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「ときは、桃山 天下を夢みた絵師がいた。時代を駆け抜け、伝説となった。」
このコピーに吸い込まれ、東山七条界隈で過ごす日曜日とした。
等伯に、秀吉に、京の大仏を訪ねる一日である。
等伯といえば、春秋などの公開時に智積院の国宝楓図、本法寺の佛涅槃図などと見て回ることになるのだろうが、今年は、長谷川等伯没後400年にあたるため、等伯の代表作のほぼ全てが全国から一同に介されている。東京国立博物館蔵の国宝松林図屏風もお出ましになっている。
まずは、長谷川等伯没後400年特別展覧会の最終日を迎えた京都国立博物館に出かける。
館内に足を踏み入れると、等伯の初期の仏画に始まり、利休や秀吉、日蓮や日通などの肖像画から、金碧障壁画、水墨画と続き、その数、国宝3点、重要文化財30点を含む全78点もの作品に出合う。まさに史上最大の大回顧展であった。
仏画や金壁画を見ていると精緻で丹念な描写に感動を覚え、宿敵狩野派をも呑み込んだその華やかさと情感の金壁画は、秀吉の命を受けて開花させ、名声を不動のものにしたことがわかる。
水墨画は、力強い線と柔らかなぼかしとのコントラストに躍動感が溢れ、温度を感じる。また、墨の濃淡の狭間に描き出される空間にはメッセージが宿っているかのように伝わってくる。まるで生きているようであった。
等伯に機会を与えた秀吉であるが、博物館の建つこの場所に京の大仏殿を建立していたことはご存知であろうか。今はなき方広寺大仏殿である。
奈良の大仏さんを凌ぐ大仏を京に造営することに躍起になっていた秀吉(1537〜98年)は、文禄4年(1595年)、高さ六丈三尺(約19m)の木製金漆塗坐像大仏を安置した。
金色に光輝くその大きさを思い浮かべると、権勢を絵に描いたようないかにも秀吉らしい大仏だったに違いない。
京都市埋蔵文化財研究所の発掘ニュース資料によると、往時の方広寺境内は、北は方広寺北端から、南は豊国(とよくに)神社、京都国立博物館、三十三間堂の一部寺域の敷地を含む広さである。
概ね、後白河法皇が院政を敷いていた法住寺殿北殿の跡地と符合しそうである。
1998年の京都国立博物館内の発掘調査では、南門跡・回廊跡や石垣などが検出され、2000年の大仏殿跡発掘調査ではその遺構が良好に検出され、、大仏殿の規模は、南北四十五間二尺七寸(約88m)・東西二十七間六尺三寸(約54m)・高さ二十五間(約49m)であることや、92本あった柱の位置が確定されている。
それまでの調査とあわせて方広寺の伽藍配置を復元することができるまでに至ったと報じられており、京の大仏さんの全容が明らかになりつつある。
中井正知氏所蔵の「大工頭中井家建築図集 大佛殿図」を見ると、屋根の頂上高は約60mにおよび、伏見桃山城の大天守閣の高さ50mや現大阪城天守閣の54.8mを越える高さであり、奈良東大寺の大仏殿を抱え込む広さでもある。秀頼(1592〜1615年)ら豊臣家が秀吉の京の大仏に馳せた思いを実現すべく、豊臣家が滅亡した後も、消失と再興の歴史に費やした気概が手に取るように伝わってくる。
江戸時代における京の鳥瞰図の代表作である、横山華山(1784-1837年)が描いた「花洛一覧図(1808年版)」を見たときの大佛殿(寛政七年再建の木造金箔漆造大仏の大佛殿)の巨大さは未だ目に焼きついたままである。寛政十年(1798年)に落雷により焼失した大佛殿を絵図として誇張しているのではと疑っていた頃もあった。
しかし、数字で示されると納得せざるを得ない。
そして、京の大仏さんにロマンを抱き、その地を歩き、遺物、遺構に接したくなる思いは、更に強まってくる。
今もある「大仏前交番」の看板をしげしげと眺め、博物館の西南角を右に曲がるのは何度目だろうか。
大和大路七条を北へ、豊国神社へと歩く。
背丈を越す石が幾つも積まれている。
石垣に使われている巨石は、秀吉が方広寺大仏殿建立の際、諸大名に命じて集めさせたもので、紛れもない方広寺の遺物である。
石垣は続く。
正面通の突き当たりに豊国神社の鳥居が建つ。概ね方広寺の仁王門のあったところである。
今日は豊国(ほうこく)さんの宝物館に入った。ここには秀吉ゆかりの品々が陳列展示されている。
その中の「豊国祭礼図屏風(狩野内膳筆)」がお目当てである。
豊臣秀吉・豊国大明神の七回忌にあたり催された祭礼の様子が題材となっており、慶長元年(1596年)の京都大地震で倒壊大破したはずの「方広寺大佛殿」も描かれていた。
