伝聞で恐縮だが、鴨川には年間300万人の観光客が訪れるらしい。
街なかを流れる川としては、清き流れが続き、山紫水明(頼山陽)にふさわしい京都必須の川であることに間違いはない。
平安の昔より暴れ川として有名であるが、ここしばらくは穏やかにしてくれているようで、小生の記憶には暴れ川の様子はない。
父の話によると、「室戸台風のときに えらいことになって、次の年の梅雨には とうとう怒らはった。」、ということだ。
つまり、昭和9年9月の室戸台風の折、淀川を北上した台風は京都を直撃し、大被害を市内にもたらした。更に、その復旧工事も完了していない翌昭和10年6月から、未曾有の豪雨が続き、市内は大きな打撃を受けたという。
そのときの鴨川の流れは筆舌を絶する勢いで、決壊が続出したらしい。これを「昭和10年 鴨川の大洪水」と呼ぶ。
北山通と東寺の五重塔の塔先の高さが同じなのだから(海抜57m)、普段平穏な川のように遠くから眺めていても、増水すればたちまち鴨川は急流となり氾濫するのであろう。
その鴨川の大洪水の補修工事のときに出来たのが、納涼床の脚元、木組みの下を流れている「みそそぎ川」である。鴨川の支流が高瀬川に次いで出来たのである。
このとき現在の鴨川の川底は7メートルも掘り下げられ、丸太町から五条までの西側にあった川の流れを残し運河とし「みそそぎ川」と名づけ、その間が現在の河原となっている。
「みそそぎ川」は鴨川から丸太町通下で取水し、鴨川に沿って流れ、二条で高瀬川に分水され、更に床の下を五条まで流れ、鴨川へと合流する経路を取っている。しかし、平安の頃の鴨川が、東は縄手通あたり、西は寺町あたりまでの川幅だったことからすると、東西の位置からも、川底の高さからも、この「みそそぎ川」こそ鴨川のルーツを見出せる場所といえるのではないだろうか。
そもそも鴨川は、平安時代より以前から、禊(みそぎ)の場所であったことはご存知だったろうか。祇園祭の「神輿洗いの神事」が鴨川で行われているのもその名残である。
平安時代には鴨川の二条通以北の七ケ所で毎月「七瀬祓い」というのが行われていたのだ。陰陽師が取り仕切る神事で、天皇が息をかけ体を撫でた人形(ひとがた)が鴨の河原に運ばれ、祓いが行われたとある。(公事根源)
更に、天皇や公家の禊、祓いの場として用いられ、神聖な川とされていた。
844年には二条以北では遊猟や屠殺は禁じられ、河原への立ち入り、材木の運送も禁じられたほどである。
そして、明治期までは鴨川上流から「禁裏御用水」という特別な水路が御所まで引かれ使用されている。
一方三条以南の鴨川は風葬埋葬の地であった。842年朝廷は鴨の河原の骸骨5500体を埋葬(続日本紀)し、994年疱瘡(ほうそう)の流行により遺棄された死骸が鴨川の水を堰きとめた記録も残っている。平安末期には 三条河原、四条河原から八条河原までは、形場とされ、首うち首渡しの場でもあった。
惨劇の河原であったと同時に、都人にとっての見世物にもなっていたと伝わる。
まさに、みそそぎ川は1200年余の歴史に相応しい命名であると思う。
惨劇の見世物が芸能の場となる鴨の河原は、室町時代になってからのことである。
(続)
みそそぎ川
http://agua.jpn.org/yodo/katura/misosogi.html
鴨川
http://agua.jpn.org/yodo/katura/kamo.html
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
街なかを流れる川としては、清き流れが続き、山紫水明(頼山陽)にふさわしい京都必須の川であることに間違いはない。
平安の昔より暴れ川として有名であるが、ここしばらくは穏やかにしてくれているようで、小生の記憶には暴れ川の様子はない。
父の話によると、「室戸台風のときに えらいことになって、次の年の梅雨には とうとう怒らはった。」、ということだ。
つまり、昭和9年9月の室戸台風の折、淀川を北上した台風は京都を直撃し、大被害を市内にもたらした。更に、その復旧工事も完了していない翌昭和10年6月から、未曾有の豪雨が続き、市内は大きな打撃を受けたという。
そのときの鴨川の流れは筆舌を絶する勢いで、決壊が続出したらしい。これを「昭和10年 鴨川の大洪水」と呼ぶ。
北山通と東寺の五重塔の塔先の高さが同じなのだから(海抜57m)、普段平穏な川のように遠くから眺めていても、増水すればたちまち鴨川は急流となり氾濫するのであろう。
その鴨川の大洪水の補修工事のときに出来たのが、納涼床の脚元、木組みの下を流れている「みそそぎ川」である。鴨川の支流が高瀬川に次いで出来たのである。
このとき現在の鴨川の川底は7メートルも掘り下げられ、丸太町から五条までの西側にあった川の流れを残し運河とし「みそそぎ川」と名づけ、その間が現在の河原となっている。
「みそそぎ川」は鴨川から丸太町通下で取水し、鴨川に沿って流れ、二条で高瀬川に分水され、更に床の下を五条まで流れ、鴨川へと合流する経路を取っている。しかし、平安の頃の鴨川が、東は縄手通あたり、西は寺町あたりまでの川幅だったことからすると、東西の位置からも、川底の高さからも、この「みそそぎ川」こそ鴨川のルーツを見出せる場所といえるのではないだろうか。
そもそも鴨川は、平安時代より以前から、禊(みそぎ)の場所であったことはご存知だったろうか。祇園祭の「神輿洗いの神事」が鴨川で行われているのもその名残である。
平安時代には鴨川の二条通以北の七ケ所で毎月「七瀬祓い」というのが行われていたのだ。陰陽師が取り仕切る神事で、天皇が息をかけ体を撫でた人形(ひとがた)が鴨の河原に運ばれ、祓いが行われたとある。(公事根源)
更に、天皇や公家の禊、祓いの場として用いられ、神聖な川とされていた。
844年には二条以北では遊猟や屠殺は禁じられ、河原への立ち入り、材木の運送も禁じられたほどである。
そして、明治期までは鴨川上流から「禁裏御用水」という特別な水路が御所まで引かれ使用されている。
一方三条以南の鴨川は風葬埋葬の地であった。842年朝廷は鴨の河原の骸骨5500体を埋葬(続日本紀)し、994年疱瘡(ほうそう)の流行により遺棄された死骸が鴨川の水を堰きとめた記録も残っている。平安末期には 三条河原、四条河原から八条河原までは、形場とされ、首うち首渡しの場でもあった。
惨劇の河原であったと同時に、都人にとっての見世物にもなっていたと伝わる。
まさに、みそそぎ川は1200年余の歴史に相応しい命名であると思う。
惨劇の見世物が芸能の場となる鴨の河原は、室町時代になってからのことである。
(続)
みそそぎ川
http://agua.jpn.org/yodo/katura/misosogi.html
鴨川
http://agua.jpn.org/yodo/katura/kamo.html
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
5094-070619-夏