いよいよ10月22日が迫ってきた。この日の正午に時代祭の巡行がスタートする。
また、夕刻6時に鞍馬の火祭の大小の松明(たいまつ)が練り歩きだす。
つまり、昼夜に対照が際立つ、二つの祭が見物できる按配である。
京都三大祭である絢爛豪華な王朝歴史絵巻行列と、京都三大奇祭と言われる豪快勇壮な火祭である。
前者の時代祭は、明治維新後の衰退する京都を盛り上げる起爆剤として、パリのカルーゼルパレードに習い、町衆が起こした平安遷都1100年記念祭に端を発し、継承されてきた。
後者は、御所大極殿の鬼門封じにある北東の「鞍馬寺」の鎮守社「由岐神社(鞍馬寺境内)」に祭神を迎えた故事に因み、平安中期天慶3年(940)より、地元民に深く溶け込んで受け継がれている。
旧暦9月9日、朱雀天皇の詔により、御所内裏に祀られていた由岐大明神を、国をあげての一大儀式として鞍馬に遷宮された。天慶年間(938~947)の平安京は、醍醐天皇の崩御、天慶の乱(平将門)、相次ぐ大地震等天変地異により騒然とし、都の北方鎮護、天下泰平と万民守護が急務であったからだ。
その遷宮の行列は10町(1Km)に及び、往路には篝火が焚かれ、鴨川の葦でこさえられた松明が手に手に持たれ、山深い鞍馬街道まで続いたと。
これに大層感激した村人達は、後世に伝えるべく、由岐大明神の霊験を火祭として護っている。
その火祭は、御霊会の祭具である剣鉾があることからも、怨霊(おんりょう)鎮めの祭であることが判る。元来は家門の小篝火(エジ)と小松明で、神輿と鉾の巡行を行う祭礼であったが、江戸時代末期頃より、「神楽松(かぐらたいまつ)」「大松明(おおたいまつ)」「中松明」のほか、手松明として持つ「小松明」「トックリ」など壮観な火祭の体を成していったと聞く。
奇祭といわれる見所というと、「チョッペン」と呼ばれる成人になる儀式である。 松明にかざされた鞍馬寺山門前で、神輿の担い棒にぶら下がり、逆さ大の字に足を広げるところである。
およそ伝統的な神事には、女性を排除する風潮がよく見られるが、ここでは、石段を下りようとする神輿の綱を、女性が山手に引き持ち、怨霊火祭に参加するところなども珍奇である。
地元では安産に繋がると言継がれている。
祭の準備は5月からフジやツツジの柴刈りに始まり、フジの根で円錐形に縛る松明作りまで、全て地元民で行われる。
鞍馬では一年は13ヶ月と言われ、古くから「七仲間」という世襲制の150世帯ほどの住民組織で、祭りの役割を分担し、火祭りに一ヶ月の手間を費やすそうだ。
こうした鞍馬の集落の結束は固い。火祭当日の装束に身をやつした、村の衆の誇らしげな様子を見れば、その結束は感じ取れるはずだ。石段脇に立つ樹齢約600年、幹周6.42m、樹高49mの大杉のように堂々としたものである。
そして、山仕事の多かった男衆の力強さが、神輿を担ぐ独特の装束にも表れている。
色柄の船頭篭手(せんどうごて)に白の肩当て、黒の締込み(しめこみ)に下がり、黒脚絆(きゃはん)と黒足袋(たび)に武者草鞋(むしゃわらじ)を履き、向こう鉢巻の背中には魔よけの南天の小枝が付けられている。
この圧巻のクライマックスを見るには、時代祭のあと早々に出向かけなければ、出町柳で門前払に出会うかもしれない。くれぐれも下調べと、夕食持参に手袋、防寒上着も忘れずに。
そして、鞍馬では、見物する足の踏み場にも難儀することになるだろう。
しかしながら値する祭なのだ。
鞍馬火祭り 由岐神社
http://www.yukijinjya.jp/
鞍馬の火祭 (京都新聞社)
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/himatsuri/kurama/
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
また、夕刻6時に鞍馬の火祭の大小の松明(たいまつ)が練り歩きだす。
つまり、昼夜に対照が際立つ、二つの祭が見物できる按配である。
京都三大祭である絢爛豪華な王朝歴史絵巻行列と、京都三大奇祭と言われる豪快勇壮な火祭である。
前者の時代祭は、明治維新後の衰退する京都を盛り上げる起爆剤として、パリのカルーゼルパレードに習い、町衆が起こした平安遷都1100年記念祭に端を発し、継承されてきた。
後者は、御所大極殿の鬼門封じにある北東の「鞍馬寺」の鎮守社「由岐神社(鞍馬寺境内)」に祭神を迎えた故事に因み、平安中期天慶3年(940)より、地元民に深く溶け込んで受け継がれている。
旧暦9月9日、朱雀天皇の詔により、御所内裏に祀られていた由岐大明神を、国をあげての一大儀式として鞍馬に遷宮された。天慶年間(938~947)の平安京は、醍醐天皇の崩御、天慶の乱(平将門)、相次ぐ大地震等天変地異により騒然とし、都の北方鎮護、天下泰平と万民守護が急務であったからだ。
その遷宮の行列は10町(1Km)に及び、往路には篝火が焚かれ、鴨川の葦でこさえられた松明が手に手に持たれ、山深い鞍馬街道まで続いたと。
これに大層感激した村人達は、後世に伝えるべく、由岐大明神の霊験を火祭として護っている。
その火祭は、御霊会の祭具である剣鉾があることからも、怨霊(おんりょう)鎮めの祭であることが判る。元来は家門の小篝火(エジ)と小松明で、神輿と鉾の巡行を行う祭礼であったが、江戸時代末期頃より、「神楽松(かぐらたいまつ)」「大松明(おおたいまつ)」「中松明」のほか、手松明として持つ「小松明」「トックリ」など壮観な火祭の体を成していったと聞く。
奇祭といわれる見所というと、「チョッペン」と呼ばれる成人になる儀式である。 松明にかざされた鞍馬寺山門前で、神輿の担い棒にぶら下がり、逆さ大の字に足を広げるところである。
およそ伝統的な神事には、女性を排除する風潮がよく見られるが、ここでは、石段を下りようとする神輿の綱を、女性が山手に引き持ち、怨霊火祭に参加するところなども珍奇である。
地元では安産に繋がると言継がれている。
祭の準備は5月からフジやツツジの柴刈りに始まり、フジの根で円錐形に縛る松明作りまで、全て地元民で行われる。
鞍馬では一年は13ヶ月と言われ、古くから「七仲間」という世襲制の150世帯ほどの住民組織で、祭りの役割を分担し、火祭りに一ヶ月の手間を費やすそうだ。
こうした鞍馬の集落の結束は固い。火祭当日の装束に身をやつした、村の衆の誇らしげな様子を見れば、その結束は感じ取れるはずだ。石段脇に立つ樹齢約600年、幹周6.42m、樹高49mの大杉のように堂々としたものである。
そして、山仕事の多かった男衆の力強さが、神輿を担ぐ独特の装束にも表れている。
色柄の船頭篭手(せんどうごて)に白の肩当て、黒の締込み(しめこみ)に下がり、黒脚絆(きゃはん)と黒足袋(たび)に武者草鞋(むしゃわらじ)を履き、向こう鉢巻の背中には魔よけの南天の小枝が付けられている。
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