北大路魯山人は、明治16年京都府愛宕郡上加茂の地で、上賀茂神社の社家(しゃけ・社務に世襲で携わる家柄)である北大路家の次男として生まれ、房次郎と名づけられる。
母の不義の子であったため、由緒正しき家柄の父は恥じて、生まれ落ちる前に入水自殺で他界し、母は北大路家を出された。房次郎は生まれながらにして不幸を背負っていたわけである。
このことは生前固く封印されていて、魯山人は晩年も過去を多く語ることはなかったという。
生まれ落ちると里子にだされ、母親の乳の味も知らずに、里親を転々として成長した。
5歳になると、北大路家から戸籍が抜かれ木版師福田武造家の養子となり、福田房次郎として上京区の梅屋尋常小学校に入学する。
小学校を卒業すると「千坂わやくや(現千坂漢方薬局)」に丁稚奉公に入りするが、明治28年内国勧業博覧会で竹内栖鳳の画に感銘し、強く日本画家になることを夢見、翌年奉公先を飛び出し、養父に京都府画学校への入学を懇願した。
格式ある北大路家とは要領が違い許される筈もなく、家業の木版業を手伝うことになる。
しかし、夢を捨てがたく独学を決め込んだ房次郎は画材を買うため、当時流行していた「一字書き」に応募し、賞金を得、絵画・書の勉強に当てていたのだ。
16歳になると、ペンキを使った当時流行の西洋看板(絵つきの看板)を描く様になり、これが京都で評判良く生業となり、自立して暮らせるようになった。
その間も「一字書き」で目覚めた書の魅力に、房次郎は書画、古書を買い集め、自ら書道の研鑽にのめり込んでいった。
生涯を通して各所に見られるように、触発されると一途に猛進する性格は生まれ持ったものなのであろう。
そんな房次郎だったが、20歳になって書道家という一つの道を決意したようだ。
明治の三筆といわれる書家・日下部鳴鶴(くさかべめいかく)に出会うべく京都を後に東京に出ることになった。
そして一年後の21歳、早くも栄冠を手にした。明治37年日本美術展覧会の書の部に「隷書千字文」を出品し、見事に一等賞を受賞したのだ。この作品は宮内大臣田中光顕に買い上げられ、書道家としての道を歩むことになった。
幼少の屈折した過去を突き破るほどの達成感を、自力で得た房次郎は嬉しかったに違いない。この上ない喜びと自らの生き方にしたり、確信を持ったことは容易に想像できる。
書道教授を生活の糧にしながら、その後朝鮮に渡り、中国の書、篆刻(てんこく)を極め、明治43年東京に戻った房次郎は、「福田大観」の号を名乗るや、食客(しょっかく)として近江の豪商に用いられることとなる。
食客として長浜の河路家、柴田家などの社交に同伴することで、夢に見た京都の竹内栖鳳、内貴清兵衛とも面識になり、濡額や篆刻(てんこく) 看板で評判を高くしていた大観は、竹内栖鳳画伯の落款を彫ることになり、京都画壇との交流も深まると、政財界の重鎮の支援も受けるようになった。
大正4年魯山人は長男櫻一を福田家相続人とし、自らは養子縁組を解消し、雅号「福田大観」のまま、北大路房次郎に戸籍を戻した。それから7年後の39歳「北大路魯山人」を号するとともに、北大路家の家督を相続したのである。
上賀茂神社社家の北大路家を出され34年後、遊学の末北大路家に戻されたとも言えるのではないか。
何の流派にも属さず、日本、中国の古典を極め、天外孤立の独自の芸術を確立した男。
34年間無縁で、血縁のない北大路家に何を求めたのであろうか。誠に不思議である。
誇るべきものを手に、自身のみを信じ完璧を求めて歩んだ男に、出自の誇りは必要だったのか。
その唯一のコンプレックスが、魯山人の美を追求した芸術を完成させたと小生は考える。
北大路家の冠と温もりが彼自身の内観では必要だったのだろう。完璧にお似合いになる器だったに違いない。
コンプレックスを人間国宝となりうる芸術性までに昇華させた魯山人は京都の誇りといえる。
魯山人の没後50年が再来年にやってくる。(続2 星岡茶寮の原点)
創作口座「筆一字書き」 (東京書道教育会)
http://www.syodou.net/class_10/class_10_fram.html
京都画壇11人の巨匠たち (富山県水墨美術館)
http://www.pref.toyama.jp/branches/3044/exh_0104.htm
長浜歴史遺産 北国街道 安藤家 北大路魯山人
http://nagahamashi.org/andouke/rosanjin/index.html
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
