維新の流れをドラマと京都の地で学ぶ

坂本龍馬 近江屋事件 by 五所光一郎

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2010年1月から1年間の放送予定でNHK大河ドラマ「龍馬伝」が始まった。
明治維新を描く数々の作品のなかで、常に普遍的ヒーローとして登場する龍馬がどのように描かれてゆくかが楽しみである。

政権交代を為した民主党が、平成維新を興したことになるのか否かは歴史を待たなければならないが、国民の期待は執られる政策にその期待を抱いていることに間違いはない。

維新の志士達がどう考え、新国家を建設する希望に満ちた志を如何に燃やし続けたのだろうか。平成日本の有り様を左右するのが一人一人の人間の心によるものなら、このドラマが一年間を通じて、萎えそうになるであろう現代の志士達を元気づけてくれることを願う。

NHK大河ドラマ「龍馬伝」のプロデューサー鈴木圭は、「龍馬伝」で描こうとしている坂本龍馬像についてこう記している。

「『果てしない伸びシロを持った人』です。今までの龍馬モノの描かれ方は、『ワシはフリーじゃ』『「世界は広いぜよ』的な、ともすると早々と出来上がってしまった人物の感がありました。そんな筈はない、龍馬は最初から坂本龍馬だったのではなく、三十三年の生涯の中で、日々悩み、迷いながら、進化し、もし暗殺されなければ一体どこまで飛んで行ったろう、というような『昇り龍』である、という視点です。」と。

世界不況の今だからか、龍馬伝に描かれる平成の龍馬は経済人の側面が語られるようである。龍馬が結成した貿易商社「亀山社中」「海援隊」に学ぶべき点があるかどうかに疑問は残るが、閉塞感からの脱出には良い起爆剤になるかもしれない。

多面性を持つ龍馬は、時代により描かれる点も多様性に富んでいた。戦後、司馬遼太郎の描いた「竜馬がゆく」では、生き生きとした人間竜馬であったことは記憶に新しい。大正期は民主主義的側面が、明治期は剣客の側面が強調され描かれている。
どうやら、龍馬には時代ごとの願いが託され、混沌とした時代の羅針盤の役割を担う普遍的役割があるようである。

天保6年(1835年)11月15日 郷士坂本八平の次男として生まれた龍馬三十三年の生涯の、最終章での龍馬の軌跡が京都には残されている。時代の変革を担った龍馬の足取りを、幕末の京都に思いを馳せながら辿ってみることにしたい。

慶応3年11月15日(1867年12月10日)龍馬33歳の誕生日に、人生最後の場所となったところが、河原町蛸薬師下る東側にあった醤油商近江屋井口新助宅である。
そこは世にいわれる近江屋事件の現場で、河原町商店街を歩くと、「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」の石碑がコンビニエンスストアーの前に立っている。
新しく設けられた大きな駒札と大河ドラマのせいか、俄かに立ち止まる人の姿が多くなっている。

醤油商近江屋二代目井口新助は安政6年(1859年)に家業を継ぎ、土佐藩御用達を務め財を蓄えるようになり、その義侠心より倒幕まで勤皇志士への援助を惜しまなかった商人といわれる。

慶応2年1月23日(1866年3月8日)、伏見の旅館寺田屋事件で襲撃を受け暗殺されかけた龍馬は、風呂から裸のまま二階へ駆け上がってきた同宿の養女お龍の機転と拳銃での反撃で危うく回避し、暫くの間は西郷隆盛の斡旋により薩摩領内にお龍とともに潜伏し、翌慶応3年10月には入洛、材木商「酢屋」に投宿するようになる。
その10月14日には徳川一五代将軍慶喜は征夷大将軍の職を辞し大政奉還した。
近江屋事件まであと一ヶ月のときである。

現在の酢屋の前には「坂本龍馬寓居趾」の碑が立ち、一階が創作木工芸の店、二階が「龍馬ギャラリー」となっている。その酢屋の前の河原町三条下ル一筋目東の通りは通称「龍馬通」と呼ばれている。

酢屋海援隊の京都本部に使われていたところで、往時、酢屋の前は高瀬舟の舟入場であった。酢屋嘉兵衛は大阪から伏見、京都へと通ずる高瀬川の木材の輸送権を独占しており、龍馬の活動の理解者で、その援助に力を注いだ一人である。
高瀬川沿いの南側には土佐藩邸、北側には長州藩邸が建ち並んでいたが、それでも、幕府の追っ手の目は厳しく、海援隊の長岡健吉は、追われる身の龍馬を匿うべく近江屋に頼むと、新助は自宅裏庭の土蔵を改装して密室とし、更に裏の称名寺に脱出できるようしつらえたとある。

慶応3年11月3日、龍馬は酢屋から近江屋に移る。
11月13日、伊東甲子太郎(新選組参謀・御陵衛士高台寺党結成)が近江屋を尋ねてきて、新選組が血眼になって狙っているので三条の土佐藩邸に移るよう勧めたが、龍馬は近江屋に留まった。
そして、11月15日近江屋事件はおこった。

この日、河原町通を挟んだ東側にある土佐藩御用達書林菊屋(鹿野安兵衛宅)に投宿していた陸援隊隊長中岡慎太郎は、向いの近江屋に匿われている海援隊隊長の坂本龍馬を夕刻に訪ねていた。
会談の内容は、新選組が三条大橋西詰の制札を引き抜こうとした土佐藩士8名を襲撃した三条制札事件についてであった。
その会談は、福井藩士三岡八郎(1829−1909/幕末四賢公・五箇条誓文の原案起草者)との会談を終え福井より戻った龍馬が風邪をこじらせた為、近江屋の土蔵から母屋の二階奥座敷へと移り変わり行われていた。

その夜、十津川郷士を名乗る者が龍馬に面会を求めて訪ねてくる。元力士の山田藤吉は郷士を龍馬に会わせようとするが、惨殺される。
「ぎゃあ!!」と、「ほたえな!(土佐弁で「騒ぐな」の意)」と龍馬。
その声を聞いた刺客は、音もなく素早く駆け上がり、襖を開けるや部屋に侵入、そして龍馬は斬られた。
龍馬は中岡のことを「石川、太刀はないか」と変名で呼んだという。
体中を滅多突きにされ龍馬は絶命し、石川は二日後に息が途絶えたと伝わる。

近江屋事件には、京都見廻組実行説を多数説に新選組犯行説、薩摩藩陰謀説など諸説あるが、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の結びにはこう記されている。

天に意思がある。としか、この若者の場合、おもえない。
天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。 この夜、京の天は雨気が満ち、星がない。
しかし、時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へおしあけた。

龍馬暗殺の近江屋事件の翌慶応4年1月3日に鳥羽・伏見の戦いは戊辰戦争の端緒となり、明治元年3月14日(1868年4月6日)維新政府による五箇条のご誓文が示された。

坂本龍馬中岡慎太郎京都霊山護国神社の墓地に眠り東山中腹より、今日も市内を見下ろし、近江屋井口新助金戒光明寺の黒谷墓地より、今日も市内を見渡している


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