京都映画倶楽部(Kyoto Cinema club)が設立されて、この9月で丁度1年になる。
この一周年を記念に第二次会員募集を行っており、第2回京都太秦映画フェスティバルが9月27日から4日間開催される。
フェスティバルの内容が気になり調べてみると、この倶楽部の理事長は映画監督中島貞夫氏であった。過日、たまたま観ていた邦画の映画解説をされていた。その解説の仕方が小生好みで、あらためて中島監督全作品を、秋の夜長に連続して観ることに決めていたところだった。
その弾みで、京都ロケ地探訪ツアー「映画の名場面を訪ねて」の催し案内を目にするや、直ぐに参加申し込みをした。
よく読むと、「京都 絵になる風景−銀幕の舞台を訪ねる−」の著作者吉田馨氏の案内で、各ロケ地の説明をしてくれることになっている。
「京都映画倶楽部さんなかなかやるじゃない。」小生の企画の中にもあり、先を越された感があるも行動力に脱帽である。
参加を申し込んだ名場面探訪は、京都人にとって生活の場所でもあるが、改めて小生に何を語りかけてきてくれるのかを、楽しみにしている。
フェスティバルの詳細などは後記のリンクに譲るとして、映画創りの町であった京都を誇りとする気持ちを、より多くの皆さんに訴えたいのである。
そして、その誇りや反発から、明日の誇りある京都を各々の場所で創り出していってもらいたいのだ。
映画創りの町であった名残である映画村は商業施設であるが、ディズニーやUSJとは訳が
違うことを心に留めてもらいたい。
さて、日本で初めて映画が上映されたのは京都で、鴨川は四条河原の河川敷であったのはあまりにも有名である。
明治30年(1897)2月、8年間のフランス留学を終えて染色織物技術を学んだ稲畑勝太郎(1862〜1949)が、持ち帰ったシネマトグラフ(カメラ付き映写機)2台を映写したのが本邦初である。
初回は白煙が上がり失敗したが、蓄電池の製造を始めだした島津源蔵(後の島津製作所)など
が何とか修理を行い、見事本邦初の上映に成功したものだった。
そしてその2年後、現存する国産映画「紅葉狩」などが撮影され、日本映画産業の幕開けとなったのである。
やがて、京都は映画産業で活気づき、「日本のハリウッド」と呼ばれるようになった。
京都文化博物館(中京区)の地下にあるフィルムライブラリー収蔵庫には、京都で撮影された戦前の映画フィルム788作品が丸い亜鉛缶に入れられ、劣化を避けるように眠らされているという。
この保存されているフィルムは戦前の制作作品の1割に過ぎないらしく、9割の映像は消え去り、タイトルがようやく分かるだけだと言う。
収蔵されているフィルムの観賞をお望みなら、定期的に行われている文化博物館での上映に出かけられるが良い。
現在京都の撮影所は「東映京都(阪東妻三郎プロダクション/キネマ)撮影所(1926年〜)」と「松竹京都映画(マキノ・トーキー)撮影所(1935年~)」の2ヶ所を太秦に残すだけだが、昭和初期の太秦周辺10キロ四方には、「マキノ御室撮影所(1925年〜1935年)」「双ヶ丘撮影所(1927年〜1953年)」「大映京都(日活太秦)撮影所(1927年〜1986年)」「千恵蔵映画撮影所(1929年〜1942年)」「東宝京都(JOスタジオ)撮影所(1933年〜1941年)」「第一映画撮影所(1935年〜1943年)」「嵐寛寿郎プロ撮影所(1935年〜1937年)」「宝プロ撮影所(1953年〜1987年)」「日本電波映画撮影所(1959年〜1067年)」などが設けられ、竹薮や田畑であった太秦は、映画人の暮らしの根城にもなっていった。
太秦に撮影所が密集するまでの京都の撮影所第1号はどこかというと、1910年「二条城撮影所(智恵光院通り押小路)」が「はつもの」で、撮影所開きには「忠臣蔵(全通し版)」が公開されたという。
その後撮影所は「法華堂撮影所(1912年〜1918年)」「日活大将軍撮影所(1918年〜1928年)」「マキノ等持院撮影所(1921年〜1932年)」「松竹下加茂撮影所(1923年〜1974年)」と、西陣千本通辺りを核に立ち上がり、土地を求め西へ西へと向かい、太秦に集約されていったのである。
京都に撮影所が生まれてゆくきっかけは、千本通界隈の話を抜きにして語ることができない。
芝居小屋「千本座」の主マキノの存在は大きく、撮影所の敷地開発ばかりか、「目玉の松ちゃん」のようなスター俳優の輩出や、プロダクション経営など、後にマキノ映画の全盛時代を創り出すまでに到るのである。
現在、その千本座の名残である「千本日活」も「無印良品」の看板に架け替えられている。これらを知る人も少なくなり寂しい限りだ。
小生の記憶の片隅にある「日本のハリウッド」という誇りを、目覚めさせてくれる立命館大学のマキノプロジェクトや京都映画倶楽部にエールを送りたい。
京の春夏冬/稲畑勝太郎と京都産業の発展
(京都小売商業支援センター)
http://www.joho-kyoto.or.jp/~retail/akinai/senjin/inahata-1.html
京都映像文化デジタル・アーカイヴ マキノ・プロジェクト
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/makino/index.html
京都映画倶楽部
http://www.kcc-npo.com/
京都の映画産業
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka24.html
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
