祇園祭といえば、誰もが山鉾巡行と口を揃える。日本三大祭の一つとして挙げられ、コンチキチンと、人々に愛される祭であることは嬉しい限りで、願ってもないことだ。
しかし、室町時代以前には山鉾巡行はなかった。
貞観十一年(869年)、疫病を鎮める祈りを込めて、卜部日良麿(うらべひらまろ)が神泉苑に66本の矛を立て、神輿三基を送り牛頭天王(ごずてんのう)を祀り、御霊会(ごりょうえ)を行ったのが祇園祭の起源で、山鉾巡行は安和3年(970年)より室町界隈で毎年行われるようになったものと聞く。
ところが、TVをはじめとするマスコミは、定規で測ったように毎年7月1日に報じるのは「長刀鉾の吉符入り」で、祭りのはじまりを伝えている。
その前後に流される祇園祭関係の祭事や行事においても山鉾関係が殆どで、挙げれば枚挙に暇がない。
実に芸のない話で、報道の怠慢と言うしか他ない。
山鉾以前の祭礼として担がれていた神輿三基、中御座・東御座・西御座。
この三座の神輿渡御を担っていた「三条台若中」という集団が、江戸時代に生まれている。現在も「三若」と愛称され、三若神輿会の名のもとに男衆が集まる。その輿丁の数は800名を超える勢いである。
三若以前の神輿渡御が如何なるものであったかは、歴史的文献など残されておらず知る術がないが、祇園祭が途絶えたことはないと心得ている。
その三若には会所があるというので、訪れることにした。
おそらく、全国津々浦々探しても、神輿会で会所を所有するところはないはずだ。
三条台若中を組織していた者が信仰篤く、祭り好きで、如何に裕福であったかが計り知れるところである。
神泉苑通三条を下ったところにある、「三条台若中」と表札の掲げられた町家の前に駒札が建てられていた。
三条台若中会所(さんじょうだいわかじゅうかいしょ)
この付近は慶長九年(1604)の二条城築城の頃より二条廻りと呼ばれていましたが、元禄から享保にかけて三条台村に地名が変わりました。
元禄の頃(1690年頃)から八坂神社の神輿渡御に奉仕し、三条台村の有志が相集いむらの発展と共に「三条台若中」という組織をつくり巡行に携わってきました。
天保三年(1832)民家を会所と定め、後、文久二年(1862)に改築。現在のものは、昭和二年(1927)に建て替えられました。
尚、神輿渡御については、明治までは中、東、西の三座とも神輿の渡御に携わっていましたが、現在は中御座のみをかついでおります。
「三条台若中」は、昭和五年に祭りの実行団体の三若組(現在の三若神輿会)と維持運営の祇神会に組織変更され、現在も活動を続けております。
三若神輿会・財団法人祇神会
玄関先で読み終えたあと、周辺を歩いてみた。
往時の三条台村は、北が二条、南は四条、東が堀川、西は西大路までが村域であった。
徒歩数分のところは、平安時代貞観十一年に祇園御霊会が行われた、内裏の広大な庭園があった神泉苑で、その東南端で、神輿三基を安置し神饌をお供えしたと伝わる、八坂神社境外末社の八坂神社御供社がある。
四条京極の御旅所に対して「又旅社」とも呼ばれているところだ。
三若会所の南筋向かいに、必勝、名付けの神として知られる武信稲荷神社もある。
社伝によると、平安時代の初期、清和天皇貞観元年(859年)2月、西三条大臣といわれた右大臣左近衛大将藤原良相(ふじわらのよしすけ)公によって創祀された神社で、平安時代の古図には、三条から南の神社付近一帯の広い地域は「この地、藤原氏延命院の地なり」と記されている。
どうやら、三若会所の辺りは知られざるパワースポットに思えてきた。
ひと回りして、三若会所の注連縄の架かる玄関門に足を踏み入れた。
玄関のガラス戸のはめ板には、三角形のもろこ紋と祇園社の神紋がくり抜かれていた。
上がり戸の上部に轅か横棒らしき担ぎ棒が、切り込まれ飾られている。
その足元には、黒塗りの胡座(あぐら/馬)が重ねて置かれている。どう見てもただの町家でないことを誰もが感ずる筈だ。
掲げられた横棒には、「八坂神社御神輿」「明治四十参年神輿三若組」と彫り込まれている。
