師走13日の事始めの朝は、祇園事始めの舞芸妓さんの挨拶回りを眺め、北野さんに大福梅を授かりにゆくのが恒例となっているが、小生の事始めのひとつに狛犬巡りがある。
くる年の干支に因んだ神社仏閣を訪ねるのである。神社門前などには必ず獅子狛犬が鎮座している。しかし、この狛犬が時に神社によって違う。
分かりやすいものを挙げると、伏見稲荷大社であれば「おきつねさん」だし、護王神社なら「イノシシ」である。お分かりいただけただろうか。
この狛犬で十二支(じゅうにし)全部を見つけるのは容易くはない。
十二支とは、子(ね/鼠)・丑(うし/牛)・寅(とら/虎)・卯(う/兎)・辰(たつ/龍)・巳(み/蛇)・午(うま/馬)・未(ひつじ/羊)・申(さる/猿)・酉(とり/鶏)・戌(いぬ/犬)・亥(い/猪)のことであるが、昔とは違い、生活との関わりが希薄になり暗記されている方が少なくなってきた。
今は生まれ年や新年を迎える時に干支でいう習慣が残るに留まっている。
来年は寅年であるが、年賀状では何頭の寅に出会えるだろうか。
さて、寅年にあやかる狛虎を調べてみたが、探せど探せど狛虎のある神社には出合えなかった。
ところが、虎を使いの動物として安置している寺院があった。それは鞍馬寺で、本尊は尊天とされ、毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体であると説かれている。
毘沙門天(バイシャラバーナ)は、仏教における持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊(多聞天)に数えられる武神で、仏教の守護神として、古代インドのバラモン教の神々から取り入れられた一尊(クべーラ)である。
如来の化身ともいわれ、説法だけでは教化しがたい民衆を力づくで教化するとされる。そのため忿怒(ふんぬ)という恐ろしい形相をしているものが多い。
そんなけわしい武神の顔立ちではあるが、日本では財産を守る善なる神として七福神の一神として加えられている。夜叉(やしゃ)、羅刹(らせつ)の鬼神の群を率いる武神の証が左手に持つ三叉戟(さんさほこ)、財福富貴の神の証が右手に持つ多宝塔であり、その多宝塔より限りない財宝を与えられると信じられている。
つまり、強くて、利発で、財産持ちで、心には勇気と決断を、暮らしには財産をと物心両面の福徳を授け、戦いには勝運を与えてくれる神様として民間信仰されているのである。
東福寺塔頭勝林寺に等身大の毘沙門天像と対面したとき、その右脇侍に美人像があった。聞くと、奥様の吉祥天女像であると、更に左横は善膩師童子(ぜんにしどうじ)像でお子様との説明であった。毘沙門天は真に頼もしい神様である。
その毘沙門天像の前の本堂内壁の両脇に大きな虎の絵があったが、お目当ての虎の像は見当たらなかった。
勝林寺の毘沙門天の眷属は百足(ムカデ)である。法被の寺紋にも百足が染め抜かれていた。
国宝の毘沙門天は東寺や浄瑠璃寺にあり、重文では山科の毘沙門堂門跡、神護寺、知恩院、六角堂などにもあり、他に千手観音像の脇侍としてなら数あまたあるが、虎の像を配したところは、他のどこにもなかった。
勢い鞍馬寺の毘沙門天と虎に好奇心をくすぐられた。
向かうは鞍馬山である。
鞍馬寺には国宝に指定されている木造毘沙門天立像、木造吉祥天立像、木造善膩師童子
(ぜんにしどうじ)立像の三尊が霊宝殿に展示されている。
そして、毘沙門天のお使いとされる「阿吽の虎」が二組四頭鎮座していた。
一組は石造製で仁王門前に大正2年(1913)に、もう一組は青銅製で本殿金堂前に昭和26年(1951)に安置されたものである。
鞍馬寺草創には諸説あるが、寅年に因んだ立場で要約してみると、寺伝「鞍馬蓋寺縁起(あんばがいじえんぎ)」にその由来を頼ることになる。
