あじさいの宮といえば「藤森神社」、あじさい寺といえば「三室戸寺」と云われている。
これって誰が決めたのだろうか。
境内にあじさいを多く植えている所を指すのだろうが、一番最初に名乗ったからなのか。
誰もが認めているからか、常識として、その冠に異議を唱える声も聞くことがない。
自称だけでないとすれば、登録商標の申請でもしてあるのだろうか。
挿し木などで容易に増やせるのだから、敷地さえあれば一番になることは可能なのだが、その冠を争う話は聞いたことがない。
「京都あじさい寺」と検索してみると、「京都あじさい花寺巡りのご案内」というのが、一番にヒットした。京都西山の吉峰寺のドメインである。そのページは二つの寺院のリンク先が案内されていた。
苦笑いしたが、あじさいの名所を案内するページで、吉峰寺と三室戸寺であった。善峰寺は20種1万株だから、三室戸寺の60種1万株に匹敵しているではないか。
勿論、小生が数えた訳ではない、所謂公称である。
春の花見にでかけた時の吉峰寺の写真を探すと、「善峯白山・櫻あじさい苑」と大きな石碑に深く刻まれていた。その桜の谷があじさいに変わるのかと、数年前に出かけたのが善峰寺のあじさいを見る最初だった。
京都を眼下に見下ろすように広がる境内3万坪の回遊式庭園である。
ざっと見歩くだけで半時間はかかったように記憶している。
まだまだ敷地には余裕があり、紫陽花の株がもっと大きくなり、更に紫陽花の品種を三倍増にし、京のあじさい寺となることは容易いことだろうと思った。
そして今年、あらためて出かけることにした。
善峰道と呼ばれる208号線で丹波街道を横切り、大原野小塩町の十輪寺を経て暫く車を走らせていると、道傍左手に「善峯寺領」と刻まれた石碑が目に留まった。
何度も走る道だが今まで気づかなかったようだ。直ぐ右前方には自家製京漬物・松茸・竹の子を売る茶店「よしみね乃里」がある、その手前である。
店前にある大きな石像に目を盗られて見過ごしていたのだろう。
ここはまだ山裾で、善峰寺のある釈迦岳(小塩山の南嶺)の中腹までは暫くあるのだが、その領地の広大さに驚いているうちに、緑陰はどんどんと深くなり、山門近くに設けられた第一駐車場へ着く。
駐車場から左前方の木立の上に勇壮とした二層の山門が見え、そちらに向かう途中にある東門の下を見下ろすと、古道であろう九十九折の参道が見えた。
右に左に、三々五々に連なり登ってくる人の姿がある。
少しばかり気恥かしい思いがした。
山門を仰ぐと、「善峰寺」の寺額が印象的である。
鎌倉時代の建久3年(1192年)、後鳥羽上皇直筆の寺額を賜ったことにより官寺に列せられ、寺号が善峯寺となったのだから、その時の額であろうか。
否、応仁の乱(1467〜1477年)の兵火により、隆盛を極めていた50余の堂宇を有する大寺院の殆んどを焼失せしめられ、現在ある堂塔の多くは、徳川五代将軍綱吉生母の桂昌院の援助により再建された筈である。
目を下ろすと、山門右に、官寺に列せられたことを示す「西山宮門跡」の門札が架かっていた。
山門を潜ると早速両脇に紫陽花が出迎え、石段を上がると十一面千手観音を本尊とする観音堂(本堂)である。
観音堂右手に弘法大師像、石段を上がり護摩堂前の石段を更に上がると天然記念物の「遊龍の松」、多宝塔、経堂の周りにも紫陽花が彩を添えている。
普通なら、これだけでも満足して眺めているのかもしれないのだが、足早に開山堂の方へと向かう。
歩きながら紫陽花越しに見下ろす下界の景色には、ゆっくりとした時間が流れている。ここで立ち止まっていてもいいのだが、気忙しく先へと進む。
辿り着いたところが、「善峯白山・櫻あじさい苑」である。
斜面の谷間がちぎり絵のように華やかな雰囲気だ。
桜の枝葉と色とりどりの紫陽花が相まって斜面を棲み分けている。
その間を縫うようになだらかな坂道がある。目で追うと、朱の鳥居や北門の屋根、十三の塔が現れる。
更に上方を追うと、高い杉木立の下に六角堂のような建物が見えた。
ここまで来れば上らない訳にはいかないと、タオルを取り出し首に巻いた。
青と薄紅に植え分けられた斜面の道を下りる。
先程まで斜面を眺めていた「幸福地蔵」の真下を通り過ぎ、「白山名水」を目指している。幸福地蔵の舞台建築の足桁の周りも紫陽花が取り巻いていた。
左右を囲むセイヨウアジサイは珍しくもないが、それぞれの表情の違いに近寄りながらゆっくりと下る。
間もなく、燈籠に鶴瓶、古墳状のこんもりと盛り上がったところに植えられた紫陽花の薄紅色が見えてきた。近づくと、紫陽花の下は、石で積み上げこさえられた岩窟になっている。
白山名水は、遊歩道や鉢を整備し平成14年春に公開されたところで、それまでは近寄ることが許されなかった場所である。
