神輿洗いを終え、鉾も立ち、駒形提灯に灯が点ると、祇園囃子が聞こえてくる。
山鉾の巡行のあと、祇園の神輿が寺町の御旅所に「おいで」になるまであと三日である。
今年の祇園祭は「稚児」に興味を置いて祭見物をしている。
日本の祭に稚児はつきもので、厚化粧をなし額に位星(くらいぼし)を入れ、稚児装束に立烏帽子・天冠をつけている。
稚児の類型でいうと舞踊・芸能型、行列型、よりまし(依り代)型の三種類があるようだ。
17日山鉾巡行で長刀鉾にのる生き稚児の「稚児舞」と「注連縄切り」。
これが、全国の新聞TVで毎年報じられる祇園祭のお決まりである。
どの鉾にも生き稚児が乗っていたといわれる山鉾(船鉾は除く)には、長刀鉾の他は稚児人形が乗せられ現在は巡行しているからかもしれない。
祇園祭の山鉾にのる稚児は、鉾のシンボルであり、よりましといわれている。
よりましとは神霊が宿る対象物のことであるから、山鉾の稚児に神霊を降臨させてもらい、疫病を退散させると信仰していたことになる。
山鉾のシンボルとなる稚児は「神使い」となり、町や国を救うといわれる由縁である。
日本古来の信仰の原点には自然崇拝の考え方があり、あらゆる物に神や精霊や魂などの霊的存在が宿るとしていることからすると、無垢な幼児が最大のよりましであったに違いなく、選ばれることは計り知れない名誉であったに違いない。
しかし、祇園祭の生き稚児は長刀鉾の生き稚児だけではないのである。
7日の七夕の節句に、六名の稚児社参があったのが綾傘鉾である。
山鉾巡行の日には、差し掛け傘がなされた稚児が、棒振り鬼踊りと綾傘鉾の先導をしているのでお馴染みである。
10日の「お迎え提灯」の折にも、祇園石段下で稚児の姿を見た。
騎乗し水干をつけた三名の厚化粧の少年である。
額に黒の位星が二つ描かれていた。鉾立ての日に鉾町で披露される生き稚児とは明らかに違ういでたちであった。狩装束のようで綾藺笠(あやいがさ)のようなものを被っている。
おそらく、馬長稚児(うまおさちご)と呼ばれる稚児であろう。24日の花傘巡行に参列している宣杖を授かった馬長稚児の装束と同じように見えた。
馬長とは、祇園御霊会の神事に、馬に乗って社頭の馬場を練り歩いた者で、小舎人童(こどねりわらわ)などを美しく着飾らせていた名残であろう。
お迎え提灯の行列は子供が主役で、馬長稚児以外の少年武者に小町踊りの少女、鷺舞、しゃぐまなど、どれもが芸能型、行列型の稚児行列といっても間違いでないようにも考えられる。
そして、13日は「稚児社参」があった。
午前中には長刀鉾の稚児、午後には久世駒形稚児の社参である。
恥ずかしながら久世駒形稚児の社参を見たことがなく、慌てて八坂神社へ向かった。
綾戸国中神社(あやとくぬかじんじゃ/南区久世上久世町)の氏子から選ばれた駒形稚児2名で、素戔嗚尊の荒御魂(あらみたま)の鎮まる御神体と一体となり、駒形稚児が神の化身となり、役目を務めるというのである。
そのことは以前のコラムにも書いたが、それが長刀鉾の生き稚児のこととばかり思い込んでいた。
駒形稚児の装束は薄紅の狩衣に紫紋入りの括り袴、金の烏帽子姿での社参である。
国中神社の幟旗を先頭に徒歩で南門を潜った。午前中の長刀鉾の稚児は白馬に騎乗し、南門で下馬しての社参である。
ところが、神幸祭以降の祭礼では、久世駒形稚児は南門で下馬せず、八坂さんの境内を騎馬のまま本殿に乗りつけ祭礼を司るのである。
神社では皇族下馬が仕来りであり、長刀鉾の稚児であっても南門で下馬して社参しているのである。
これは素戔嗚尊の化身であるためなのか。