二隻の屏風からは、大佛殿と正面広場で繰り広げられる祭りと見物客の息遣いが伝わってくる。その躍動感や自由で華やかな着衣は時世を表していると共に、秀吉の京の大仏さんが、否秀吉の建立した方広寺が生活の近いところに存在していたことが想像できる。
宝物館の東裏には馬塚があり、更にその東側が高台になっている。
その高台が桃山時代から大仏殿のあった場所である。発掘調査後、現在は大仏殿跡緑地公園として整備されている。
方広寺の月極駐車場の南側になるので、方広寺の拝観を済ませ、京の大仏さんの名残の品に触れてから、大佛殿跡にまわることにした。
京の大仏さんはなんと悲運な歴史に綴られているのだろうか。
秀吉の木製金漆塗坐像の京の大仏さんは倒壊大破、秀頼の銅製鋳造の京の大仏さんは完成間近に落雷焼失。
その10年後、豊臣家は大坂夏の陣に破れ消滅しているにも関わらず、家康の勧めで大佛鋳造に大佛殿を再建するも、落慶直前、方広寺梵鐘の銘文「国家安康 君臣豊楽」の文字が家康の怒りにふれ、落慶法要を中止させられている。
それから40年間、京の大仏さんの姿はあったが、またしても寛文大地震(1662年)で大仏、大仏殿ともに倒壊する。
更に時代は下り寛政7年(1795年)、木造金箔漆造の大佛が再興されたが、今度は3年後に落雷により炎上焼失することになった。
そして、天保14年(1843年)、旧大仏の10分の1の木彫半身像の大仏が、尾張を中心とした、伊勢・美濃・越前の方広寺信者の浄財により寄進された。ほぼ頭部の大仏で肩が台座に据え付けられた胸像であったようである。
この京の大仏さんは130年間にわたり参詣され、永遠の大仏と思われたが、昭和48年(1973年)に失火により炎上、またしても焼失させてしまった。
以後、大佛殿が再興される話は上らない。
その京の大仏さんの遺物が、小寺となった方広寺で今も守られている。
最後の京の大仏さんの「蓮華座内側の台座突起」の一部と秀頼再興の京の大仏さんの「眉間籠り仏」。
大佛殿の遺物として、「柱の金輪」「屋根の軒先に吊されていた風鐸」「瓦の一部」などが現存展示されていた。
屏風絵や絵図といえど、京の大仏さんの顔姿を見ることが叶わない。寂しい限りである。緑地公園となっている大佛殿跡に佇み、だだ豊国祭礼図屏風に踊る民衆の姿を頭に思い浮かべるのが精一杯である。
未来永劫、もう京の大仏さんを拝むことはできないのだろうか。
呪いとしか思えないこの歴史は、東大寺の大仏に問うしか答えは見つかりそうにない。
このコピーに吸い込まれ、東山七条界隈で過ごす日曜日とした。
等伯に、秀吉に、京の大仏を訪ねる一日である。
等伯といえば、春秋などの公開時に智積院の国宝楓図、本法寺の佛涅槃図などと見て回ることになるのだろうが、今年は、長谷川等伯没後400年にあたるため、等伯の代表作のほぼ全てが全国から一同に介されている。東京国立博物館蔵の国宝松林図屏風もお出ましになっている。
まずは、長谷川等伯没後400年特別展覧会の最終日を迎えた京都国立博物館に出かける。
館内に足を踏み入れると、等伯の初期の仏画に始まり、利休や秀吉、日蓮や日通などの肖像画から、金碧障壁画、水墨画と続き、その数、国宝3点、重要文化財30点を含む全78点もの作品に出合う。まさに史上最大の大回顧展であった。
仏画や金壁画を見ていると精緻で丹念な描写に感動を覚え、宿敵狩野派をも呑み込んだその華やかさと情感の金壁画は、秀吉の命を受けて開花させ、名声を不動のものにしたことがわかる。
水墨画は、力強い線と柔らかなぼかしとのコントラストに躍動感が溢れ、温度を感じる。また、墨の濃淡の狭間に描き出される空間にはメッセージが宿っているかのように伝わってくる。まるで生きているようであった。
等伯に機会を与えた秀吉であるが、博物館の建つこの場所に京の大仏殿を建立していたことはご存知であろうか。今はなき方広寺大仏殿である。
奈良の大仏さんを凌ぐ大仏を京に造営することに躍起になっていた秀吉(1537〜98年)は、文禄4年(1595年)、高さ六丈三尺(約19m)の木製金漆塗坐像大仏を安置した。
金色に光輝くその大きさを思い浮かべると、権勢を絵に描いたようないかにも秀吉らしい大仏だったに違いない。
京都市埋蔵文化財研究所の発掘ニュース資料によると、往時の方広寺境内は、北は方広寺北端から、南は豊国(とよくに)神社、京都国立博物館、三十三間堂の一部寺域の敷地を含む広さである。
概ね、後白河法皇が院政を敷いていた法住寺殿北殿の跡地と符合しそうである。
1998年の京都国立博物館内の発掘調査では、南門跡・回廊跡や石垣などが検出され、2000年の大仏殿跡発掘調査ではその遺構が良好に検出され、、大仏殿の規模は、南北四十五間二尺七寸(約88m)・東西二十七間六尺三寸(約54m)・高さ二十五間(約49m)であることや、92本あった柱の位置が確定されている。