この一周年を記念に第二次会員募集を行っており、第2回京都太秦映画フェスティバルが9月27日から4日間開催される。
フェスティバルの内容が気になり調べてみると、この倶楽部の理事長は映画監督中島貞夫氏であった。過日、たまたま観ていた邦画の映画解説をされていた。その解説の仕方が小生好みで、あらためて中島監督全作品を、秋の夜長に連続して観ることに決めていたところだった。
その弾みで、京都ロケ地探訪ツアー「映画の名場面を訪ねて」の催し案内を目にするや、直ぐに参加申し込みをした。
よく読むと、「京都 絵になる風景−銀幕の舞台を訪ねる−」の著作者吉田馨氏の案内で、各ロケ地の説明をしてくれることになっている。
「京都映画倶楽部さんなかなかやるじゃない。」小生の企画の中にもあり、先を越された感があるも行動力に脱帽である。
参加を申し込んだ名場面探訪は、京都人にとって生活の場所でもあるが、改めて小生に何を語りかけてきてくれるのかを、楽しみにしている。
フェスティバルの詳細などは後記のリンクに譲るとして、映画創りの町であった京都を誇りとする気持ちを、より多くの皆さんに訴えたいのである。
そして、その誇りや反発から、明日の誇りある京都を各々の場所で創り出していってもらいたいのだ。
映画創りの町であった名残である映画村は商業施設であるが、ディズニーやUSJとは訳が
違うことを心に留めてもらいたい。
さて、日本で初めて映画が上映されたのは京都で、鴨川は四条河原の河川敷であったのはあまりにも有名である。
明治30年(1897)2月、8年間のフランス留学を終えて染色織物技術を学んだ稲畑勝太郎(1862〜1949)が、持ち帰ったシネマトグラフ(カメラ付き映写機)2台を映写したのが本邦初である。
初回は白煙が上がり失敗したが、蓄電池の製造を始めだした島津源蔵(後の島津製作所)など
が何とか修理を行い、見事本邦初の上映に成功したものだった。
そしてその2年後、現存する国産映画「紅葉狩」などが撮影され、日本映画産業の幕開けとなったのである。
やがて、京都は映画産業で活気づき、「日本のハリウッド」と呼ばれるようになった。
京都文化博物館(中京区)の地下にあるフィルムライブラリー収蔵庫には、京都で撮影された戦前の映画フィルム788作品が丸い亜鉛缶に入れられ、劣化を避けるように眠らされているという。
この保存されているフィルムは戦前の制作作品の1割に過ぎないらしく、9割の映像は消え去り、タイトルがようやく分かるだけだと言う。
収蔵されているフィルムの観賞をお望みなら、定期的に行われている文化博物館での上映に出かけられるが良い。
現在京都の撮影所は「東映京都(阪東妻三郎プロダクション/キネマ)撮影所(1926年〜)」と「松竹京都映画(マキノ・トーキー)撮影所(1935年~)」の2ヶ所を太秦に残すだけだが、昭和初期の太秦周辺10キロ四方には、「マキノ御室撮影所(1925年〜1935年)」「双ヶ丘撮影所(1927年〜1953年)」「大映京都(日活太秦)撮影所(1927年〜1986年)」「千恵蔵映画撮影所(1929年〜1942年)」「東宝京都(JOスタジオ)撮影所(1933年〜1941年)」「第一映画撮影所(1935年〜1943年)」「嵐寛寿郎プロ撮影所(1935年〜1937年)」「宝プロ撮影所(1953年〜1987年)」「日本電波映画撮影所(1959年〜1067年)」などが設けられ、竹薮や田畑であった太秦は、映画人の暮らしの根城にもなっていった。
太秦に撮影所が密集するまでの京都の撮影所第1号はどこかというと、1910年「二条城撮影所(智恵光院通り押小路)」が「はつもの」で、撮影所開きには「忠臣蔵(全通し版)」が公開されたという。
その後撮影所は「法華堂撮影所(1912年〜1918年)」「日活大将軍撮影所(1918年〜1928年)」「マキノ等持院撮影所(1921年〜1932年)」「松竹下加茂撮影所(1923年〜1974年)」と、西陣千本通辺りを核に立ち上がり、土地を求め西へ西へと向かい、太秦に集約されていったのである。
京都に撮影所が生まれてゆくきっかけは、千本通界隈の話を抜きにして語ることができない。
芝居小屋「千本座」の主マキノの存在は大きく、撮影所の敷地開発ばかりか、「目玉の松ちゃん」のようなスター俳優の輩出や、プロダクション経営など、後にマキノ映画の全盛時代を創り出すまでに到るのである。
現在、その千本座の名残である「千本日活」も「無印良品」の看板に架け替えられている。これらを知る人も少なくなり寂しい限りだ。
小生の記憶の片隅にある「日本のハリウッド」という誇りを、目覚めさせてくれる立命館大学のマキノプロジェクトや京都映画倶楽部にエールを送りたい。
京の春夏冬/稲畑勝太郎と京都産業の発展
(京都小売商業支援センター)
http://www.joho-kyoto.or.jp/~retail/akinai/senjin/inahata-1.html
京都映像文化デジタル・アーカイヴ マキノ・プロジェクト
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/makino/index.html
京都映画倶楽部
http://www.kcc-npo.com/
京都の映画産業
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka24.html
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
5077-070904-9月