清盛の生涯で、邸と称するところが三ケ所ある。
一つは、平家一門の代表的な居館である六波羅殿で、二つは、別邸としていた西八条殿、三つは、遷都まで企てたところの福原殿である。
その何れもが往時の交通の要衝となる点が共通するように思われる。
六波羅は,小松谷を経て山科に抜ける道筋にあり,東国や伊勢平氏の本拠地伊勢・伊賀への玄関口に当り、西八条は、朱雀大路の内裏と鳥羽殿の中間点で山陰道にも睨みの利く位置に当り、福原は、山陽道と海路を抑えるところであると共に、見果てぬ夢となった海洋国家福原京の離宮で、平氏の拠点のひとつである貿易港の大輪田泊(現在の兵庫港・神戸港西部)の港を見下ろす場所である。
各々の地に纏わる話を読み合わせると、高階基章の娘や時子は六波羅で過ごし、その後時子は西八条殿に住んでいる。
清盛は、福原と西八条を行き来しているのだが、その間、平家物語や山塊記によると、白拍子祇王や白拍子仏御前という女性が、西八条殿に住んでいるのだ。
また、神戸の来迎寺々記や摂津名所図会によると、祇王、祇女は、清盛の元へと福原に下り、清盛亡き後も菩提を真福寺で弔っているとしている。
物語や歴史とは厄介なもので、いつ、だれが、どこでということに不確かな記載がままある。
年代が後先前後することさえもある。すると、史実としてはどうなのかという判断に困り果てる。そこで、年を表わさず中期、後期、末期頃というアバウトな書き方を強いられるのである。
ともあれ、京の清盛の邸跡を歩いてみたい。
清盛一門の代名詞ともなる六波羅。
そこは、葬送地鳥辺野(とりべの)への入口で、六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ)の前があの世とこの世の境界の地となる賽河原と伝えられ、信仰の場となり、空也上人が創建(951年)した六波羅蜜寺や、小野篁(おののたかむら)の冥土通いの伝承をもつ六道珍皇寺などの寺院(834年〜848年創建)や御堂が建てられていたところである。
平安後期、六道珍皇寺辺りに邸を構えていた平正盛が建立の阿弥陀堂(現在の建仁寺塔頭常光院)を縁として、忠盛が六波羅蜜寺内の塔頭に軍勢を止めてより、伊勢平氏の居館が次々と築かれ、清盛、重盛に至り、広大な境内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだという。
平氏最盛期には、北は平安京の五条大路(現松原通)の東、南は六条大路(現七条通)の東あたりで南北はおよそ500メートル、東は車大路(現東山山麓)、西は鴨川、東西はおよそ600メートルにおよび、大和大路を門前に、その周囲には塀を巡らせ、惣領家の邸宅「泉殿」を中心として、平氏一族郎党の館が立ち並び、軒を連ね起居していたとされる。
重盛の一族が住まう六波羅の東南小松谷の小松殿を含むと、平家一門の敷地は東西五町、南北八町におよぶ膨大なものだったという。
毎年の盂蘭盆の六道まいりで歩いているところであるが。
あらためて、清盛の縁の地として歩くと趣が違い、同じ景色も違うように映るから不思議である。
六道珍皇寺門前の松原通を西へ、幽霊飴のある六道の辻を左南へ行くと柿町通で、六波羅蜜寺が右手にある。そして、六波羅裏門通である。その辻の右手西が三盛町で、左前方東が多門町である。六波羅の総門は東に向って開かれていたとのことで多門町は惣門の地と言われている。
三盛町は町名変更がされているようで、元は泉殿町であるようだ。
もと泉殿町の南側は門脇町で、その両町の西側が池殿町であった。
清盛の邸である「泉殿」、教盛の「門脇殿」、頼盛の「池殿」と、町名が符合するのである。まさしく六波羅殿の名残であろう。辺りをウロウロ歩きまわり、やっと多門町にある東山開睛館(元洛東中学校)の校門内左脇に、「此の附近 平氏六波羅第」の石標があることを聞きつけた。
ところが校舎は建て代わり、その石標は「六波羅蜜寺」へと移設されていた。
また、泉殿と称した清盛の本宅は、現在の豊国神社辺りとも聞くことからすると、一時住んだ館がある泉殿町を、教盛や頼盛らが使用していたことから、三盛町と改名されたのかもしれない。
「山塊記」によると、泉殿と池殿とは一町を隔てて南北に並んでいたというらしいから、勝手で大胆な推測を更に巡らすと、基章の娘(重盛・基盛の母)とは三盛町に住み、時子(宗盛・知盛・徳子・盛子の母)とは豊国神社辺りの邸に住んでいたのかもしれない。
