暦寺に移管。実藤、淡路へ配流
1264年 興福寺 別当・円実を訴える。朝廷、円実の寺務を停止
1266年 文永3 興福寺 前別当・円実の流罪を要求
1267年 文永4 延暦寺 天台座主・澄覚の罷免を要求。澄覚、辞任
1268年 文永5 北野社 上皇御所に群参して、社堂修造を要請。許可
1269年 文永6 延暦寺 青蓮・梶井両門跡の人事につき天台座主・慈禅を訴えて、神輿を奉じて入洛。六波羅探題、出兵して制止
1275年 建治元 興福寺 寺領の事につき、神木遷座
1277年 建治3 興福寺 訴える事あり(理由不明)、神木遷座
1278年 弘安元 延暦寺 園城寺金堂供養を勅会に準じる措置に反発して、神輿を奉じて入洛。15日、朝廷、園城寺に与えた宣旨を撤回
1278年 興福寺 参議・葉室頼親を訴えて、神木を奉じて入洛。頼親、安芸へ配流
1279年 弘安2 石清水八幡宮 赤山神人との裁判遅延に抗議して、神輿を奉じて入洛。撃退され、神輿を棄てて逃走
1281年 弘安4 興福寺 石清水神人の事を訴えて、神木を奉じて入洛
1281年 金峰山 蔵王神輿を奉じて入洛
1282年 弘安5 延暦寺 四天王寺別当職の延暦寺所属を要求
1282年 興福寺 源具房・源資平を訴える。具房を安芸、資平を越前に配流(翌年3月11日、両名とも召還)
1282年 石清水八幡宮 源氏公卿配流に抗議して、神輿を奉じて入洛
1283年 弘安6 延暦寺 四天王寺別当職の人事につき、神輿を奉じて禁中に乱入し、四脚門破壊など乱暴狼藉。後宇多天皇、近衛殿に避難
1291年 正応4 興福寺 寺領吉田荘伝教院の事を訴える
1291年 延暦寺 四天王寺別当職の人事について訴える
1291年 興福寺 公卿の処罰を求めて、神木を奉じて入洛。翌年1月14日、藤原冬季・教経・光泰・宗冬・資高の5名を放氏に処す。4月22日、継氏(処分解除)
1292年 正応5 延暦寺 神輿を動座。洛中騒動
1294年 永仁2 東大寺 同寺八幡宮神輿を奉じて入洛
1294年 興福寺 木津に神木を動座
1297年 永仁5 多武峰 神宝を奉じて入洛
1301年 正安3 興福寺 大和の民と闘争、神木遷座
1302年 乾元元 興福寺 神木遷座(理由不明)
1302年 興福寺 神木遷座(理由不明)
1303年 嘉元元 興福寺 神木遷座(理由不明)
1303年 興福寺 河内坂田二荘において税を強奪した延暦寺僧、慈俊・頼俊を訴える。両名、配流
1304年 嘉元2 興福寺 6月に配流された興福寺僧の所領跡における地頭職の撤廃を求める。幕府、地頭職停止
1307年 徳治2 興福寺 近江守護・佐々木頼綱、達磨寺・仙海を訴えて、神木を宇治平等院に遷座。官兵、宇治橋を壊して防備。翌年7月12日、頼綱を尾張、仙海を三河へ配流
1308年 延慶元 延暦寺 東寺故僧正・益信へ本覚大師の号を贈った事に抗議。益信の大師号停止
1308年 東大寺 延暦寺の濫訴に反発し、同寺八幡宮神輿を動座
1309年 延慶2 東大寺 八幡宮神輿を奉じて入洛。益信の大師号回復を要請。7月20日、朝廷、益信の大師号を回復
1309年 延暦寺 益信の復号停止を訴えて、神輿を奉じて入洛
1309年 延暦寺 益信の復号停止を訴えて、再び入洛。翌年4月2日、延暦寺と仁和寺が益信大師号につき争論。11月30日、東寺が益信の大師号を辞退
1312年 正和元 興福寺 多武峰を訴える。6月9日、衆徒が多武峰を襲撃
1312年 東大寺 八幡宮神体を動座して訴える
1312年 興福寺 神木を奉じて入洛。多武峰を訴える
1314年 正和3 興福寺 神木を奉じて入洛。多武峰を訴える
