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節分の鬼やらいは宮中の追儺式(ついなしき)に始まり、初詣とともに今日でも欠かせない歳時記として、神社仏閣へ節分詣がなされ、家庭では豆撒きが行われている。
お父さんは鬼の面を被り、方相氏となる子供たちに豆を打たれ追い出されたあと、福鬼となってリビングに戻り、歳の数に一つ足された豆を食べ、あるいは恵方巻を無言になってかぶりつき、家族団欒に笑いをもたらしているだろうか。
こんな習わしを行う家庭には児童虐待などありはしないと思われる。実にいい風習ではないか。
厄除けを願う節分祭は有名な神社だけで行われているわけではない。市内をゆけば、あちこちで節分の立て札に出合う。
節分詣発祥の地といわれる吉田神社を目指して烏丸六角を出発した。
経路は、まず烏丸夷川を東に「豆政」さんに立ち寄り、寺町通に出て廬山寺に向かう。
「豆政」さんの表にはやっぱり吉田神社の節分のポスターが貼りだされていた。
「豆政」といえば、八ツ橋と並ぶ京名物五色豆の生みの親で、「夷川五色豆」、「すはまだんご」など、三十種を超える美味しくてこだわりのある豆菓子を世に出していることで夙に知られている。
節分豆が吉田神社境内で販売されるようになったのは大正14年からのことで、炒り豆の入った俵型の商品は飛ぶように売れ、それ以来、神社で節分豆が授与され販売されることが定着していったと聞く。それを提唱した頃は業界の誰もが見向きもしなかったらしいが、「豆政」さんの主の孤軍奮闘の為せる技だったのである。
炒り豆といえど美味しく頂くのなら、木枡に入った豆政の「招来福豆」に勝るものはないだろう。香ばしくしっかりとしていて、大豆の味わいがわかる。五色豆と半分づつに入ったものもあった。
寺町夷川を左北へ折れると、下御霊さん(下御霊神社)も節分祭である。
政争に巻き込まれて非業の死を遂げた崇道天皇をはじめとする、怨霊「八所御霊(はっしょごりょう)」が祀られ、皇室の産土神としても崇められてきた、疫病除けの信仰に篤い神社である。
拝殿に福寿の文字がある新年に相応しい兎の描かれた絵馬が置かれ、甘酒やお神酒が無料接待されていた。そこには氏子さんの奉仕の姿がみられる。
下御霊さんから北を向くと御所の一角が見える。
丸太町通を渡り北へ御苑の東沿いにしばらく歩く。緑に恵まれた街路をゆくのは気持ちがよい。
荒神口通で、「清荒神節分会」との文字が入った紅い幟と白い横断幕が目に入った。
一般家庭では火除けの守護神としてかまどの上に祀られ、身近に長く信仰されてきた清三宝大荒神は、1200年前、光仁天皇の皇子開成親王の作といわれる。
慶長五年(1600年)現在の地に移され、後陽成天皇御自作の如来荒神尊七体とあわせ祀られ、現在がある。
元禄十年(年)には護浄院の院号を賜り、明治維新に際しては、禁裏に奉安せられていた福徳恵美寿神が尊天堂内に安置された由緒あるところだ。
午後2時を過ぎていた。境内から♪福は内 鬼は外と、可愛い唄声が聞こえてくる。
紅白幕のかかった舞台に園児が並び、くじつき豆撒きが行われるようだ。
園児たちは、町内を絵馬みこしとともに奉納おねりをして、この豆撒きの主役となっている。参詣して荒神さんの火除け札を授かり、寺町通へ引き返し、梨木神社の東向かいにある、紫式部邸宅跡で知られる廬山寺へ向かった。
廬山寺の鬼法楽は良く知られる節分行事で、廬山寺の開祖・元三大師良源(慈恵大師)が、村上天皇の御代に宮中で行った三百日護摩供の時に、出現した悪鬼を護摩の法力と大師が持っている独鈷、三鈷の法器で降伏させたという故事に基づき執り行われている。