部屋の中は、黙々と神輿弁当の竹の皮を拭く輿丁で溢れていた。
奥の間の三若神輿会の吉川和男会長の許しを得、関係者幹部の話に耳を傾けた。
元来、祇園祭の神輿渡御を執り行う者達は、結成に関わった地主や材木商などの旦那衆の寄り合いで、八坂神社(祇園社)の宮座としての役割を果たしていたようだ。
その構成員は世襲制で、一家の長男でないと認められない仕来りとなっており、現在も脈々と受継がれているという。
しかし、時代の変化で、神輿会の正会員も激減し維持運営が困難になっているようだった。
「・・・、今年から準会員制度を設けるよう変革し、新たな地縁者に参事を委嘱できるようにしました。」とは、吉川会長の弁。
掟を変えるわけにはいかないが、少子化と核家族化と職業の多様化など、時代の波に対応を迫られたのであろう。
役員に付き添われ、二階にある床の間に案内された。夕刻に執り行われる吉符入りの室礼が整っていた。
「吉符入り」とは、祭開始の儀式のことである。祇園祭で行われる全ての神事は、この「吉符入り」より始まるのである。
八坂神社の掛け軸と三方に御神酒が設えられ、祇園祭の真髄である中御座神輿渡御を担う三若神輿会の関係者達が集い、お祓いと直会が行われる。
神棚と化した床の間に架かる掛け軸の文字に驚いた。
中央に「神速素戔鳴尊」、右に「櫛稲田媛命」、左に「五男三女八柱命」と揮毫されていた。
八坂神社常盤殿や鉾町会所で見た、神事での八坂神社の掛け軸には、「牛頭天王」と揮毫されていたものを目にしていたからである。
神仏習合の由縁と言ってしまえばそれまでだが、使い分けの究明がしたくならざるを得なかった。
疫病退散の御霊会に、神輿が氏子町を練り、町や国々に散乱する厄を拾い集めて還ると言われる。その神輿を担ぐ輿丁は白の死に装束を身に纏い臨むのである。
これが祇園祭であり、その門出となる吉符入りの儀式こそが、真のプロローグに当たるのではないか。
その日にあった、輿丁の行う神輿弁当の竹の皮拭きが、死出の旅の覚悟を示すかのようであった。
しかし、室町時代以前には山鉾巡行はなかった。
貞観十一年(869年)、疫病を鎮める祈りを込めて、卜部日良麿(うらべひらまろ)が神泉苑に66本の矛を立て、神輿三基を送り牛頭天王(ごずてんのう)を祀り、御霊会(ごりょうえ)を行ったのが祇園祭の起源で、山鉾巡行は安和3年(970年)より室町界隈で毎年行われるようになったものと聞く。
ところが、TVをはじめとするマスコミは、定規で測ったように毎年7月1日に報じるのは「長刀鉾の吉符入り」で、祭りのはじまりを伝えている。
その前後に流される祇園祭関係の祭事や行事においても山鉾関係が殆どで、挙げれば枚挙に暇がない。
実に芸のない話で、報道の怠慢と言うしか他ない。
山鉾以前の祭礼として担がれていた神輿三基、中御座・東御座・西御座。
この三座の神輿渡御を担っていた「三条台若中」という集団が、江戸時代に生まれている。現在も「三若」と愛称され、三若神輿会の名のもとに男衆が集まる。その輿丁の数は800名を超える勢いである。
三若以前の神輿渡御が如何なるものであったかは、歴史的文献など残されておらず知る術がないが、祇園祭が途絶えたことはないと心得ている。
その三若には会所があるというので、訪れることにした。
おそらく、全国津々浦々探しても、神輿会で会所を所有するところはないはずだ。
三条台若中を組織していた者が信仰篤く、祭り好きで、如何に裕福であったかが計り知れるところである。
神泉苑通三条を下ったところにある、「三条台若中」と表札の掲げられた町家の前に駒札が建てられていた。
三条台若中会所(さんじょうだいわかじゅうかいしょ)
この付近は慶長九年(1604)の二条城築城の頃より二条廻りと呼ばれていましたが、元禄から享保にかけて三条台村に地名が変わりました。
元禄の頃(1690年頃)から八坂神社の神輿渡御に奉仕し、三条台村の有志が相集いむらの発展と共に「三条台若中」という組織をつくり巡行に携わってきました。