長刀鉾の稚児は、この日の社参で正五位少将十万石の位を授かり、神の使いとなる「宣杖」と「稚児守り」を受けることからすると、頷けなくはないのだが。
今の今まで、素戔嗚尊の荒御魂と一体となった化身とは考えていなかったのである。
2名の駒形稚児は神幸祭と還幸祭とを各々受け持つとのことであった。
帰宅するや否や、駒形稚児の映る去年の神幸祭の日の写真を探した。寺町三条で駒形稚児の行列を撮った写真があったはずである。
神幸祭で中御座神輿を先導する駒形稚児は、稚児天冠を被り、胸に国中神社の御神体である木彫りの馬の頭首(駒形)を奉持しているとの説明を確認したかったからである。
取り出した写真では駒形稚児のディティールまでは分かりづらかった。
17日と24日には、久世駒形稚児に焦点を絞り見物したいと思う。
因みに社伝によると、綾戸国中神社の国中宮の祭神は素盞嗚尊で、ご神体は愛馬天幸駒の頭が彫刻されたものである。
神代の頃、素盞嗚尊が山城の地、西の岡訓世の郷が一面湖水のとき、天から降り給い、水を切り流し國を作られ、その後新羅へ渡海された。その渡海の形見として、水を切り流し國を作られた中心とおぼしき所に祀られたのが、お手彫りの愛馬天幸駒の頭の彫刻であったとある。
つまり、国中宮の荒御魂と八坂神社の和御魂(にぎみたま)が一体になって祇園祭の神事が成立することを示していることになる。
40万人以上の衆目を惹く山鉾巡行とそのシンボルとなる稚児の蔭に、祇園祭の真髄となる駒形稚児の存在があることに触れない報道はいかがなものかと、木を見て森を見ずの、現在中央メディアのあり方を考えさせられた。
ともあれ、社参の宣杖の儀にてお供えされる稚児餅を、二軒茶屋中村楼でいただき、神宿る稚児がいただく稚児の気分になってみたいと思い、社参の直会がされている中村楼で食事を取った。
山鉾の巡行のあと、祇園の神輿が寺町の御旅所に「おいで」になるまであと三日である。
今年の祇園祭は「稚児」に興味を置いて祭見物をしている。
日本の祭に稚児はつきもので、厚化粧をなし額に位星(くらいぼし)を入れ、稚児装束に立烏帽子・天冠をつけている。
稚児の類型でいうと舞踊・芸能型、行列型、よりまし(依り代)型の三種類があるようだ。
17日山鉾巡行で長刀鉾にのる生き稚児の「稚児舞」と「注連縄切り」。
これが、全国の新聞TVで毎年報じられる祇園祭のお決まりである。
どの鉾にも生き稚児が乗っていたといわれる山鉾(船鉾は除く)には、長刀鉾の他は稚児人形が乗せられ現在は巡行しているからかもしれない。
祇園祭の山鉾にのる稚児は、鉾のシンボルであり、よりましといわれている。
よりましとは神霊が宿る対象物のことであるから、山鉾の稚児に神霊を降臨させてもらい、疫病を退散させると信仰していたことになる。
山鉾のシンボルとなる稚児は「神使い」となり、町や国を救うといわれる由縁である。
日本古来の信仰の原点には自然崇拝の考え方があり、あらゆる物に神や精霊や魂などの霊的存在が宿るとしていることからすると、無垢な幼児が最大のよりましであったに違いなく、選ばれることは計り知れない名誉であったに違いない。
しかし、祇園祭の生き稚児は長刀鉾の生き稚児だけではないのである。
7日の七夕の節句に、六名の稚児社参があったのが綾傘鉾である。
山鉾巡行の日には、差し掛け傘がなされた稚児が、棒振り鬼踊りと綾傘鉾の先導をしているのでお馴染みである。
10日の「お迎え提灯」の折にも、祇園石段下で稚児の姿を見た。
騎乗し水干をつけた三名の厚化粧の少年である。
額に黒の位星が二つ描かれていた。鉾立ての日に鉾町で披露される生き稚児とは明らかに違ういでたちであった。狩装束のようで綾藺笠(あやいがさ)のようなものを被っている。