午後3時の追儺式鬼法楽(鬼おどり)まで半時間はあるのだが、境内は処狭しと人盛りで溢れていた。
時が満と、雅楽を奏しながら、楽人、三鬼、追儺師、蓬莱師、隆摩面持者、法器持者などの順に堂内に鬼法楽の行列が入った。
廬山寺の三鬼は、赤鬼(憤怒)、青鬼(貪欲)、黄鬼(苦悩)ではない。赤、青、黒鬼なのだ。
黒鬼はひとの煩悩にある「愚痴」を象徴し、これを祓おうというのである。
左手に松明、右手に宝剣をかざした赤鬼と、大斧を振り回す青鬼、木槌を振り上げる黒鬼の三鬼は、四股を踏む様に足拍子をとりながら鬼おどりを見せ堂内に入ってゆく。
堂内に入ると、護摩供を執り行なう導師の修法の邪魔をするのである。
その後、追儺師が花道に表れ、東西南北四方と中央とに五本の矢を放った。法弓である。
元三大師の使用した降魔矢に由来するもので、悪鬼、邪霊を降伏して平和を守ることを意味しているとの説明が流れた。
続けて蓬莱師や福娘によって撒かれる蓬莱豆で本堂から三鬼が追払われると、成敗された惨めな動作で門外へ逃げ去って行くのである。登場したときの形相とは明らかに違うものであった。これが廬山寺の鬼法楽である。
豆撒きはこのあとに行われた。蓬莱豆や福餅を手中に入れるには、事前にその場所の確保が必要で、素手で掴むのは至難のことである。
蓬莱豆とは大豆のまわりを砂糖で固めた紅白の豆のことをいう。紅白一粒づつ頂くと長寿が、福餅を頂くと開運出世が叶うとの信仰がある。
廬山寺には薄桃(白?)色の鬼がもう一匹いた。本堂の縁淵の角に腰を掛けている。
「御心持」との札がある。宝剣で体の痛い所、悪い所を叩き、お加持をしているようである。邪気を祓われた鬼による「鬼のお加持」で降摩して貰い、病気平癒を願うものだ。
勿論廬山寺では「角大師」のお札を授かり、荒神口通に引き返し東へ河原町通へ、更に東へ鴨川を渡る荒神橋には、清荒神の赤い幟がぎっしりとはためいていた。荒神橋東詰から近衛通を道なりに東大路まで進んだ。吉田神社の火炉祭までには時間があるので、丸太町の角まで下り、熊野神社に詣でる。
境内に用意されているお茶と八ッ橋の無料接待を受け、足をしばし休めた。
熊野神社といえば、社紋にある三本足の八咫烏と、京名物「八ッ橋発祥の地」の駒札に西尾為治の銅像が思い浮かぶ。
弘仁二年(811年)、修験道の日圓上人が紀州熊野大神を勧請したのが始まりで、後白河法皇の信仰が篤かったことで知られ、また、光格天皇寄進の神輿が伝わり、縁結び、安産の御利益で信仰を集める。
しかし、節分の日には「節分火除護符」を受けるのが習わしとなっているので、火除護符と福豆を授かり、聖護院門跡に向かった。
既に、追儺式と山伏の福豆撒き(午後1時)や厄よけ開運採燈大護摩供(午後3時)は終了しているのだが、聖護院の本尊不動明王が開帳されているからには是非参詣せねばならない。
山門を潜り中に入れば・・・「よう おまいりやしたぁー」、のお迎えの声が聞ける。
蝋燭を献納すると・・・「ろーそく1本いただきましたぁー」、と境内に響き渡る。
実に清々しく心改まるものである。
境内を歩くと、強面の山伏の真のやさしさに気づかされる。
聖護院門跡の筋向いが夕刻の最後となる須賀神社である。
須賀神社の懸想文売りをイメージし、懸想文を授与して帰ることを思い出させてくれたのが、
門跡前に露店を出していた本家西尾八ッ橋の「懸想餅」である。
塀の上に高々と立てられた青竹を見上げ、笹の葉に掛けられためでたき紅白の短冊を見るや、同じ文様の懸想文を思い出したのだ。
「お茶どうどすか」の声に、赤毛氈の掛けられた床机へ腰を下ろした。
早速、手土産に「懸想餅」を買って帰ることにした。