それまでの調査とあわせて方広寺の伽藍配置を復元することができるまでに至ったと報じられており、京の大仏さんの全容が明らかになりつつある。
中井正知氏所蔵の「大工頭中井家建築図集 大佛殿図」を見ると、屋根の頂上高は約60mにおよび、伏見桃山城の大天守閣の高さ50mや現大阪城天守閣の54.8mを越える高さであり、奈良東大寺の大仏殿を抱え込む広さでもある。秀頼(1592〜1615年)ら豊臣家が秀吉の京の大仏に馳せた思いを実現すべく、豊臣家が滅亡した後も、消失と再興の歴史に費やした気概が手に取るように伝わってくる。
江戸時代における京の鳥瞰図の代表作である、横山華山(1784-1837年)が描いた「花洛一覧図(1808年版)」を見たときの大佛殿(寛政七年再建の木造金箔漆造大仏の大佛殿)の巨大さは未だ目に焼きついたままである。寛政十年(1798年)に落雷により焼失した大佛殿を絵図として誇張しているのではと疑っていた頃もあった。
しかし、数字で示されると納得せざるを得ない。
そして、京の大仏さんにロマンを抱き、その地を歩き、遺物、遺構に接したくなる思いは、更に強まってくる。
今もある「大仏前交番」の看板をしげしげと眺め、博物館の西南角を右に曲がるのは何度目だろうか。
大和大路七条を北へ、豊国神社へと歩く。
背丈を越す石が幾つも積まれている。
石垣に使われている巨石は、秀吉が方広寺大仏殿建立の際、諸大名に命じて集めさせたもので、紛れもない方広寺の遺物である。
石垣は続く。
正面通の突き当たりに豊国神社の鳥居が建つ。概ね方広寺の仁王門のあったところである。
今日は豊国(ほうこく)さんの宝物館に入った。ここには秀吉ゆかりの品々が陳列展示されている。
その中の「豊国祭礼図屏風(狩野内膳筆)」がお目当てである。
豊臣秀吉・豊国大明神の七回忌にあたり催された祭礼の様子が題材となっており、慶長元年(1596年)の京都大地震で倒壊大破したはずの「方広寺大佛殿」も描かれていた。
二隻の屏風からは、大佛殿と正面広場で繰り広げられる祭りと見物客の息遣いが伝わってくる。その躍動感や自由で華やかな着衣は時世を表していると共に、秀吉の京の大仏さんが、否秀吉の建立した方広寺が生活の近いところに存在していたことが想像できる。
宝物館の東裏には馬塚があり、更にその東側が高台になっている。
その高台が桃山時代から大仏殿のあった場所である。発掘調査後、現在は大仏殿跡緑地公園として整備されている。
方広寺の月極駐車場の南側になるので、方広寺の拝観を済ませ、京の大仏さんの名残の品に触れてから、大佛殿跡にまわることにした。
京の大仏さんはなんと悲運な歴史に綴られているのだろうか。
秀吉の木製金漆塗坐像の京の大仏さんは倒壊大破、秀頼の銅製鋳造の京の大仏さんは完成間近に落雷焼失。
その10年後、豊臣家は大坂夏の陣に破れ消滅しているにも関わらず、家康の勧めで大佛鋳造に大佛殿を再建するも、落慶直前、方広寺梵鐘の銘文「国家安康 君臣豊楽」の文字が家康の怒りにふれ、落慶法要を中止させられている。
それから40年間、京の大仏さんの姿はあったが、またしても寛文大地震(1662年)で大仏、大仏殿ともに倒壊する。
更に時代は下り寛政7年(1795年)、木造金箔漆造の大佛が再興されたが、今度は3年後に落雷により炎上焼失することになった。
そして、天保14年(1843年)、旧大仏の10分の1の木彫半身像の大仏が、尾張を中心とした、伊勢・美濃・越前の方広寺信者の浄財により寄進された。ほぼ頭部の大仏で肩が台座に据え付けられた胸像であったようである。
この京の大仏さんは130年間にわたり参詣され、永遠の大仏と思われたが、昭和48年(1973年)に失火により炎上、またしても焼失させてしまった。
以後、大佛殿が再興される話は上らない。
その京の大仏さんの遺物が、小寺となった方広寺で今も守られている。
最後の京の大仏さんの「蓮華座内側の台座突起」の一部と秀頼再興の京の大仏さんの「眉間籠り仏」。
大佛殿の遺物として、「柱の金輪」「屋根の軒先に吊されていた風鐸」「瓦の一部」などが現存展示されていた。
屏風絵や絵図といえど、京の大仏さんの顔姿を見ることが叶わない。寂しい限りである。緑地公園となっている大佛殿跡に佇み、だだ豊国祭礼図屏風に踊る民衆の姿を頭に思い浮かべるのが精一杯である。
未来永劫、もう京の大仏さんを拝むことはできないのだろうか。
呪いとしか思えないこの歴史は、東大寺の大仏に問うしか答えは見つかりそうにない。
5312-100511-春
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