良元2年(1029年)に同寺を開いた源算上人が、「白山権現」の神が降りられた夢を見て、この場所へ実際に見に来たところ、水が湧いていたとされる処である。
源算上人はその水で法華経を写しといわれ、この法華経は今も寺に伝わる。
紫陽花の丘には掘り出されたであろうお地蔵さんも見える。
見上げると、斜面から紫陽花の花が降り注いでくるかのような錯覚を覚える。
今度は見下ろしたくなり、白山権現を経て奥の院薬師堂を目指し、紫陽花の林となる緩い坂道を上り始めた。
暫く歩くと振り返り、それを繰り返す。
通ってきた紫陽花の道の花々が後押しするように見えた。
幸福地蔵の見晴らし台を見下ろすように見る。遠く霞む下界も実に気持ちがいい。
高台にある奥の院の直前に、「けいしょう殿」がある。
屋根が六角になった休憩所で、その中に桂昌院が手を合わすブロンズが置かれていた。
桂昌殿はあじさい苑が台座のようで、まるで持ち上げられているようにも感じる。
そもそも、桂昌院は、京都・堀川の八百屋、仁右衛門の娘で名前は玉子。
幼い頃両親に連れられて、善峯寺に参詣していた。母が玉子を連れ、一条家の家司と再婚したのが縁で、玉子は徳川三代将軍家光の側室お万の方の腰元となり、大奥で働く姿が家光の目にとまり、徳松(後の五代将軍綱吉)を産んだのである。
家光が亡くなった後、玉子は出家し桂昌院と名を改めた。
ところが、四代将軍家綱に子供がいなかったため、家綱が亡くなった後、綱吉が五代将軍となり桂昌院は将軍の母として江戸城に入ることになった。
桂昌院は、幼い頃のゆかりの善峯寺をはじめ諸寺復興に尽くしていたしいう。
宝永2年(1705年)、79歳で亡くなり遺骸は増上寺に葬られたが、善峯寺では恩に報いるため、遺髪を「桂昌院廟所」に納めて祀っているという。
西山に溢れる澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、休憩所の外にあるベンチに腰掛けた。京都市街の背後に見える山は比叡山麓であろう。
眺めていると、小忙しい思いもどこかへ吹っ飛び、大らかな気分になってきた。
一休み後、続いて奥の院、蓮華寿院の庭、青蓮院の宮御廟、阿弥陀堂など順路に従い、紫陽花の季節を回り終えた。
紫陽花とともに西山の山懐に抱かれ、桂昌院の傍で一日を過ごされてみてはいかがか
これって誰が決めたのだろうか。
境内にあじさいを多く植えている所を指すのだろうが、一番最初に名乗ったからなのか。
誰もが認めているからか、常識として、その冠に異議を唱える声も聞くことがない。
自称だけでないとすれば、登録商標の申請でもしてあるのだろうか。
挿し木などで容易に増やせるのだから、敷地さえあれば一番になることは可能なのだが、その冠を争う話は聞いたことがない。
「京都あじさい寺」と検索してみると、「京都あじさい花寺巡りのご案内」というのが、一番にヒットした。京都西山の吉峰寺のドメインである。そのページは二つの寺院のリンク先が案内されていた。
苦笑いしたが、あじさいの名所を案内するページで、吉峰寺と三室戸寺であった。善峰寺は20種1万株だから、三室戸寺の60種1万株に匹敵しているではないか。
勿論、小生が数えた訳ではない、所謂公称である。
春の花見にでかけた時の吉峰寺の写真を探すと、「善峯白山・櫻あじさい苑」と大きな石碑に深く刻まれていた。その桜の谷があじさいに変わるのかと、数年前に出かけたのが善峰寺のあじさいを見る最初だった。
京都を眼下に見下ろすように広がる境内3万坪の回遊式庭園である。
ざっと見歩くだけで半時間はかかったように記憶している。
まだまだ敷地には余裕があり、紫陽花の株がもっと大きくなり、更に紫陽花の品種を三倍増にし、京のあじさい寺となることは容易いことだろうと思った。
そして今年、あらためて出かけることにした。
善峰道と呼ばれる208号線で丹波街道を横切り、大原野小塩町の十輪寺を経て暫く車を走らせていると、道傍左手に「善峯寺領」と刻まれた石碑が目に留まった。
何度も走る道だが今まで気づかなかったようだ。直ぐ右前方には自家製京漬物・松茸・竹の子を売る茶店「よしみね乃里」がある、その手前である。
店前にある大きな石像に目を盗られて見過ごしていたのだろう。
ここはまだ山裾で、善峰寺のある釈迦岳(小塩山の南嶺)の中腹までは暫くあるのだが、その領地の広大さに驚いているうちに、緑陰はどんどんと深くなり、山門近くに設けられた第一駐車場へ着く。
駐車場から左前方の木立の上に勇壮とした二層の山門が見え、そちらに向かう途中にある東門の下を見下ろすと、古道であろう九十九折の参道が見えた。
右に左に、三々五々に連なり登ってくる人の姿がある。
少しばかり気恥かしい思いがした。