母の不義の子であったため、由緒正しき家柄の父は恥じて、生まれ落ちる前に入水自殺で他界し、母は北大路家を出された。房次郎は生まれながらにして不幸を背負っていたわけである。
このことは生前固く封印されていて、魯山人は晩年も過去を多く語ることはなかったという。
生まれ落ちると里子にだされ、母親の乳の味も知らずに、里親を転々として成長した。
5歳になると、北大路家から戸籍が抜かれ木版師福田武造家の養子となり、福田房次郎として上京区の梅屋尋常小学校に入学する。
小学校を卒業すると「千坂わやくや(現千坂漢方薬局)」に丁稚奉公に入りするが、明治28年内国勧業博覧会で竹内栖鳳の画に感銘し、強く日本画家になることを夢見、翌年奉公先を飛び出し、養父に京都府画学校への入学を懇願した。
格式ある北大路家とは要領が違い許される筈もなく、家業の木版業を手伝うことになる。
しかし、夢を捨てがたく独学を決め込んだ房次郎は画材を買うため、当時流行していた「一字書き」に応募し、賞金を得、絵画・書の勉強に当てていたのだ。
16歳になると、ペンキを使った当時流行の西洋看板(絵つきの看板)を描く様になり、これが京都で評判良く生業となり、自立して暮らせるようになった。
その間も「一字書き」で目覚めた書の魅力に、房次郎は書画、古書を買い集め、自ら書道の研鑽にのめり込んでいった。
生涯を通して各所に見られるように、触発されると一途に猛進する性格は生まれ持ったものなのであろう。
そんな房次郎だったが、20歳になって書道家という一つの道を決意したようだ。
明治の三筆といわれる書家・日下部鳴鶴(くさかべめいかく)に出会うべく京都を後に東京に出ることになった。
そして一年後の21歳、早くも栄冠を手にした。明治37年日本美術展覧会の書の部に「隷書千字文」を出品し、見事に一等賞を受賞したのだ。この作品は宮内大臣田中光顕に買い上げられ、書道家としての道を歩むことになった。
幼少の屈折した過去を突き破るほどの達成感を、自力で得た房次郎は嬉しかったに違いない。この上ない喜びと自らの生き方にしたり、確信を持ったことは容易に想像できる。
書道教授を生活の糧にしながら、その後朝鮮に渡り、中国の書、篆刻(てんこく)を極め、明治43年東京に戻った房次郎は、「福田大観」の号を名乗るや、食客(しょっかく)として近江の豪商に用いられることとなる。
食客として長浜の河路家、柴田家などの社交に同伴することで、夢に見た京都の竹内栖鳳、内貴清兵衛とも面識になり、濡額や篆刻(てんこく) 看板で評判を高くしていた大観は、竹内栖鳳画伯の落款を彫ることになり、京都画壇との交流も深まると、政財界の重鎮の支援も受けるようになった。
大正4年魯山人は長男櫻一を福田家相続人とし、自らは養子縁組を解消し、雅号「福田大観」のまま、北大路房次郎に戸籍を戻した。それから7年後の39歳「北大路魯山人」を号するとともに、北大路家の家督を相続したのである。
上賀茂神社社家の北大路家を出され34年後、遊学の末北大路家に戻されたとも言えるのではないか。
何の流派にも属さず、日本、中国の古典を極め、天外孤立の独自の芸術を確立した男。
34年間無縁で、血縁のない北大路家に何を求めたのであろうか。誠に不思議である。
誇るべきものを手に、自身のみを信じ完璧を求めて歩んだ男に、出自の誇りは必要だったのか。
その唯一のコンプレックスが、魯山人の美を追求した芸術を完成させたと小生は考える。
北大路家の冠と温もりが彼自身の内観では必要だったのだろう。完璧にお似合いになる器だったに違いない。
コンプレックスを人間国宝となりうる芸術性までに昇華させた魯山人は京都の誇りといえる。
魯山人の没後50年が再来年にやってくる。(続2 星岡茶寮の原点)
創作口座「筆一字書き」 (東京書道教育会)
http://www.syodou.net/class_10/class_10_fram.html
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http://www.pref.toyama.jp/branches/3044/exh_0104.htm
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http://nagahamashi.org/andouke/rosanjin/index.html
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
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