開基鑑禎(がんてい)上人が霊夢のお告げに従い、山城国北方の霊山に登り、山の上方に宝の鞍を乗せた白馬の姿を見た。その鞍馬山に入ると、突如鬼神に襲われ殺されそうになるが、倒れてきた枯れ木に鬼はつぶされ、鑑禎上人は命拾いをする。
翌朝気がつくと、そこには毘沙門天の像があり、初めて拝するものだった。毘沙門天に救われた鑑禎上人は草庵を結びこれを祀ることにした。毘沙門天が寅年の寅の月、寅の時刻に姿を現したことから、鞍馬寺の毘沙門天は寅を使い鞍馬の山に降り立ったとの故事となり虎が据えられた。
時は宝亀元年(770年)のことで、鑑禎上人は、鑑真が唐から伴ってきた高弟8名のうちの最年少の僧である。
その後、延暦15年(796年)、官寺である東寺の建設主任であった藤原伊勢人は、ある夜見た霊夢のお告げにしたがい、白馬の後を追って鞍馬山に着くと、そこには毘沙門天を祀るお堂があった。
「自分は観音を信仰しているのに、ここに祀られているのは毘沙門天ではないか」と、
ところが、その晩の夢に1人の童子が現われ、
「観音も毘沙門天も名前が違うだけで、実はもともと1つのものなのだ」と告げたという。
伊勢人は早速に千手観音の像をつくり、毘沙門天とともに安置し鞍馬寺を創建したと、「今昔物語集」には記されている。
仁王門前の石段で見る鞍馬の火祭の勇壮な光景ばかりに目を奪われ、すぐ後ろにあった狛虎を見落としていた。あらためて寅年の縁起を担ぎ、毘沙門天を出現させた霊山鞍馬山に登り結縁を試みにやってきた。
ケーブルに乗り多宝塔を経て、お前立ちの安置された本殿金堂前へ、睨みをきかせる「阿吽の狛虎」とじっくりと顔を突き合わせた。
来年の干支に因んだ狛虎のお守りと絵馬を手に、帰りの叡山電車の鞍馬駅で、真紅の天狗に見送られる頃にはすっかり陽が落ちていた。
鞍馬寺
http://kuramadera.com/
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
くる年の干支に因んだ神社仏閣を訪ねるのである。神社門前などには必ず獅子狛犬が鎮座している。しかし、この狛犬が時に神社によって違う。
分かりやすいものを挙げると、伏見稲荷大社であれば「おきつねさん」だし、護王神社なら「イノシシ」である。お分かりいただけただろうか。
この狛犬で十二支(じゅうにし)全部を見つけるのは容易くはない。
十二支とは、子(ね/鼠)・丑(うし/牛)・寅(とら/虎)・卯(う/兎)・辰(たつ/龍)・巳(み/蛇)・午(うま/馬)・未(ひつじ/羊)・申(さる/猿)・酉(とり/鶏)・戌(いぬ/犬)・亥(い/猪)のことであるが、昔とは違い、生活との関わりが希薄になり暗記されている方が少なくなってきた。
今は生まれ年や新年を迎える時に干支でいう習慣が残るに留まっている。
来年は寅年であるが、年賀状では何頭の寅に出会えるだろうか。
さて、寅年にあやかる狛虎を調べてみたが、探せど探せど狛虎のある神社には出合えなかった。
ところが、虎を使いの動物として安置している寺院があった。それは鞍馬寺で、本尊は尊天とされ、毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体であると説かれている。
毘沙門天(バイシャラバーナ)は、仏教における持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊(多聞天)に数えられる武神で、仏教の守護神として、古代インドのバラモン教の神々から取り入れられた一尊(クべーラ)である。
如来の化身ともいわれ、説法だけでは教化しがたい民衆を力づくで教化するとされる。そのため忿怒(ふんぬ)という恐ろしい形相をしているものが多い。
そんなけわしい武神の顔立ちではあるが、日本では財産を守る善なる神として七福神の一神として加えられている。夜叉(やしゃ)、羅刹(らせつ)の鬼神の群を率いる武神の証が左手に持つ三叉戟(さんさほこ)、財福富貴の神の証が右手に持つ多宝塔であり、その多宝塔より限りない財宝を与えられると信じられている。