1314年 閏3月4日 石清水八幡宮 神輿入洛。4月13日、帰座
1315年 正和4 東大寺 幕府が摂津渡辺・兵庫尼崎の関を停止した事に抗議、神輿を奉じて入洛
1317年 文保元 興福寺 大納言・花山院師信を訴えて、放氏とする。6月12日、継氏
1318年 文保2 興福寺 神木を金堂前に動座
1319年 元応元 東大寺 兵庫関の大覚寺への寄進に反対し、神輿を奉じて入洛。19日、六波羅探題、七条河原で制止
1319年 石清水八幡宮 神輿を奉じて入洛。検校栄清が防ぎ、神人を殺傷
1320年 元応2 興福寺 神木を動座
1320年 石清水八幡宮 神輿入洛
1320年 延暦寺 日吉神人を禁獄した検非違使別当・吉田隆長を訴える。隆長、阿波へ配流
1321年 元亨元 興福寺 神木を動座
1325年 正中2 興福寺 前門主・別当覚尊を奉じて禅定院を襲撃し、現門主・聖信を追放。神木を金堂に動座。7月、聖信の党が禅定院・竜華樹院を焼く
1325年 延暦寺 大衆入洛
1327年 嘉暦2 興福寺 神木を木津に動座
1327年 石清水八幡宮 神輿入洛
1330年 元徳2 延暦寺 一向宗徒追放を訴える
1333年 元弘3 延暦寺 護良親王に呼応して六波羅探題と合戦。法勝寺で敗退
1335年 建武2 興福寺 楠木正成の「井水違乱」を訴える。神木を木津に動座
1336年 建武3 興福寺 神木動座
1339年 暦応2 興福寺 神木を移殿に動座
1340年 暦応3 興福寺 開住西阿の寺領押領を訴えて、神木を木津に動座。入洛
1340年 東大寺 幕府による伊賀党処罰緩和に抗議、神輿を大仏殿に移す
1340年 延暦寺 佐々木道誉・秀綱父子による妙法院焼き討ちを訴える。両名、配流
1340年 興福寺 神木を奉じて入洛。西阿の寺領押領を訴える
1343年 康永2 興福寺 神木を金堂、次いで宇治平等院に動座
1343年 延暦寺 近江国浅井郡国衙分の事を訴えて、神輿を西塔釈迦堂に動座。同月、興福寺も同様の件を訴えて、宇治平等院釈迦堂に神木を動座
1344年 康永3 東大寺 伊賀国名張郡の事を訴えて、神輿を奉じて入洛。幕府、仁木義長を派遣して制止。神輿は五条橋に棄てられ、東寺に遷座
1344年 興福寺 摂津国鵜殿関を所望のため、神木を金堂に動座。不許可。翌年1月、神木・神輿在京により、朝廷の正月儀式行事が停止
1345年 貞和元 延暦寺 神輿を動座して天龍寺造営供養への光厳上皇臨幸阻止と、開山・夢窓疎石の処罰を要求。東大寺・興福寺も同調。8月14日、上皇臨幸中止
1345年 興福寺 神木を木津、次いで宇治平等院に動座。柳原資明、放氏
1346年 貞和2 石清水八幡宮 検非違使庁下部が駒形神人を刃傷させた事に抗議
1346年 延暦寺 持明院殿へ訴える
1347年 貞和3 興福寺 神木動座
1348年 貞和4 延暦寺 神輿を横川に動座、近江国栗見本荘の事を訴える。17日、帰座
1348年 興福寺 神木動座
1349年 貞和5 延暦寺 毘沙門堂実尊による児童殺害を訴え、神輿を山上に移す。8月18日、北朝、実尊を信濃へ配流
1351年 観応2 延暦寺 神輿を山上に動座して、佐々木氏頼の濫妨を訴える
1355年 文和4 延暦寺・興福寺 両寺がそれぞれ神輿・神木を動座
1356年 延文元 興福寺 神木を金堂に動座、寺領越前坪井・川口両荘の事を訴える
1356年 東大寺 伊賀国人の同寺八幡宮神人殺害を訴え、神輿を奉じて入洛。延文5年(1360年)2月3日、帰座
1357年 延文2 石清水八幡宮 神人が日吉社の騎馬役を拒否し、神輿を奉じて入洛
1357年 延暦寺 近江守護・佐々木氏頼による寺領押領と日吉神人殺害を訴え、神輿を山上に動座
