「しば漬」は全国どこにいても手に入れることができる、身近な漬物のひとつである。
がしかし、その発祥の地、京都大原の里の「しば漬」は、全く異なるしば漬物である。
一度食されたなら絶句されることは間違いない。京の三大漬物と言われる由縁である。
京漬物「しば漬」は茄子・きゅうり・みょうがを、赤紫蘇とともに塩漬にして、乳酸発酵させたものである。漬け込み後1ヶ月間醗酵・熟成させ、紫蘇と茄子の皮が乳酸醗酵すると作り出される、自然な味と色なのである。
いとも素朴な製法であって、建礼門院徳子(1153〜1213)の時代に名づけられた時から変わらないと聞く。スピードやボリュームやコストパフォーマンスを競う時代にも、変わらず綿々と守り続けられている「しば漬」が、京漬物「しば漬」である。
朝霧に煙る山深い大原の里は、古くは京の都を捨てた人々の隠れ里だ。
その地で、平安時代に、紫蘇の葉と夏野菜とを保存食として塩漬していた里人達がいた。この時代にすでに香辛野菜として紫蘇の栽培は始まっていた。
そこへ、壇の浦の合戦で、敵方に命を救われた平清盛の娘、建礼門院徳子は、尼として寂光院に隠棲することになったのである。世話人もいない余生の日々は、滅亡した平氏一門と息子・安徳天皇の冥福を、ただただ祈る大変寂しいものであった。「平家物語」にある御白河法皇の「大原御幸」に記されている。
徳子の心を和ませてくれていたのは里人の優しさと心遣いであった。
ある日、寂光院へ差し入れされたのは「畑で採れた夏野菜の塩漬」であった。これを食した徳子は、その美味しさと色合いに感動し、その名もない塩漬に、自ら「紫葉漬け(むらさきはづけ)」と命名したという。
里人の伝承によると、徳子もその「紫葉漬け(むらさきはづけ)」を自ら漬けるようになったと聞く。
後にその名は音読みされるようになり、現在の「しば漬」と呼ばれている。
紫葉(むらさきは)と呼んだ葉は赤紫蘇(あかじそ)のことである。
日本各地の縄文時代遺跡から、しその実の出土があることからすると、広く自生していたことが伺われる。
その昔、この紫の葉で、蟹の食中毒で危うかった少年の命が蘇った。
旅の名医の置いていったこの葉に「紫蘇」と名づけられたのは、中国の三国時代(220~280年)であるという歴史を持つ毒消し薬草なのだ。
紫蘇は赤、青とも、品種により葉の縮れ方が違う。
「この中で、漬け用に使用する赤の中でも、原種の紫蘇に最も近いものが『ちりめん赤紫蘇』で、地形・気候条件に恵まれた大原の里と里人に守られている」と、 土井志ば漬本舗(左京区八瀬)は記している。
葉の周辺が縮れた風に波打つ、深い赤紫が特徴の「ちりめん赤紫蘇」は、しば漬の里大原のアイデンティティーとなっている。
しば漬は、直径・深さ約1メートルの八石樽に漬け込まれる。
その重石加減は里人の熟練者にしか判らないという。
重すぎれば水分が抜け切ってしまい、軽すぎれば酸っぱくなりすぎるらしい。
ここに、一朝一夕には漬け込めない技があるのだろう。
つまり、京漬物は京野菜の旨味を、どう引き出すかで漬けられていると言える。
漬物を味わうとき、野菜の風味か、調味料の味か、どちらを好みとされるか。
自然の素材から滲み出てくる味が、今も京都には脈々と生き続けているのだ。
その昔、大原女は薪や柴を洛陽にて行商していたが、しば漬は売り歩いていなかった。
京都大原志ば漬の里 (京漬物・しば漬 土井志ば漬本舗)
http://www.doishibazuke.co.jp/
しば漬を自分でつくろう (かけあしちょきんだいさくせん)
http://kakeashi.boo.jp/tsukemono3.htm
紫蘇 (おいしいネット)
http://www.o-e-c.net/syokuzai/siso.htm
京漬物 しば漬ドットコム (今日漬物 柴常)
http://www.shibazuke.com/
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
がしかし、その発祥の地、京都大原の里の「しば漬」は、全く異なるしば漬物である。