つまり、強くて、利発で、財産持ちで、心には勇気と決断を、暮らしには財産をと物心両面の福徳を授け、戦いには勝運を与えてくれる神様として民間信仰されているのである。
東福寺塔頭勝林寺に等身大の毘沙門天像と対面したとき、その右脇侍に美人像があった。聞くと、奥様の吉祥天女像であると、更に左横は善膩師童子(ぜんにしどうじ)像でお子様との説明であった。毘沙門天は真に頼もしい神様である。
その毘沙門天像の前の本堂内壁の両脇に大きな虎の絵があったが、お目当ての虎の像は見当たらなかった。
勝林寺の毘沙門天の眷属は百足(ムカデ)である。法被の寺紋にも百足が染め抜かれていた。
国宝の毘沙門天は東寺や浄瑠璃寺にあり、重文では山科の毘沙門堂門跡、神護寺、知恩院、六角堂などにもあり、他に千手観音像の脇侍としてなら数あまたあるが、虎の像を配したところは、他のどこにもなかった。
勢い鞍馬寺の毘沙門天と虎に好奇心をくすぐられた。
向かうは鞍馬山である。
鞍馬寺には国宝に指定されている木造毘沙門天立像、木造吉祥天立像、木造善膩師童子
(ぜんにしどうじ)立像の三尊が霊宝殿に展示されている。
そして、毘沙門天のお使いとされる「阿吽の虎」が二組四頭鎮座していた。
一組は石造製で仁王門前に大正2年(1913)に、もう一組は青銅製で本殿金堂前に昭和26年(1951)に安置されたものである。
鞍馬寺草創には諸説あるが、寅年に因んだ立場で要約してみると、寺伝「鞍馬蓋寺縁起(あんばがいじえんぎ)」にその由来を頼ることになる。
開基鑑禎(がんてい)上人が霊夢のお告げに従い、山城国北方の霊山に登り、山の上方に宝の鞍を乗せた白馬の姿を見た。その鞍馬山に入ると、突如鬼神に襲われ殺されそうになるが、倒れてきた枯れ木に鬼はつぶされ、鑑禎上人は命拾いをする。
翌朝気がつくと、そこには毘沙門天の像があり、初めて拝するものだった。毘沙門天に救われた鑑禎上人は草庵を結びこれを祀ることにした。毘沙門天が寅年の寅の月、寅の時刻に姿を現したことから、鞍馬寺の毘沙門天は寅を使い鞍馬の山に降り立ったとの故事となり虎が据えられた。
時は宝亀元年(770年)のことで、鑑禎上人は、鑑真が唐から伴ってきた高弟8名のうちの最年少の僧である。
その後、延暦15年(796年)、官寺である東寺の建設主任であった藤原伊勢人は、ある夜見た霊夢のお告げにしたがい、白馬の後を追って鞍馬山に着くと、そこには毘沙門天を祀るお堂があった。
「自分は観音を信仰しているのに、ここに祀られているのは毘沙門天ではないか」と、
ところが、その晩の夢に1人の童子が現われ、
「観音も毘沙門天も名前が違うだけで、実はもともと1つのものなのだ」と告げたという。
伊勢人は早速に千手観音の像をつくり、毘沙門天とともに安置し鞍馬寺を創建したと、「今昔物語集」には記されている。
仁王門前の石段で見る鞍馬の火祭の勇壮な光景ばかりに目を奪われ、すぐ後ろにあった狛虎を見落としていた。あらためて寅年の縁起を担ぎ、毘沙門天を出現させた霊山鞍馬山に登り結縁を試みにやってきた。
ケーブルに乗り多宝塔を経て、お前立ちの安置された本殿金堂前へ、睨みをきかせる「阿吽の狛虎」とじっくりと顔を突き合わせた。
来年の干支に因んだ狛虎のお守りと絵馬を手に、帰りの叡山電車の鞍馬駅で、真紅の天狗に見送られる頃にはすっかり陽が落ちていた。
鞍馬寺
http://kuramadera.com/
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
5263-091215-1月
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