春の穏やかな陽射しの日があり、寒の戻りの日があり、そして東寺の河津桜の開花が報じられた。その頃奈良の東大寺では、二月堂の「お水取り」が行われている。
京都では、東山花灯路に涅槃図公開の声が俄かに聞こえだし、そろそろ本格的な春が近づいてきたなと思う。
京都御苑の梅林の観賞に出向いても、北隣の桃林の開花が気になってしょうがない頃でもある。
観梅の終盤が近づいているわけだが、三月下旬までなら、まだまだ楽しめるところはある。今朝は東山七条に向かうべく家を出た。
目指すは智積院の梅園である。
智積院の境内は緩やかな丘陵地のようで、かつ広い。その境内には梅の木があちこちに植栽されている庭園になっていて、その中に堂宇が建つ。各々の堂宇を背景に眺める梅は様々な顔を見せる。
庭園で言えば、国宝障壁画が飾られていた大書院の築山泉水庭が富に有名で、庭園の池が書院の縁の下に入り込み、まるで平安時代の釣殿のようで、大書院より眺める築山は四季を通じ人の心を和ませている。そこは利休好みの名庭として知られ、多くの観光客を集めている。
しかし、その念入りに作り込まれた名勝庭園とは趣を異にする梅園が、小生は好きだ。
なぜなら、仄かな香りを楽しみながら、あちらにこちらにと自由に散策できるからである。
七条通を東へ、突き当たりが智積院の総門で、東大路通に面して石垣を土台にした高い塀が南に伸びている。塀沿いに下ると左手に境内への入口がある。
出入り口の両脇には、大きな狛犬が出迎えているので、誰にも分る。
南側に座る狛犬は足元に紅梅を従え、東大路沿いの石垣の上には紅梅と白梅が紅白幕よろしく咲き、塀の東内側が阿弥陀ヶ峰の山懐に抱かれるように、広々と境内が開いでいる。
手前右手に宿坊智積院会館、左手に受付・朱印所がある。
受付に軽く会釈して、梅園へとそのまま山手に向かって真っ直ぐ進めば良い。
境内一面に敷き詰められたような苔の間に、石板の散策路が鍵形に整然と行く先を導いている。松の緑に囲まれた合間に赤い花をつけた木々が見え隠れした。その先の堂宇に五色の幕が懸かっているのが見えた。
鍵形の石段を数段上り先へ進むと、正面前方に金堂、左手に大書院、右手前方下方に鐘楼である。
大書院への拝観受付所の手前で、白梅が今が盛りと透き通るように光り輝いている。
その向かい側では薄紅色の紅梅が穏やかな笑みを浮かべ、金堂に向かう側の参道沿いでは深紅の紅梅がたわわにつけた花数を競っているようである。
それぞれの表情をカメラに収めようと、夢中になってファインダーを覗いていた。
横を通り過ぎる人気を感じたが、お構いなしにシヤッターを切っていると、「おはようございます。」との声を掛けられた。
聞こえないふりをしてカメラにかじりついていると、「おはようございます。」と二度目の挨拶である。
カメラから目を離しつつ、軽く会釈して返した。
見ると、若き学僧のようである。深々と丁寧な会釈を返された。
声を掛けられ気分が良かったのに、立ち去られたあと自分の所作に気まずい思いがして、自らを恥じた。
親子ほど年齢が違う学僧にあらためて行儀を教わることとなるとは。
先んじて声掛けすることをあらためて学ばせて貰った。
今の自分には高僧の百の説教講話より、学僧の実践してくれた所作動作の方が身に浸みて伝わってくることを感じた。
そもそも真言宗智山派・総本山智積院は、慶長6年(1601年)、徳川家康により京都東山に寺院を寄進され、五百佛山根来寺智積院(いおぶさん ねごろじ ちしゃくいん)を再興されたことにはじまり、「学山」として教学の研鑚や修行などを厳しく行い、また、他宗の僧侶や一般の学徒にも開放された「学問寺」としての性格を持つ寺院として、江戸時代には多くの学匠を輩出している寺院である。
そのルーツは、弘法大師亡きあと300年後に、衰退していた真言宗の改革に功をなし、中興の祖となった興教大師覚鑁上人(1095〜1143年/こうぎょうだいし かくばんしょうにん)の創建した高野山の学問所となる伝法院や、「新義」といわれる真言宗の教学の確立、更に、高野山金剛峯寺の座主を退いたあと移られた根来山内(和歌山県)での学僧の養成が隆盛を極め、真言教学の府として栄えたところに見られる。
戦国時代にはその坊舎二千七百、僧徒六千、所領七十万石があったと言われ、時の秀吉は政治経済に関わる大勢力に恐れをなし、焼き討ちを行うに到ったほどである。