山門を仰ぐと、「善峰寺」の寺額が印象的である。
鎌倉時代の建久3年(1192年)、後鳥羽上皇直筆の寺額を賜ったことにより官寺に列せられ、寺号が善峯寺となったのだから、その時の額であろうか。
否、応仁の乱(1467〜1477年)の兵火により、隆盛を極めていた50余の堂宇を有する大寺院の殆んどを焼失せしめられ、現在ある堂塔の多くは、徳川五代将軍綱吉生母の桂昌院の援助により再建された筈である。
目を下ろすと、山門右に、官寺に列せられたことを示す「西山宮門跡」の門札が架かっていた。
山門を潜ると早速両脇に紫陽花が出迎え、石段を上がると十一面千手観音を本尊とする観音堂(本堂)である。
観音堂右手に弘法大師像、石段を上がり護摩堂前の石段を更に上がると天然記念物の「遊龍の松」、多宝塔、経堂の周りにも紫陽花が彩を添えている。
普通なら、これだけでも満足して眺めているのかもしれないのだが、足早に開山堂の方へと向かう。
歩きながら紫陽花越しに見下ろす下界の景色には、ゆっくりとした時間が流れている。ここで立ち止まっていてもいいのだが、気忙しく先へと進む。
辿り着いたところが、「善峯白山・櫻あじさい苑」である。
斜面の谷間がちぎり絵のように華やかな雰囲気だ。
桜の枝葉と色とりどりの紫陽花が相まって斜面を棲み分けている。
その間を縫うようになだらかな坂道がある。目で追うと、朱の鳥居や北門の屋根、十三の塔が現れる。
更に上方を追うと、高い杉木立の下に六角堂のような建物が見えた。
ここまで来れば上らない訳にはいかないと、タオルを取り出し首に巻いた。
青と薄紅に植え分けられた斜面の道を下りる。
先程まで斜面を眺めていた「幸福地蔵」の真下を通り過ぎ、「白山名水」を目指している。幸福地蔵の舞台建築の足桁の周りも紫陽花が取り巻いていた。
左右を囲むセイヨウアジサイは珍しくもないが、それぞれの表情の違いに近寄りながらゆっくりと下る。
間もなく、燈籠に鶴瓶、古墳状のこんもりと盛り上がったところに植えられた紫陽花の薄紅色が見えてきた。近づくと、紫陽花の下は、石で積み上げこさえられた岩窟になっている。
白山名水は、遊歩道や鉢を整備し平成14年春に公開されたところで、それまでは近寄ることが許されなかった場所である。
良元2年(1029年)に同寺を開いた源算上人が、「白山権現」の神が降りられた夢を見て、この場所へ実際に見に来たところ、水が湧いていたとされる処である。
源算上人はその水で法華経を写しといわれ、この法華経は今も寺に伝わる。
紫陽花の丘には掘り出されたであろうお地蔵さんも見える。
見上げると、斜面から紫陽花の花が降り注いでくるかのような錯覚を覚える。
今度は見下ろしたくなり、白山権現を経て奥の院薬師堂を目指し、紫陽花の林となる緩い坂道を上り始めた。
暫く歩くと振り返り、それを繰り返す。
通ってきた紫陽花の道の花々が後押しするように見えた。
幸福地蔵の見晴らし台を見下ろすように見る。遠く霞む下界も実に気持ちがいい。
高台にある奥の院の直前に、「けいしょう殿」がある。
屋根が六角になった休憩所で、その中に桂昌院が手を合わすブロンズが置かれていた。
桂昌殿はあじさい苑が台座のようで、まるで持ち上げられているようにも感じる。
そもそも、桂昌院は、京都・堀川の八百屋、仁右衛門の娘で名前は玉子。
幼い頃両親に連れられて、善峯寺に参詣していた。母が玉子を連れ、一条家の家司と再婚したのが縁で、玉子は徳川三代将軍家光の側室お万の方の腰元となり、大奥で働く姿が家光の目にとまり、徳松(後の五代将軍綱吉)を産んだのである。
家光が亡くなった後、玉子は出家し桂昌院と名を改めた。
ところが、四代将軍家綱に子供がいなかったため、家綱が亡くなった後、綱吉が五代将軍となり桂昌院は将軍の母として江戸城に入ることになった。
桂昌院は、幼い頃のゆかりの善峯寺をはじめ諸寺復興に尽くしていたしいう。
宝永2年(1705年)、79歳で亡くなり遺骸は増上寺に葬られたが、善峯寺では恩に報いるため、遺髪を「桂昌院廟所」に納めて祀っているという。
西山に溢れる澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、休憩所の外にあるベンチに腰掛けた。京都市街の背後に見える山は比叡山麓であろう。
眺めていると、小忙しい思いもどこかへ吹っ飛び、大らかな気分になってきた。
一休み後、続いて奥の院、蓮華寿院の庭、青蓮院の宮御廟、阿弥陀堂など順路に従い、紫陽花の季節を回り終えた。
紫陽花とともに西山の山懐に抱かれ、桂昌院の傍で一日を過ごされてみてはいかがか
5459-120621-6月
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