そして須賀神社に参詣し、その足で吉田神社に向かい、11時に点火される火炉祭を待つべく、縁日露店を楽しみ、境内で時を過ごした。
季節の変わり目の節分は運勢の変わり目でもある。
吉田山で一年の邪を祓い、来る新しい福寿開運の立春を迎えることにした。
京都に流れている時間はどこも素晴らしい。
お父さんは鬼の面を被り、方相氏となる子供たちに豆を打たれ追い出されたあと、福鬼となってリビングに戻り、歳の数に一つ足された豆を食べ、あるいは恵方巻を無言になってかぶりつき、家族団欒に笑いをもたらしているだろうか。
こんな習わしを行う家庭には児童虐待などありはしないと思われる。実にいい風習ではないか。
厄除けを願う節分祭は有名な神社だけで行われているわけではない。市内をゆけば、あちこちで節分の立て札に出合う。
節分詣発祥の地といわれる吉田神社を目指して烏丸六角を出発した。
経路は、まず烏丸夷川を東に「豆政」さんに立ち寄り、寺町通に出て廬山寺に向かう。
「豆政」さんの表にはやっぱり吉田神社の節分のポスターが貼りだされていた。
「豆政」といえば、八ツ橋と並ぶ京名物五色豆の生みの親で、「夷川五色豆」、「すはまだんご」など、三十種を超える美味しくてこだわりのある豆菓子を世に出していることで夙に知られている。
節分豆が吉田神社境内で販売されるようになったのは大正14年からのことで、炒り豆の入った俵型の商品は飛ぶように売れ、それ以来、神社で節分豆が授与され販売されることが定着していったと聞く。それを提唱した頃は業界の誰もが見向きもしなかったらしいが、「豆政」さんの主の孤軍奮闘の為せる技だったのである。
炒り豆といえど美味しく頂くのなら、木枡に入った豆政の「招来福豆」に勝るものはないだろう。香ばしくしっかりとしていて、大豆の味わいがわかる。五色豆と半分づつに入ったものもあった。
寺町夷川を左北へ折れると、下御霊さん(下御霊神社)も節分祭である。
政争に巻き込まれて非業の死を遂げた崇道天皇をはじめとする、怨霊「八所御霊(はっしょごりょう)」が祀られ、皇室の産土神としても崇められてきた、疫病除けの信仰に篤い神社である。
拝殿に福寿の文字がある新年に相応しい兎の描かれた絵馬が置かれ、甘酒やお神酒が無料接待されていた。そこには氏子さんの奉仕の姿がみられる。
下御霊さんから北を向くと御所の一角が見える。
丸太町通を渡り北へ御苑の東沿いにしばらく歩く。緑に恵まれた街路をゆくのは気持ちがよい。
荒神口通で、「清荒神節分会」との文字が入った紅い幟と白い横断幕が目に入った。
一般家庭では火除けの守護神としてかまどの上に祀られ、身近に長く信仰されてきた清三宝大荒神は、1200年前、光仁天皇の皇子開成親王の作といわれる。
慶長五年(1600年)現在の地に移され、後陽成天皇御自作の如来荒神尊七体とあわせ祀られ、現在がある。
元禄十年(年)には護浄院の院号を賜り、明治維新に際しては、禁裏に奉安せられていた福徳恵美寿神が尊天堂内に安置された由緒あるところだ。
午後2時を過ぎていた。境内から♪福は内 鬼は外と、可愛い唄声が聞こえてくる。
紅白幕のかかった舞台に園児が並び、くじつき豆撒きが行われるようだ。
園児たちは、町内を絵馬みこしとともに奉納おねりをして、この豆撒きの主役となっている。参詣して荒神さんの火除け札を授かり、寺町通へ引き返し、梨木神社の東向かいにある、紫式部邸宅跡で知られる廬山寺へ向かった。
廬山寺の鬼法楽は良く知られる節分行事で、廬山寺の開祖・元三大師良源(慈恵大師)が、村上天皇の御代に宮中で行った三百日護摩供の時に、出現した悪鬼を護摩の法力と大師が持っている独鈷、三鈷の法器で降伏させたという故事に基づき執り行われている。