皮肉なことに、現在の智積院の地は、秀吉の豊国社と晩年淀君との間に誕生した鶴松の菩提を弔う洛中最高の贅を尽くしたといわれる祥雲禅寺の跡だった歴史を持つ。
智山派は、その源流を起こした興教大師が高野山金剛峯寺の座主を追われ、根来山に移れば秀吉に焼かれ、育てた学僧達は諸国を流浪せざるを得なかった波乱万丈な歴史を持つ。
然しながら、宗祖弘法大師、中興の祖「興教大師」の意志を受け継ぎ、智積院をこの地に再興することが出来えた。それを為した「玄宥(げんゆう)僧正」像が金堂前参道左脇に建つ。
銅像を眺めながら、知りうる幾星霜の歳月を鑑みていると、玄宥僧正像の傍の白梅に野鳥が降りてきて、冬枯れした苔の地面に餌を見つけたのか、なにやら啄ばんでいた。
緑の木々に包まれるように建つ朱塗りの金堂に着いた。
外から見ても随分と大きかったが、中に入り見上げる天井は高く、薄暗くともその空間の大きさに驚かされる。奥正面には本尊大日如来像が安置され黄金色を放っていた。
桂昌院(徳川5代将軍綱吉の生母)寄進の金堂が明治15年(1882年)に焼失したままだったところ、昭和50年に宗祖弘法大師生誕千二百年の記念事業として、昭和の祈りを込めて建立されたものであると駒札に記されている。
金堂を出ると梅園が見渡せる。
全体を眺めると紅白の斑点模様のようだ。その先には京都タワーが見えている。
梅園の木々に目を凝らすと、赤い花も濃い紅、薄い紅とある。つい近づいていきたくなった。
木々の間の地べたに人陰が見えた。地を這うような様子である。
庭の手入れをする人だった。細かな苔の間に挟まる木屑や葉屑を丁寧に拾っている。
梅園の苔の広さを見るだけで、その手入れは気の遠くなる程の時間を要する筈である。
手入れというより修行のように思えた。
心がこもっていなければ為せる技でないと感じた。
そのお蔭があってこそ、こんなに寛がせて貰えているのだと感謝の念に絶えなかった。
石段を下りると、右手の紅梅越しの先に大師堂が霞んで見えている。
あの大師堂の右隣に興教大師覚鑁の尊像を安置する蜜厳堂があるはずた。
左手に本尊不動明王を祀る明王殿が金堂と並んで建っている。その間の参道を行くと墓地である。墓地の手前にも梅が一列に植栽されていた。
明王殿前の庭園の広がりには白梅の方がが多いようだが、下り坂になる角の八重の紅梅が好きである。
三方から紅梅越しに景色を眺めるのである。
金堂の朱塗りの堂宇に薄紅の花は同系色と思われるだろうが、実に華やかで気持ちが明るくなる。
一方、明王殿の黒に五色の懸垂幕はコントラストが良く、そこへ朝陽を浴びた薄紅が煌めくのも深みを帯びた感慨がある。
そして西に振り向くと、木々の緑と飛行機雲をともなった大きな青空を背景に、ふくよかな薄紅の花が陽気に手招きしている様子が見られるのだ。
青空を仰ぎながら緩い坂を下っていくと、深紅の紅梅とたなびく不動明王の白布の幟との絡み合う光景の妙に出合える。
もう少し下がると、今度は白梅越しに明王殿を眺めることができる。その右手に並ぶ紅白の梅が枝の間からは智専之鐘も覗き見できた。
長谷川等伯一門の残した「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」等、国宝障壁画で知られる智積院の梅が、梅の名所ガイドに上る日はそう遠くないだろう。
境内に約130本の梅が植栽された梅園は、間違いなく隠れた梅の名所といえる。
傑出した学匠を輩出してきた学問寺に相応しい命脈か息づいた、気高き梅園である。
真言宗智山派総本山智積院,
http://www.chisan.or.jp/sohonzan/index.html
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
京都では、東山花灯路に涅槃図公開の声が俄かに聞こえだし、そろそろ本格的な春が近づいてきたなと思う。
京都御苑の梅林の観賞に出向いても、北隣の桃林の開花が気になってしょうがない頃でもある。
観梅の終盤が近づいているわけだが、三月下旬までなら、まだまだ楽しめるところはある。今朝は東山七条に向かうべく家を出た。
目指すは智積院の梅園である。
智積院の境内は緩やかな丘陵地のようで、かつ広い。その境内には梅の木があちこちに植栽されている庭園になっていて、その中に堂宇が建つ。各々の堂宇を背景に眺める梅は様々な顔を見せる。