頼盛の池殿とは、晩年の忠盛が住んでいた邸であり、忠盛の死後、頼盛の母池ノ禅尼宗子が伝領したところで、後に頼盛も池殿と称された。その邸宅はしばしば御所ともなり、治承2年(1178年)11月、清盛の娘徳子(建礼門院)が言仁親王(安徳天皇)を産み、治承5年(1181年)1月、高倉天皇が崩御した地でもあるという。
池殿町の西は大和大路通で、六波羅裏門通を更に西へ、宮川町筋へ向かうと、大黒町通松原下る辺りに北御門町・西御門町の名が残っている。平氏六波羅第の門があったとも、鎌倉幕府六波羅探題の門があったとも言われている。
その足で北上、建仁寺勅使門に向かった。六波羅の重盛邸から移したといわれる門らしく、扉に矢傷があることから矢ノ根門とも矢立門ともいわれている。唯一の平氏の栄華が目で見える痕跡であった。
六波羅をつぶさに歩いたあと六波羅蜜寺へと引き返した。
境内にある「清盛塚」と呼ばれる供養塔と宝物館に安置されている「平清盛坐像」にお参りしたかったのである。
清盛塚は、前にはなかった朱塗りの細柱と屋根で覆われていた。酸性雨で風化が激しい供養塔を保護するため、隣に並んだ「阿古屋」の石塚とともに、平成22年11月周辺整備を行い法要が営まれたと聞いた。
宝物館に入ると、空也上人立像と並べられ祀られた清盛坐像の前に立ち、凝視した。
出家した晩年の入道姿の木造である。経巻を手に小鼻の張りは自信をうかがわせ、垂れ気味の目は力強く、分厚い唇からは喜怒哀楽の激しい情熱的な性格が伝わってくる。
経を読む表情は、どことなく寂しげで苦しげに見えた。
平家物語の「我身栄花」の項はこう記している。
“日本秋津島(にっぽんあきつしま)は、わずかに六十六箇国、平家知行の国、三十余カ国、既に半国にこえたり。其外荘園田畠、いくらといふ数を知らず。
綺羅(きら)充満して、堂上(たうしゃう)花の如し。軒騎群集(けんきくんじゅ)して、門前市をなす。”
しかし、六波羅を歩いても、平氏の栄華の面影はどこにも残っていなかった。寿永2年(1183年)7月平氏都落ちのあと、六波羅は焼き払われたのである。
時の風に灰と化した栄華は、まさに平家物語の冒頭を口ずさまずにはいられなかった。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ
翌朝、別邸西八条殿跡に訪れることにした。 (続)
一つは、平家一門の代表的な居館である六波羅殿で、二つは、別邸としていた西八条殿、三つは、遷都まで企てたところの福原殿である。
その何れもが往時の交通の要衝となる点が共通するように思われる。
六波羅は,小松谷を経て山科に抜ける道筋にあり,東国や伊勢平氏の本拠地伊勢・伊賀への玄関口に当り、西八条は、朱雀大路の内裏と鳥羽殿の中間点で山陰道にも睨みの利く位置に当り、福原は、山陽道と海路を抑えるところであると共に、見果てぬ夢となった海洋国家福原京の離宮で、平氏の拠点のひとつである貿易港の大輪田泊(現在の兵庫港・神戸港西部)の港を見下ろす場所である。
各々の地に纏わる話を読み合わせると、高階基章の娘や時子は六波羅で過ごし、その後時子は西八条殿に住んでいる。
清盛は、福原と西八条を行き来しているのだが、その間、平家物語や山塊記によると、白拍子祇王や白拍子仏御前という女性が、西八条殿に住んでいるのだ。
また、神戸の来迎寺々記や摂津名所図会によると、祇王、祇女は、清盛の元へと福原に下り、清盛亡き後も菩提を真福寺で弔っているとしている。
物語や歴史とは厄介なもので、いつ、だれが、どこでということに不確かな記載がままある。
年代が後先前後することさえもある。すると、史実としてはどうなのかという判断に困り果てる。そこで、年を表わさず中期、後期、末期頃というアバウトな書き方を強いられるのである。
ともあれ、京の清盛の邸跡を歩いてみたい。
清盛一門の代名詞ともなる六波羅。
そこは、葬送地鳥辺野(とりべの)への入口で、六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ)の前があの世とこの世の境界の地となる賽河原と伝えられ、信仰の場となり、空也上人が創建(951年)した六波羅蜜寺や、小野篁(おののたかむら)の冥土通いの伝承をもつ六道珍皇寺などの寺院(834年〜848年創建)や御堂が建てられていたところである。
平安後期、六道珍皇寺辺りに邸を構えていた平正盛が建立の阿弥陀堂(現在の建仁寺塔頭常光院)を縁として、忠盛が六波羅蜜寺内の塔頭に軍勢を止めてより、伊勢平氏の居館が次々と築かれ、清盛、重盛に至り、広大な境内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだという。
