【言っておきたい古都がある】

陰陽師の真実(その12)

~安倍晴明の子孫は京都から逃げていた~

 前回の安倍有世までは誰が見てもそれと分かる安倍晴明の子孫だったが、時代がずっと下がって江戸期になると名字が安倍から土御門に変わっている。その理由は前々回に述べたとおりであるが、実は名字だけではなくその実態も変わってくる。
 何はともあれ、実際に土御門を名乗ったのは有世の孫である有宣のときらしい。その後、陰陽師としての公的な仕事(カレンダーを作ったり日食や月食を予測すること)は安倍氏と加茂氏が担当していたが、応仁の乱が始まると若狭に避難してそのままずっと留まることになった。そして室町時代が事実上終って戦国時代になっても若狭に住んでいた。

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 ん? 戦争が終ったら京の都に帰ればよいではないか。

 しかし、帰るに帰れない事情があったのである。

 応仁の乱が終ると室町幕府の権威は失墜して、それを決定付けたのが明応の政変(1493)であった。
 この事件は管領(将軍を補佐し、内外の政務を統括する責任者)の細川政元が将軍の足利義材を追放して足利義澄を将軍にしたというもの。これで政元は管領職の世襲化と独占権、そして将軍の廃立権も手に入れたのだが、ほどなく自らの後継者争いに根ざす内紛で暗殺されてしまった。お気の毒としか言いようがない。
 そして政元の養子である澄元と高国が後継争いを繰り広げることになる。

f43_2 永正5年(1508)、この機に乗じ、追放されていた足利義材が大内義興と結んで足利義稙と改名して京都に帰ってくると、細川高国が呼応して挙兵。足利義澄と細川澄元は逃亡した。
 
 しかし細川澄元だって黙ってはいない。永正6年にリターンマッチとして如意ヶ岳の戦いを挑んだが、これは敗北。
 捲土重来を喫して2年後の永正8年(1511)再び京都に進軍。一旦は高国たちを丹波に追いやったのだが、8月24日、両軍は京都の船岡山で戦いに突入したのであった。
 結果は高国側の圧勝。大敗を喫した澄元は四国に亡命。
 こうして京都での実権は細川高国が握ることになった。足利義稙は異例の将軍再任を果たしたことになる。
 
 ところが、大内義興が地元の事情で帰国すると高国は義稙と対立。大永元年(1521)かつて自分が追い出した足利義澄の子である義晴を擁立して新将軍とし、義稙を追放した。
 ところが高国は今度は細川澄元の子である晴元と対立することなり、大永7年(1527)の桂川原の戦いで破れ、没落する。

 まあ、だいたい、応仁の乱の後の京都というのはこんな状態だったのである。
 中々複雑怪奇で、読者の皆さんも1回読んだぐらいでは分からなかったかもしれない。
 こんな状況ではたとえ陰陽師といえども京都には帰りたくないだろう。
 いや、ひょっとしたら、もう帰っても良いかどうか、占っていたかもしれないが。
 

土御門家【つちごもんけ】の星祭り (土御門家墓所、福井県おおい町名田庄)

土御門家【つちごもんけ】の星祭り
(土御門家墓所、福井県おおい町名田庄)
http://www.natasho.co.jp/koyomi/rekisi/

 安倍晴明の一族たる土御門家にとっての至上命令は「勝ち馬に乗らねばならない」ということ。
 負け組に付くわけにはいかないのである。
 故に、どうなるのか分からないままの状態の京都に帰るわけにはいかなかった。ずっと様子見を続けて帰るタイミングを決断できなかったのだ。そうして若狭に住み着いたままズルズルと歳月を重ね、京都への復帰には織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった有名人の登場を待たねばならなかったのである。
 随分と長いこと待ったものだ。

 だいたい、占いもやる陰陽師の安倍一族なら、その占いで誰が勝つのか分からなかったのか?
 他人のことは占えても自分のことは占えないのか。
 これなら世界の終わりのときを予言できるほどのマヤ文明が、その世界の終わりよりも先に自分たちが滅んでしまうのが分からなかったのと同じではないか。

 まあ、占いとか予言などというものは、こんなものである。
(来週に続く)

 【言っておきたい古都がある・129】