庭園で言えば、国宝障壁画が飾られていた大書院の築山泉水庭が富に有名で、庭園の池が書院の縁の下に入り込み、まるで平安時代の釣殿のようで、大書院より眺める築山は四季を通じ人の心を和ませている。そこは利休好みの名庭として知られ、多くの観光客を集めている。
しかし、その念入りに作り込まれた名勝庭園とは趣を異にする梅園が、小生は好きだ。
なぜなら、仄かな香りを楽しみながら、あちらにこちらにと自由に散策できるからである。
七条通を東へ、突き当たりが智積院の総門で、東大路通に面して石垣を土台にした高い塀が南に伸びている。塀沿いに下ると左手に境内への入口がある。
出入り口の両脇には、大きな狛犬が出迎えているので、誰にも分る。
南側に座る狛犬は足元に紅梅を従え、東大路沿いの石垣の上には紅梅と白梅が紅白幕よろしく咲き、塀の東内側が阿弥陀ヶ峰の山懐に抱かれるように、広々と境内が開いでいる。
手前右手に宿坊智積院会館、左手に受付・朱印所がある。
受付に軽く会釈して、梅園へとそのまま山手に向かって真っ直ぐ進めば良い。
境内一面に敷き詰められたような苔の間に、石板の散策路が鍵形に整然と行く先を導いている。松の緑に囲まれた合間に赤い花をつけた木々が見え隠れした。その先の堂宇に五色の幕が懸かっているのが見えた。
鍵形の石段を数段上り先へ進むと、正面前方に金堂、左手に大書院、右手前方下方に鐘楼である。
大書院への拝観受付所の手前で、白梅が今が盛りと透き通るように光り輝いている。
その向かい側では薄紅色の紅梅が穏やかな笑みを浮かべ、金堂に向かう側の参道沿いでは深紅の紅梅がたわわにつけた花数を競っているようである。
それぞれの表情をカメラに収めようと、夢中になってファインダーを覗いていた。
横を通り過ぎる人気を感じたが、お構いなしにシヤッターを切っていると、「おはようございます。」との声を掛けられた。
聞こえないふりをしてカメラにかじりついていると、「おはようございます。」と二度目の挨拶である。
カメラから目を離しつつ、軽く会釈して返した。
見ると、若き学僧のようである。深々と丁寧な会釈を返された。
声を掛けられ気分が良かったのに、立ち去られたあと自分の所作に気まずい思いがして、自らを恥じた。
親子ほど年齢が違う学僧にあらためて行儀を教わることとなるとは。
先んじて声掛けすることをあらためて学ばせて貰った。
今の自分には高僧の百の説教講話より、学僧の実践してくれた所作動作の方が身に浸みて伝わってくることを感じた。
そもそも真言宗智山派・総本山智積院は、慶長6年(1601年)、徳川家康により京都東山に寺院を寄進され、五百佛山根来寺智積院(いおぶさん ねごろじ ちしゃくいん)を再興されたことにはじまり、「学山」として教学の研鑚や修行などを厳しく行い、また、他宗の僧侶や一般の学徒にも開放された「学問寺」としての性格を持つ寺院として、江戸時代には多くの学匠を輩出している寺院である。
そのルーツは、弘法大師亡きあと300年後に、衰退していた真言宗の改革に功をなし、中興の祖となった興教大師覚鑁上人(1095〜1143年/こうぎょうだいし かくばんしょうにん)の創建した高野山の学問所となる伝法院や、「新義」といわれる真言宗の教学の確立、更に、高野山金剛峯寺の座主を退いたあと移られた根来山内(和歌山県)での学僧の養成が隆盛を極め、真言教学の府として栄えたところに見られる。
戦国時代にはその坊舎二千七百、僧徒六千、所領七十万石があったと言われ、時の秀吉は政治経済に関わる大勢力に恐れをなし、焼き討ちを行うに到ったほどである。
皮肉なことに、現在の智積院の地は、秀吉の豊国社と晩年淀君との間に誕生した鶴松の菩提を弔う洛中最高の贅を尽くしたといわれる祥雲禅寺の跡だった歴史を持つ。
智山派は、その源流を起こした興教大師が高野山金剛峯寺の座主を追われ、根来山に移れば秀吉に焼かれ、育てた学僧達は諸国を流浪せざるを得なかった波乱万丈な歴史を持つ。
然しながら、宗祖弘法大師、中興の祖「興教大師」の意志を受け継ぎ、智積院をこの地に再興することが出来えた。それを為した「玄宥(げんゆう)僧正」像が金堂前参道左脇に建つ。
銅像を眺めながら、知りうる幾星霜の歳月を鑑みていると、玄宥僧正像の傍の白梅に野鳥が降りてきて、冬枯れした苔の地面に餌を見つけたのか、なにやら啄ばんでいた。