平氏最盛期には、北は平安京の五条大路(現松原通)の東、南は六条大路(現七条通)の東あたりで南北はおよそ500メートル、東は車大路(現東山山麓)、西は鴨川、東西はおよそ600メートルにおよび、大和大路を門前に、その周囲には塀を巡らせ、惣領家の邸宅「泉殿」を中心として、平氏一族郎党の館が立ち並び、軒を連ね起居していたとされる。
重盛の一族が住まう六波羅の東南小松谷の小松殿を含むと、平家一門の敷地は東西五町、南北八町におよぶ膨大なものだったという。
毎年の盂蘭盆の六道まいりで歩いているところであるが。
あらためて、清盛の縁の地として歩くと趣が違い、同じ景色も違うように映るから不思議である。
六道珍皇寺門前の松原通を西へ、幽霊飴のある六道の辻を左南へ行くと柿町通で、六波羅蜜寺が右手にある。そして、六波羅裏門通である。その辻の右手西が三盛町で、左前方東が多門町である。六波羅の総門は東に向って開かれていたとのことで多門町は惣門の地と言われている。
三盛町は町名変更がされているようで、元は泉殿町であるようだ。
もと泉殿町の南側は門脇町で、その両町の西側が池殿町であった。
清盛の邸である「泉殿」、教盛の「門脇殿」、頼盛の「池殿」と、町名が符合するのである。まさしく六波羅殿の名残であろう。辺りをウロウロ歩きまわり、やっと多門町にある東山開睛館(元洛東中学校)の校門内左脇に、「此の附近 平氏六波羅第」の石標があることを聞きつけた。
ところが校舎は建て代わり、その石標は「六波羅蜜寺」へと移設されていた。
また、泉殿と称した清盛の本宅は、現在の豊国神社辺りとも聞くことからすると、一時住んだ館がある泉殿町を、教盛や頼盛らが使用していたことから、三盛町と改名されたのかもしれない。
「山塊記」によると、泉殿と池殿とは一町を隔てて南北に並んでいたというらしいから、勝手で大胆な推測を更に巡らすと、基章の娘(重盛・基盛の母)とは三盛町に住み、時子(宗盛・知盛・徳子・盛子の母)とは豊国神社辺りの邸に住んでいたのかもしれない。
頼盛の池殿とは、晩年の忠盛が住んでいた邸であり、忠盛の死後、頼盛の母池ノ禅尼宗子が伝領したところで、後に頼盛も池殿と称された。その邸宅はしばしば御所ともなり、治承2年(1178年)11月、清盛の娘徳子(建礼門院)が言仁親王(安徳天皇)を産み、治承5年(1181年)1月、高倉天皇が崩御した地でもあるという。
池殿町の西は大和大路通で、六波羅裏門通を更に西へ、宮川町筋へ向かうと、大黒町通松原下る辺りに北御門町・西御門町の名が残っている。平氏六波羅第の門があったとも、鎌倉幕府六波羅探題の門があったとも言われている。
その足で北上、建仁寺勅使門に向かった。六波羅の重盛邸から移したといわれる門らしく、扉に矢傷があることから矢ノ根門とも矢立門ともいわれている。唯一の平氏の栄華が目で見える痕跡であった。
六波羅をつぶさに歩いたあと六波羅蜜寺へと引き返した。
境内にある「清盛塚」と呼ばれる供養塔と宝物館に安置されている「平清盛坐像」にお参りしたかったのである。
清盛塚は、前にはなかった朱塗りの細柱と屋根で覆われていた。酸性雨で風化が激しい供養塔を保護するため、隣に並んだ「阿古屋」の石塚とともに、平成22年11月周辺整備を行い法要が営まれたと聞いた。
宝物館に入ると、空也上人立像と並べられ祀られた清盛坐像の前に立ち、凝視した。
出家した晩年の入道姿の木造である。経巻を手に小鼻の張りは自信をうかがわせ、垂れ気味の目は力強く、分厚い唇からは喜怒哀楽の激しい情熱的な性格が伝わってくる。
経を読む表情は、どことなく寂しげで苦しげに見えた。
平家物語の「我身栄花」の項はこう記している。
“日本秋津島(にっぽんあきつしま)は、わずかに六十六箇国、平家知行の国、三十余カ国、既に半国にこえたり。其外荘園田畠、いくらといふ数を知らず。
綺羅(きら)充満して、堂上(たうしゃう)花の如し。軒騎群集(けんきくんじゅ)して、門前市をなす。”
しかし、六波羅を歩いても、平氏の栄華の面影はどこにも残っていなかった。寿永2年(1183年)7月平氏都落ちのあと、六波羅は焼き払われたのである。
時の風に灰と化した栄華は、まさに平家物語の冒頭を口ずさまずにはいられなかった。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ
翌朝、別邸西八条殿跡に訪れることにした。 (続)
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