「五山の送り火」と矢田寺(寺町三条上る)の「送り鐘」で、先祖の精霊を黄泉の国(よみのくに)に見送るとされる「お盆」は終わった。
戦後に「大文字 五山の送り火」となる前までは、「十山」も送り火があったことを、明治生まれの亡き祖母が話していたことを思い出す。
「市原は『い』、鳴滝の『一』、北嵯峨が『蛇』で、観空寺村の『長刀』に、西山は『竿に鈴』や。覚えときや。十(とお)のお山に火が灯ってたんや。この頃は暗っなって、ご先祖さんも寂しいことやな。」こんな話を聞かされながら、夏休みの絵日記を描いていたものだ。
休みといえば、「お盆休み」という言葉が聞かれなくなってきている。
「お盆休み」と呼ぶよりは「夏季休暇」と呼ぶことが多くなったようだ。
ところが、「正月休み」とは呼ぶが、「冬季休暇」とは呼ばない。
正月は祝日となっているが、お盆は祝日にはなっていない。
どうも「お盆」は粗末に扱われている。そのように思えてならない。
幼少の頃「お年玉」と同じように貰える「盆の小遣い」を持って地獄絵を見に出かけ、縁日のカラクリや露店を楽しんだものだが、昨今目にすることがない。
そういう小生も長らく「盆の小遣い」をやり忘れている。
しかしながら、盆正月が国民的大移動の休暇としては営々と続いている。
マスコミは「終戦記念日」として戦没者の慰霊と帰省ラッシュは報じるも、先祖の御霊供養について微塵も触れない。せいぜい「京都の夏の風物詩」として、五山の送り火を申し訳程度に報じるのみである。
偶然の一致か不思議なことに、お盆の8月15日に、キリスト教のカトリック教徒の多い南ヨーロッパや中南米などでは、重要な祭典が盛大に開かれている。
その祭典は「聖母の被昇天」と呼ばれ、聖母マリアが肉体と霊魂を伴って天国にあげられたという日だ。その出来事を記念し、国を挙げての祝日となっているとのことだ。
これを聞くと、日本人として国が国の宗教文化を忘却の彼方に追いやっている姿に危惧を感じる。方や、一宗教を国家行事として扱っている国がある。
ふと思うに、戦勝国の押し付け憲法は、自由の名の下に戦後教育において信仰を切り捨てた。理性と現世利益にひた走る事を優先する教育が、人の心を蝕み、精神的退廃と社会の混乱を招いていると思えてならない。
理性と信仰のバランスが狂っている現実を直視するなら、今こそ信仰心を取り戻さなければならないのではないか。
欧米化に向かう近代化を正義のみに唱える欧米の横暴に巻き込まれることなく、日本の伝統文化、古くからの常識を堂々と国家が大切にしなければならない時が来ている。
音を立てて崩れていく日本の宗教ではあるが、形態だけは辛うじて残っている。
今日も駅前広場では地域の親睦などを目的としているであろう「盆踊り大会」が開かれていた。
そもそもの「盆踊り」の始まりは、月明かりが最も明るい望月(満月)の夜に、寺社の境内で老若男女が集い、地獄の苦しみを免れた亡者(成仏できない魂)の、喜び踊り廻る姿を真似て、夜明けまで踊り通す供養の念仏踊りで、お精霊(しょらい)送りの行事である。
「盆踊り」での娯楽や結束は何とか継承がされているが、慈悲や感謝の心はいつからか置き去りにされたとは言えまいか。
無宗教国と揶揄される日本ではあるが、長く文化として育まれてきた習俗は神仏との関わりを否定できないのも事実である。
櫓(やぐら)の上から聞こえる音頭が、更に郷愁を帯びて聞こえてくる。
盆踊りの世界
http://www.bonodori.net/index.htm
風流 盆踊 芸能リンク集
http://www.asahi-net.or.jp/~tq7k-wtnb/link19.htm
宗派辞典
http://www.miyagawa.com/syuha/index.html
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
戦後に「大文字 五山の送り火」となる前までは、「十山」も送り火があったことを、明治生まれの亡き祖母が話していたことを思い出す。
「市原は『い』、鳴滝の『一』、北嵯峨が『蛇』で、観空寺村の『長刀』に、西山は『竿に鈴』や。覚えときや。十(とお)のお山に火が灯ってたんや。この頃は暗っなって、ご先祖さんも寂しいことやな。」こんな話を聞かされながら、夏休みの絵日記を描いていたものだ。
休みといえば、「お盆休み」という言葉が聞かれなくなってきている。
「お盆休み」と呼ぶよりは「夏季休暇」と呼ぶことが多くなったようだ。
ところが、「正月休み」とは呼ぶが、「冬季休暇」とは呼ばない。
正月は祝日となっているが、お盆は祝日にはなっていない。
どうも「お盆」は粗末に扱われている。そのように思えてならない。
幼少の頃「お年玉」と同じように貰える「盆の小遣い」を持って地獄絵を見に出かけ、縁日のカラクリや露店を楽しんだものだが、昨今目にすることがない。
そういう小生も長らく「盆の小遣い」をやり忘れている。
しかしながら、盆正月が国民的大移動の休暇としては営々と続いている。
マスコミは「終戦記念日」として戦没者の慰霊と帰省ラッシュは報じるも、先祖の御霊供養について微塵も触れない。せいぜい「京都の夏の風物詩」として、五山の送り火を申し訳程度に報じるのみである。
偶然の一致か不思議なことに、お盆の8月15日に、キリスト教のカトリック教徒の多い南ヨーロッパや中南米などでは、重要な祭典が盛大に開かれている。
その祭典は「聖母の被昇天」と呼ばれ、聖母マリアが肉体と霊魂を伴って天国にあげられたという日だ。その出来事を記念し、国を挙げての祝日となっているとのことだ。
これを聞くと、日本人として国が国の宗教文化を忘却の彼方に追いやっている姿に危惧を感じる。方や、一宗教を国家行事として扱っている国がある。
ふと思うに、戦勝国の押し付け憲法は、自由の名の下に戦後教育において信仰を切り捨てた。理性と現世利益にひた走る事を優先する教育が、人の心を蝕み、精神的退廃と社会の混乱を招いていると思えてならない。
理性と信仰のバランスが狂っている現実を直視するなら、今こそ信仰心を取り戻さなければならないのではないか。
欧米化に向かう近代化を正義のみに唱える欧米の横暴に巻き込まれることなく、日本の伝統文化、古くからの常識を堂々と国家が大切にしなければならない時が来ている。
音を立てて崩れていく日本の宗教ではあるが、形態だけは辛うじて残っている。
今日も駅前広場では地域の親睦などを目的としているであろう「盆踊り大会」が開かれていた。
そもそもの「盆踊り」の始まりは、月明かりが最も明るい望月(満月)の夜に、寺社の境内で老若男女が集い、地獄の苦しみを免れた亡者(成仏できない魂)の、喜び踊り廻る姿を真似て、夜明けまで踊り通す供養の念仏踊りで、お精霊(しょらい)送りの行事である。
「盆踊り」での娯楽や結束は何とか継承がされているが、慈悲や感謝の心はいつからか置き去りにされたとは言えまいか。
無宗教国と揶揄される日本ではあるが、長く文化として育まれてきた習俗は神仏との関わりを否定できないのも事実である。
櫓(やぐら)の上から聞こえる音頭が、更に郷愁を帯びて聞こえてくる。
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http://www.bonodori.net/index.htm
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http://www.asahi-net.or.jp/~tq7k-wtnb/link19.htm
宗派辞典
http://www.miyagawa.com/syuha/index.html
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
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