天保三年(1832)民家を会所と定め、後、文久二年(1862)に改築。現在のものは、昭和二年(1927)に建て替えられました。
尚、神輿渡御については、明治までは中、東、西の三座とも神輿の渡御に携わっていましたが、現在は中御座のみをかついでおります。
「三条台若中」は、昭和五年に祭りの実行団体の三若組(現在の三若神輿会)と維持運営の祇神会に組織変更され、現在も活動を続けております。
三若神輿会・財団法人祇神会
玄関先で読み終えたあと、周辺を歩いてみた。
往時の三条台村は、北が二条、南は四条、東が堀川、西は西大路までが村域であった。
徒歩数分のところは、平安時代貞観十一年に祇園御霊会が行われた、内裏の広大な庭園があった神泉苑で、その東南端で、神輿三基を安置し神饌をお供えしたと伝わる、八坂神社境外末社の八坂神社御供社がある。
四条京極の御旅所に対して「又旅社」とも呼ばれているところだ。
三若会所の南筋向かいに、必勝、名付けの神として知られる武信稲荷神社もある。
社伝によると、平安時代の初期、清和天皇貞観元年(859年)2月、西三条大臣といわれた右大臣左近衛大将藤原良相(ふじわらのよしすけ)公によって創祀された神社で、平安時代の古図には、三条から南の神社付近一帯の広い地域は「この地、藤原氏延命院の地なり」と記されている。
どうやら、三若会所の辺りは知られざるパワースポットに思えてきた。
ひと回りして、三若会所の注連縄の架かる玄関門に足を踏み入れた。
玄関のガラス戸のはめ板には、三角形のもろこ紋と祇園社の神紋がくり抜かれていた。
上がり戸の上部に轅か横棒らしき担ぎ棒が、切り込まれ飾られている。
その足元には、黒塗りの胡座(あぐら/馬)が重ねて置かれている。どう見てもただの町家でないことを誰もが感ずる筈だ。
掲げられた横棒には、「八坂神社御神輿」「明治四十参年神輿三若組」と彫り込まれている。
部屋の中は、黙々と神輿弁当の竹の皮を拭く輿丁で溢れていた。
奥の間の三若神輿会の吉川和男会長の許しを得、関係者幹部の話に耳を傾けた。
元来、祇園祭の神輿渡御を執り行う者達は、結成に関わった地主や材木商などの旦那衆の寄り合いで、八坂神社(祇園社)の宮座としての役割を果たしていたようだ。
その構成員は世襲制で、一家の長男でないと認められない仕来りとなっており、現在も脈々と受継がれているという。
しかし、時代の変化で、神輿会の正会員も激減し維持運営が困難になっているようだった。
「・・・、今年から準会員制度を設けるよう変革し、新たな地縁者に参事を委嘱できるようにしました。」とは、吉川会長の弁。
掟を変えるわけにはいかないが、少子化と核家族化と職業の多様化など、時代の波に対応を迫られたのであろう。
役員に付き添われ、二階にある床の間に案内された。夕刻に執り行われる吉符入りの室礼が整っていた。
「吉符入り」とは、祭開始の儀式のことである。祇園祭で行われる全ての神事は、この「吉符入り」より始まるのである。
八坂神社の掛け軸と三方に御神酒が設えられ、祇園祭の真髄である中御座神輿渡御を担う三若神輿会の関係者達が集い、お祓いと直会が行われる。
神棚と化した床の間に架かる掛け軸の文字に驚いた。
中央に「神速素戔鳴尊」、右に「櫛稲田媛命」、左に「五男三女八柱命」と揮毫されていた。
八坂神社常盤殿や鉾町会所で見た、神事での八坂神社の掛け軸には、「牛頭天王」と揮毫されていたものを目にしていたからである。
神仏習合の由縁と言ってしまえばそれまでだが、使い分けの究明がしたくならざるを得なかった。
疫病退散の御霊会に、神輿が氏子町を練り、町や国々に散乱する厄を拾い集めて還ると言われる。その神輿を担ぐ輿丁は白の死に装束を身に纏い臨むのである。
これが祇園祭であり、その門出となる吉符入りの儀式こそが、真のプロローグに当たるのではないか。
その日にあった、輿丁の行う神輿弁当の竹の皮拭きが、死出の旅の覚悟を示すかのようであった。
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