おそらく、馬長稚児(うまおさちご)と呼ばれる稚児であろう。24日の花傘巡行に参列している宣杖を授かった馬長稚児の装束と同じように見えた。
馬長とは、祇園御霊会の神事に、馬に乗って社頭の馬場を練り歩いた者で、小舎人童(こどねりわらわ)などを美しく着飾らせていた名残であろう。
お迎え提灯の行列は子供が主役で、馬長稚児以外の少年武者に小町踊りの少女、鷺舞、しゃぐまなど、どれもが芸能型、行列型の稚児行列といっても間違いでないようにも考えられる。
そして、13日は「稚児社参」があった。
午前中には長刀鉾の稚児、午後には久世駒形稚児の社参である。
恥ずかしながら久世駒形稚児の社参を見たことがなく、慌てて八坂神社へ向かった。
綾戸国中神社(あやとくぬかじんじゃ/南区久世上久世町)の氏子から選ばれた駒形稚児2名で、素戔嗚尊の荒御魂(あらみたま)の鎮まる御神体と一体となり、駒形稚児が神の化身となり、役目を務めるというのである。
そのことは以前のコラムにも書いたが、それが長刀鉾の生き稚児のこととばかり思い込んでいた。
駒形稚児の装束は薄紅の狩衣に紫紋入りの括り袴、金の烏帽子姿での社参である。
国中神社の幟旗を先頭に徒歩で南門を潜った。午前中の長刀鉾の稚児は白馬に騎乗し、南門で下馬しての社参である。
ところが、神幸祭以降の祭礼では、久世駒形稚児は南門で下馬せず、八坂さんの境内を騎馬のまま本殿に乗りつけ祭礼を司るのである。
神社では皇族下馬が仕来りであり、長刀鉾の稚児であっても南門で下馬して社参しているのである。
これは素戔嗚尊の化身であるためなのか。
長刀鉾の稚児は、この日の社参で正五位少将十万石の位を授かり、神の使いとなる「宣杖」と「稚児守り」を受けることからすると、頷けなくはないのだが。
今の今まで、素戔嗚尊の荒御魂と一体となった化身とは考えていなかったのである。
2名の駒形稚児は神幸祭と還幸祭とを各々受け持つとのことであった。
帰宅するや否や、駒形稚児の映る去年の神幸祭の日の写真を探した。寺町三条で駒形稚児の行列を撮った写真があったはずである。
神幸祭で中御座神輿を先導する駒形稚児は、稚児天冠を被り、胸に国中神社の御神体である木彫りの馬の頭首(駒形)を奉持しているとの説明を確認したかったからである。
取り出した写真では駒形稚児のディティールまでは分かりづらかった。
17日と24日には、久世駒形稚児に焦点を絞り見物したいと思う。
因みに社伝によると、綾戸国中神社の国中宮の祭神は素盞嗚尊で、ご神体は愛馬天幸駒の頭が彫刻されたものである。
神代の頃、素盞嗚尊が山城の地、西の岡訓世の郷が一面湖水のとき、天から降り給い、水を切り流し國を作られ、その後新羅へ渡海された。その渡海の形見として、水を切り流し國を作られた中心とおぼしき所に祀られたのが、お手彫りの愛馬天幸駒の頭の彫刻であったとある。
つまり、国中宮の荒御魂と八坂神社の和御魂(にぎみたま)が一体になって祇園祭の神事が成立することを示していることになる。
40万人以上の衆目を惹く山鉾巡行とそのシンボルとなる稚児の蔭に、祇園祭の真髄となる駒形稚児の存在があることに触れない報道はいかがなものかと、木を見て森を見ずの、現在中央メディアのあり方を考えさせられた。
ともあれ、社参の宣杖の儀にてお供えされる稚児餅を、二軒茶屋中村楼でいただき、神宿る稚児がいただく稚児の気分になってみたいと思い、社参の直会がされている中村楼で食事を取った。
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