巷では働き者が京女だった

市井の京風情/桂女・大原女 by 五所光一郎

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「東男に京女」とは最高の取り合わせを表したものであるが、東男を引き合いに出しているところからすると、江戸期以降の評価であろう。
その頃であれば、京女は、舞妓さんや嶋原の大夫を筆頭とする花街の女性を指していたものか。
平安の都の時代から考えると、京女、京美人は歴史上にもあまた登場してくる。
しかしながら、京女の確たる定義はなかなか見当たらない。
小野小町や紫式部などの有名人は語りつくされているが、巷ではどんな女性像が多かったのだろうか。どうも働き者ばかりであったようである。
京都で働く女性といえば、機を織る人、染める人、多々あるが、洛外からやってくる行商人の行き交う姿やその衣装に、舞妓さんに次ぐ京風情が感じられているようだ。


では、洛外からやってくる行商人をあげてみよう。
桂女(かつらめ)」は京に都が遷った頃から、桂川で鵜飼をする夫が捕らえた鮎を桶にいれ、洛中へ持ち運び売りさばいていた歴史を持ち、太閤秀吉の朝鮮出兵にあたり陣中見舞を行い、勝運の幟を立て見送った。その褒美の一つに、皇室、武家出入りの免罪符まで手にしたと「安斎随筆」に記されている。
「くらかけー いらんかぇー。しょうぎに はしご いらんかぁぃなぁー」と呼びまわし、洛北梅ケ畑からは「畑の姥」が洛中を練り歩いたとある。夫は山で木を切り出し、梯子や餅箱を作る。商いし、お金を扱うのは女性で、しっかり者となり、がめつさまでも身についてくるのは当然の理である。経済的な実権を持ち、多くの決定権をも握っていたのは女性であることは想像がつく。
朝露が光る取立ての花を頭にのせ売り歩くのは「白川女(しらかわめ)」だ。
白い脚絆に白手ぬぐい、紺の絣(かすり)を身につけた清楚な姿で、「はなー いらんかぇー 花どうどすえー」と、町家から町家へと小路を練り歩いていた。
北白川は花崗岩質の土地で男は石工、その砂の混じった土壌は花の栽培に適し、女は花の栽培と行商という、すみ分けがはっきりしていたという。
白川の北東には「八瀬女(やせめ)」、更に大原の里からは「大原女(おはらめ)」が洛中にやってきていた。今では保勝会により5月後半の半月間「大原女まつり」が催され、5月20日には、室町時代から現代までの大原女の衣装の移り変わりを、勝林院から寂光院までの大原の里約2キロの行列で見ることができる。
藁でこさえられた輪台を頭に、薪をのせての「大原女時代行列」には、一般からも参加することが出来る。
「黒木ぃー 買わんせー 黒木ぃー召せー 黒木ぃーかわしゃんせー」と、いかがだろうか。建礼門院の官女たちが野良着を粋に着けていた時代にタイムスリップができる。


このように巷で女性が働くのが当たり前であった時代は長く続いた。
そして、女行商人(販女)の多くは,夫の仕事を援助していたのではなく,商人として対等に働いていた。

とすれば、京女は単におしとやかな美人を言うのではなさそうだ。
内に秘めた芯の強さ、情のこもった客あしらい、そういった商才の遺伝子が形成されていたと思うと、益々好奇心が高まるというものだ。




京都の伝統的な風俗を継承する婦人列
http://homepage3.nifty.com/0945/html/omaturi/jidaimaturi/2004/fujinnretu/fujin03.htm
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桂女(かつらめ)のルーツを探る (桂女の部屋)
http://hamq.jp/stdB.cfm?i=aimimami&pn=4

大原女インタラクティブ (株式会社ムラタ)
http://www.digimake.co.jp/webtown/anime/oharameiv2.html

大原女まつり(大原観光保勝会)
http://kyoto-ohara-kankouhosyoukai.net/index.html


【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
5090-070515-5月

関連歳時/文化
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