1358年 延文3 延暦寺 佐々木氏頼の断罪を訴え、入京を図る
1361年 康安元 興福寺 近江守護が寺領近江坂田・大国両荘に侵入し、神人を殺害して民家を焼いた事を訴え、神木を奉じて入洛。朝廷、幕府に命じて制止
1363年 貞治2 石清水八幡宮 祇園社馬上役を拒否し、神輿を奉じて入洛。神輿を投棄
1364年 貞治3 興福寺 神木を奉じて入洛し、越前守護・斯波高経の河口荘掠奪を訴える
1367年 貞治6 南禅寺 園城寺衆徒が南禅寺設置の関二ヶ所を破壊し、禅僧を殺害した事を訴える。幕府、園城寺の三関を焼く
1367年 石清水八幡宮 播磨社領の事を訴え、神輿を奉じて入洛。20日、帰座
1368年 応安元 石清水八幡宮 神輿を奉じて入洛。幕府、兵を派遣して制止
1368年 延暦寺 南禅寺の定山祖禅が『続正法論』で諸宗を非難していることに反発し、祖禅と春屋妙葩の流罪を要求。朝廷、天台座主を通じて慰撫。
1369年 応安2 延暦寺 神輿を奉じて入洛し、南禅寺を訴える。法成寺で土岐義行に防がれ、火を放って撤退
1369年 延暦寺 南禅寺を訴える。幕府、南禅寺の楼門を破壊。京都五山住持、退院
1370年 応安3 石清水八幡宮 負物催促(借金取立て)と称し、神輿を奉じて入洛。社務栄清が大渡で防ぎ、交戦
1371年 応安4 興福寺 一乗院門主・実玄と大乗院門主・教信の罷免を求め、神木を奉じて入洛。さらに両院を攻撃し、両人の流刑を要求
1374年 応安7 延暦寺 神輿修造の延滞を訴え、日吉・祇園・北野の神人とともに神輿六基を奉じて入洛
1374年 興福寺 大乗院教信、前参議・安居院行知、三宝院僧正・光済らを訴える。教信以下、流罪
1377年 永和3 興福寺 東北院兼円の処罰を訴え、神木を宇治に動座。10月10日、細川頼元が討伐。11月26日、神木帰座
1378年 永和4 興福寺 寺社領の事を訴え、神木動座
1379年 康暦元 興福寺 幕府が要求を聞き入れない事に怒り、神木を奉じて入洛。翌年12月15日、神木帰座
1381年 永徳元 石清水八幡宮 神輿を奉じて入洛
1384年 至徳元 石清水八幡宮 神輿を奉じて入洛。東寺に入る
1413年 応永20 延暦寺 日蓮宗妙本寺・具覚の僧正補任撤回を要求。配下の犬神人が、法華堂を破壊
1415年 応永22 延暦寺 近江守護・六角満高を訴え、神輿を奉じて入洛。24日、幕府制止
1418年 応永25 熊野 守護・畠山満家による社領違乱を訴え、神輿を奉じて田辺に至り、満家の兵と交戦。幕府、両者を和解させる
1424年 応永31 石清水八幡宮 薬師堂に集結し、幕府に新座米売買停止などを要求
1424年 石清水八幡宮 再び強訴。幕府、兵を派遣して制止
1427年 応永34 延暦寺 前参議・高倉永藤を訴える。永藤、流罪
1433年 永享5 延暦寺 十二ヶ条からなる訴状を掲げ、光聚院猷秀、飯尾為種、赤松満政らの処罰を求める。25日、幕府、園城寺衆徒に命じて勢多橋を警固
1433年 延暦寺 再び光聚院猷秀らの処罰を要求。26日、猷秀を土佐、飯尾為種を尾張へ配流。赤松満政、幽閉
1433年 延暦寺 園城寺の強訴不参加を責めて同寺を襲撃。幕府、斯波義淳に命じて園城寺救援。11月27日、幕府、山名・斯波氏の軍を派遣して延暦寺を攻撃。
1434年 永享6 延暦寺 鎌倉と通じて将軍・足利義教を呪詛。幕府、六角満綱・京極持高らを派遣して寺領を没収。大衆、抗議のため日吉神輿を奉じて入洛
1434年 延暦寺 神輿を奉じて入洛。幕府の兵に撃退され、神輿を棄てて逃走
1434年 延暦寺 大衆、根本中堂に立て籠もる。19日、幕府、諸将を派遣して攻撃。26日、土岐持頼・持益の軍が坂本を攻撃。12月6日、大衆降伏。