緑の木々に包まれるように建つ朱塗りの金堂に着いた。
外から見ても随分と大きかったが、中に入り見上げる天井は高く、薄暗くともその空間の大きさに驚かされる。奥正面には本尊大日如来像が安置され黄金色を放っていた。
桂昌院(徳川5代将軍綱吉の生母)寄進の金堂が明治15年(1882年)に焼失したままだったところ、昭和50年に宗祖弘法大師生誕千二百年の記念事業として、昭和の祈りを込めて建立されたものであると駒札に記されている。
金堂を出ると梅園が見渡せる。
全体を眺めると紅白の斑点模様のようだ。その先には京都タワーが見えている。
梅園の木々に目を凝らすと、赤い花も濃い紅、薄い紅とある。つい近づいていきたくなった。
木々の間の地べたに人陰が見えた。地を這うような様子である。
庭の手入れをする人だった。細かな苔の間に挟まる木屑や葉屑を丁寧に拾っている。
梅園の苔の広さを見るだけで、その手入れは気の遠くなる程の時間を要する筈である。
手入れというより修行のように思えた。
心がこもっていなければ為せる技でないと感じた。
そのお蔭があってこそ、こんなに寛がせて貰えているのだと感謝の念に絶えなかった。
石段を下りると、右手の紅梅越しの先に大師堂が霞んで見えている。
あの大師堂の右隣に興教大師覚鑁の尊像を安置する蜜厳堂があるはずた。
左手に本尊不動明王を祀る明王殿が金堂と並んで建っている。その間の参道を行くと墓地である。墓地の手前にも梅が一列に植栽されていた。
明王殿前の庭園の広がりには白梅の方がが多いようだが、下り坂になる角の八重の紅梅が好きである。
三方から紅梅越しに景色を眺めるのである。
金堂の朱塗りの堂宇に薄紅の花は同系色と思われるだろうが、実に華やかで気持ちが明るくなる。
一方、明王殿の黒に五色の懸垂幕はコントラストが良く、そこへ朝陽を浴びた薄紅が煌めくのも深みを帯びた感慨がある。
そして西に振り向くと、木々の緑と飛行機雲をともなった大きな青空を背景に、ふくよかな薄紅の花が陽気に手招きしている様子が見られるのだ。
青空を仰ぎながら緩い坂を下っていくと、深紅の紅梅とたなびく不動明王の白布の幟との絡み合う光景の妙に出合える。
もう少し下がると、今度は白梅越しに明王殿を眺めることができる。その右手に並ぶ紅白の梅が枝の間からは智専之鐘も覗き見できた。
長谷川等伯一門の残した「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」等、国宝障壁画で知られる智積院の梅が、梅の名所ガイドに上る日はそう遠くないだろう。
境内に約130本の梅が植栽された梅園は、間違いなく隠れた梅の名所といえる。
傑出した学匠を輩出してきた学問寺に相応しい命脈か息づいた、気高き梅園である。
真言宗智山派総本山智積院,
http://www.chisan.or.jp/sohonzan/index.html
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
5358-110308-3月
関連歳時/文化
写真/画像検索
関連コラム
観梅といえば……
- 黒谷の梅から東北院軒端梅を歩く
梅は咲いたか桜はまだかいな - 観梅 京の梅かほる
薫る梅林は国の宝なり - 観梅 城南宮の枝垂れ梅
梅の香のする桜花が柳の枝に咲いているそうな - 小野小町ゆかりの随心院の観梅会
におう梅花、匂う女御におどる男、はかなし - 観梅 清凉寺の軒端梅
梅に鶯、文人に恋、我には餅を - 青梅の思い出
烏梅・白梅・蜜梅 梅の食し方
楓図といえば……
- 高雄観楓図屏風を歩く
戦乱の最中でさえ、紅葉狩りはやめられない
桜図といえば……
- 洛中洛外京桜図 一見さんの桜に通の桜 編 その二
西山の桜狩に習う - 洛中洛外京桜図 一見さんの桜に通の桜 編 その三
美山の蕎麦より、山つつじを楽しみならのドライブ? - 洛中洛外京桜図 一見さんの桜に通の桜 編 その四
京の桜見をふりかえれば - 洛中洛外京桜図 一見さんの桜に通の桜編 その一
御所紫宸殿左近の桜に始まる 桜の京都
東山花灯路といえば……
- 花灯路
春の宵 ゆらめく灯り - 昼の涅槃図 夜のライトアップ
陽気に誘われ花に団子、涅槃の境地は遠かりけり - はんなり東山花灯路
時の止まるときを体感する