午後3時の追儺式鬼法楽(鬼おどり)まで半時間はあるのだが、境内は処狭しと人盛りで溢れていた。
時が満と、雅楽を奏しながら、楽人、三鬼、追儺師、蓬莱師、隆摩面持者、法器持者などの順に堂内に鬼法楽の行列が入った。
廬山寺の三鬼は、赤鬼(憤怒)、青鬼(貪欲)、黄鬼(苦悩)ではない。赤、青、黒鬼なのだ。
黒鬼はひとの煩悩にある「愚痴」を象徴し、これを祓おうというのである。
左手に松明、右手に宝剣をかざした赤鬼と、大斧を振り回す青鬼、木槌を振り上げる黒鬼の三鬼は、四股を踏む様に足拍子をとりながら鬼おどりを見せ堂内に入ってゆく。
堂内に入ると、護摩供を執り行なう導師の修法の邪魔をするのである。
その後、追儺師が花道に表れ、東西南北四方と中央とに五本の矢を放った。法弓である。
元三大師の使用した降魔矢に由来するもので、悪鬼、邪霊を降伏して平和を守ることを意味しているとの説明が流れた。
続けて蓬莱師や福娘によって撒かれる蓬莱豆で本堂から三鬼が追払われると、成敗された惨めな動作で門外へ逃げ去って行くのである。登場したときの形相とは明らかに違うものであった。これが廬山寺の鬼法楽である。
豆撒きはこのあとに行われた。蓬莱豆や福餅を手中に入れるには、事前にその場所の確保が必要で、素手で掴むのは至難のことである。
蓬莱豆とは大豆のまわりを砂糖で固めた紅白の豆のことをいう。紅白一粒づつ頂くと長寿が、福餅を頂くと開運出世が叶うとの信仰がある。
廬山寺には薄桃(白?)色の鬼がもう一匹いた。本堂の縁淵の角に腰を掛けている。
「御心持」との札がある。宝剣で体の痛い所、悪い所を叩き、お加持をしているようである。邪気を祓われた鬼による「鬼のお加持」で降摩して貰い、病気平癒を願うものだ。
勿論廬山寺では「角大師」のお札を授かり、荒神口通に引き返し東へ河原町通へ、更に東へ鴨川を渡る荒神橋には、清荒神の赤い幟がぎっしりとはためいていた。荒神橋東詰から近衛通を道なりに東大路まで進んだ。吉田神社の火炉祭までには時間があるので、丸太町の角まで下り、熊野神社に詣でる。
境内に用意されているお茶と八ッ橋の無料接待を受け、足をしばし休めた。
熊野神社といえば、社紋にある三本足の八咫烏と、京名物「八ッ橋発祥の地」の駒札に西尾為治の銅像が思い浮かぶ。
弘仁二年(811年)、修験道の日圓上人が紀州熊野大神を勧請したのが始まりで、後白河法皇の信仰が篤かったことで知られ、また、光格天皇寄進の神輿が伝わり、縁結び、安産の御利益で信仰を集める。
しかし、節分の日には「節分火除護符」を受けるのが習わしとなっているので、火除護符と福豆を授かり、聖護院門跡に向かった。
既に、追儺式と山伏の福豆撒き(午後1時)や厄よけ開運採燈大護摩供(午後3時)は終了しているのだが、聖護院の本尊不動明王が開帳されているからには是非参詣せねばならない。
山門を潜り中に入れば・・・「よう おまいりやしたぁー」、のお迎えの声が聞ける。
蝋燭を献納すると・・・「ろーそく1本いただきましたぁー」、と境内に響き渡る。
実に清々しく心改まるものである。
境内を歩くと、強面の山伏の真のやさしさに気づかされる。
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「お茶どうどすか」の声に、赤毛氈の掛けられた床机へ腰を下ろした。
早速、手土産に「懸想餅」を買って帰ることにした。
そして須賀神社に参詣し、その足で吉田神社に向かい、11時に点火される火炉祭を待つべく、縁日露店を楽しみ、境内で時を過ごした。
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