一度食されたなら絶句されることは間違いない。京の三大漬物と言われる由縁である。
京漬物「しば漬」は茄子・きゅうり・みょうがを、赤紫蘇とともに塩漬にして、乳酸発酵させたものである。漬け込み後1ヶ月間醗酵・熟成させ、紫蘇と茄子の皮が乳酸醗酵すると作り出される、自然な味と色なのである。
いとも素朴な製法であって、建礼門院徳子(1153〜1213)の時代に名づけられた時から変わらないと聞く。スピードやボリュームやコストパフォーマンスを競う時代にも、変わらず綿々と守り続けられている「しば漬」が、京漬物「しば漬」である。
朝霧に煙る山深い大原の里は、古くは京の都を捨てた人々の隠れ里だ。
その地で、平安時代に、紫蘇の葉と夏野菜とを保存食として塩漬していた里人達がいた。この時代にすでに香辛野菜として紫蘇の栽培は始まっていた。
そこへ、壇の浦の合戦で、敵方に命を救われた平清盛の娘、建礼門院徳子は、尼として寂光院に隠棲することになったのである。世話人もいない余生の日々は、滅亡した平氏一門と息子・安徳天皇の冥福を、ただただ祈る大変寂しいものであった。「平家物語」にある御白河法皇の「大原御幸」に記されている。
徳子の心を和ませてくれていたのは里人の優しさと心遣いであった。
ある日、寂光院へ差し入れされたのは「畑で採れた夏野菜の塩漬」であった。これを食した徳子は、その美味しさと色合いに感動し、その名もない塩漬に、自ら「紫葉漬け(むらさきはづけ)」と命名したという。
里人の伝承によると、徳子もその「紫葉漬け(むらさきはづけ)」を自ら漬けるようになったと聞く。
後にその名は音読みされるようになり、現在の「しば漬」と呼ばれている。
紫葉(むらさきは)と呼んだ葉は赤紫蘇(あかじそ)のことである。
日本各地の縄文時代遺跡から、しその実の出土があることからすると、広く自生していたことが伺われる。
その昔、この紫の葉で、蟹の食中毒で危うかった少年の命が蘇った。
旅の名医の置いていったこの葉に「紫蘇」と名づけられたのは、中国の三国時代(220~280年)であるという歴史を持つ毒消し薬草なのだ。
紫蘇は赤、青とも、品種により葉の縮れ方が違う。
「この中で、漬け用に使用する赤の中でも、原種の紫蘇に最も近いものが『ちりめん赤紫蘇』で、地形・気候条件に恵まれた大原の里と里人に守られている」と、 土井志ば漬本舗(左京区八瀬)は記している。
葉の周辺が縮れた風に波打つ、深い赤紫が特徴の「ちりめん赤紫蘇」は、しば漬の里大原のアイデンティティーとなっている。
しば漬は、直径・深さ約1メートルの八石樽に漬け込まれる。
その重石加減は里人の熟練者にしか判らないという。
重すぎれば水分が抜け切ってしまい、軽すぎれば酸っぱくなりすぎるらしい。
ここに、一朝一夕には漬け込めない技があるのだろう。
つまり、京漬物は京野菜の旨味を、どう引き出すかで漬けられていると言える。
漬物を味わうとき、野菜の風味か、調味料の味か、どちらを好みとされるか。
自然の素材から滲み出てくる味が、今も京都には脈々と生き続けているのだ。
その昔、大原女は薪や柴を洛陽にて行商していたが、しば漬は売り歩いていなかった。
京都大原志ば漬の里 (京漬物・しば漬 土井志ば漬本舗)
http://www.doishibazuke.co.jp/
しば漬を自分でつくろう (かけあしちょきんだいさくせん)
http://kakeashi.boo.jp/tsukemono3.htm
紫蘇 (おいしいネット)
http://www.o-e-c.net/syokuzai/siso.htm
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http://www.shibazuke.com/
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
5009-060307-冬

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