1434年 永享7 延暦寺 2月4日に幕府が延暦寺僧を捕らえて処刑した事に抗議し、大衆が総持院・根本中堂を焼いて24人自害。翌年10月11日、根本中堂上棟式
1443年 嘉吉3 園城寺 金堂に集結して訴える
1444年 文安元 延暦寺 釈迦堂に集結して訴える
1444年 延暦寺 坂本の馬借が、妙法院門主・日厳院の改易を要求
1449年 宝徳元 延暦寺 訴える事あり
1450年 宝徳2 熊野 諸国の山伏が新熊野に参集し、神輿を奉じて和泉半国守護・細川常有邸の襲撃を図る
1451年 宝徳3 延暦寺 訴える事あり、神輿動座
1451年 興福寺 幕府による兵庫関接収に抗議し、神木を奉じて入洛。幕府、関を返還
1451年 延暦寺 神輿を奉じて入洛。幕府、綸旨を請い、天台座主を通じて慰撫
1455年 康正元 興福寺 大和七大寺の衆徒が畠山義就による片岡某討伐を阻止するため、神木を奉じて入洛。管領・細川勝元、制止
1455年 延暦寺 幕府が同寺領・近江中荘を円明坊に与えた事に反発し、神輿動座。幕府、同荘を延暦寺に還付
1456年 康正2 興福寺 幕府の用銭賦課を拒否して蜂起。幕府、僧・懐賢を処刑
1458年 長禄2 延暦寺 延暦寺領とされていた東寺領・京都八条唐橋の田地の件で訴える。幕府、東寺に同地を還付
1463年 寛正4 興福寺 細川勝元の寺訴阻止に反発し、春日社の門を閉ざして神木動座
1466年 文正元 延暦寺 京極持清の不法を訴え、神輿を奉じて入洛。祇園社に集結して、持清邸襲撃を企図。侍所所司代・多賀高忠逃亡。失火により祇園社焼失
1467年 応仁元 延暦寺 日吉神輿を奉じて入洛
1471年 文明3 延暦寺 東路を塞ぎ、真野新関の廃止を求める。幕府、認可
1482年 文明14 延暦寺 神輿を横川中堂に動座し、近江守護・六角高頼による寺領押領を訴える。闘争・放火により中堂・神輿が焼失
1485年 文明17 興福寺 幕府が興福寺所管の兵庫関月保銭を没収して、等持寺・相国寺・北野社などに与えた事に抗議。幕府、興福寺に返還
1499年 明応8 延暦寺 前将軍・足利義尹に呼応。管領・細川政元、兵を派遣して根本中堂以下の堂宇を焼く
1501年 文亀元 興福寺 細川政元配下の赤沢朝経による寺領押領を訴え、神木を別殿に動座。6月5日、神木帰座(最後の神木移座)
1502年 文亀2 興福寺 幕府が赤沢朝経を処罰しない事に反発。南都七大寺および春日社が全ての門を閉鎖
1505年 永正2 東大寺 多武峰衆徒が末寺の崇敬寺・阿倍寺を焼いた事を訴える
1517年 永正14 興福寺 山城普賢寺悪党成敗の遅延に対し、七大寺・十五大寺の衆徒とともに訴える
1524年 大永4 延暦寺 日蓮宗徒の追放を管領・細川高国を通じて朝廷に奏請
1536年 天文5 延暦寺 日蓮宗の法華宗号停止を幕府に訴える。不許可により、兵を率いて入京。日蓮衆徒を攻撃し、寺院21ヶ所を焼く(天文法華の乱)
1539年 天文8 延暦寺 朝廷が知恩院始祖・法然に光照菩薩号を贈ろうとした事に抗議。贈号中止
1540年 天文9 延暦寺 朝廷が根来寺開祖・覚鑁に自性大師号を贈った事に反発し、神輿を奉じて訴える。朝廷、大師号の授与を停止
1568年 永禄11 延暦寺 永禄寺が年号を寺号に用いた事に反発し、朝廷に訴える。南蛮寺に改称
1569年 永禄12 延暦寺 織田信長による寺社領没収を朝廷に訴える。翌年9月25日、信長、比叡山を包囲して降伏を勧告。僧徒拒否
1571年 元亀2 延暦寺 朝倉氏に呼応。織田信長、比叡山を攻撃して全山焼尽(比叡山焼き討ち)