休日に在宅していると、普段より玄関のインターホンの鳴る回数が多い。
宅急便で贈られてくるお歳暮の配達である。
どちら様から何が贈られてきたのかと、宛名ラベルに目を留めながら、受領印を押す。
流石に通り一片のお歳暮、つまり虚礼のお歳暮が少なくなったお蔭で、「これなかなか手に入れられなかったんだ」とか、「これが食べたかったんだ」とか、「こんなものもあるんだ」とか、その様に贈られて嬉しいモノが大方を占めるようになった。
贈り主の感謝の気持ちが伝わって来ると同時に、その気遣いを有り難く感じ、更に来年も感謝されるように精進しなければと感じる。
先様が何を贈ってきてくれたかは、品物を通しての人間観察へと展開し、自然と贈り主の人物像までにも及び、その心配りの深さが夕餉の食卓の話題となり、結果、贈るときの心構えを教えられる。
虚礼廃止の風潮が生まれてから久しくなるが、先に記したようなお歳暮というのは、コミュニケーションを高める上でも、誠に便利でありがたい習わしである。
日頃に欠礼がちになっている場合には、尚更のこと絶好の機会という訳だ。
虚礼は不要であるが、実礼を外すことは世間を狭くするはずである。
ところが、お歳暮は全て虚礼であると勘違いしている人もいるようだ。
先日、インターネット上の質疑コミュニティで、お歳暮の質疑回答が目に留まった。虚礼廃止でのお歳暮の質問に対して、その回答者の答えに、実礼怠らぬようにとのアドバイスがない。首を傾げてしまうところであった。
虚礼廃止イコールお歳暮廃止との、短絡的理解に繋がる言葉足らずのものばかりである。これが常識となっていくようでは困ったものである。
日本の良き文化を忘れ、西欧文化に短絡的に踊らされ、義理チョコの廃止には躊躇いがあるのだから。
小生宅では、親族間でもお歳暮の習慣がある。
今も虚礼の習慣とは思っていない。双方贈りあう結果となっているので、感謝の交換ということになる。
他人のような気遣いも不要の関係であるし、互いの家計の負担軽減にもなる。これは不要なものとして相殺しようと、以前に考えたことがある。
しかし、家計損益のコスト削減を優先するのは間違いだと、今もその習慣は続いている。
近い間柄だからこそ、日頃には伝えられない感謝の念を表す機会として捉えなおしたのである。
いたって道理に適う文化となっている。これこそが合理的といえる。
虚礼廃止の的とすべきお歳暮とは、明治時代以降のお歳暮の風潮となった、自分の生活の安寧を約束してもらう為の利害をもとにした、官吏や上司に対する儀礼的な要素のものである。
そして、その端となるのは江戸時代の日本歳時記(1688年 貝原益軒 著)に伺える。
武士にも組合があり、その組頭に家来達が贈答する習慣に始まり、師匠や医師にも贈答せよと記されている。
「下旬の内、親戚に贈物して歳暮を賀す。また知れるところの鰐寡孤独貧窮困苦の者にも、我が力に随って財物を賑わうべし。あるいは我にかつて恩恵ある人、師伝となれる人、我が身および家人の病よ療せし医師などのも分に随いて厚く物を贈るべし」
つまり、血縁者において歳の暮れを祝い贈答するのを本分としていた。
更に、その原点をと遡ると「歳暮の礼」であり、新年に先祖の霊を迎えるために必要な供物を、嫁ぎ先や分家した者が、本家や親元に持って行く行事であった。
そして、歳の暮れに行われた先祖供養の供え物を、近所の人やゆかりの人に分け合うこととなる。
京都にある元来のお歳暮とは、そのように魂を込めた間柄、絆にあったものである。
とすると、供養という行事とともに、魂や心を供え、お下がりを分け合う精神は継承したほうがよい。
高価なモノを贈ることを重要としないで、心を贈ることを重要としている証に、水引や熨斗(のし)をつけられているのであるが、ご存知であったろうか。
日本には古代から魂を結びいれるという結びの信仰がある。
結ぶことによって魂が宿り、これをつけて贈られたものは単なる物品ではなくなるのである。
宅急便で贈られてくるお歳暮の配達である。
どちら様から何が贈られてきたのかと、宛名ラベルに目を留めながら、受領印を押す。
流石に通り一片のお歳暮、つまり虚礼のお歳暮が少なくなったお蔭で、「これなかなか手に入れられなかったんだ」とか、「これが食べたかったんだ」とか、「こんなものもあるんだ」とか、その様に贈られて嬉しいモノが大方を占めるようになった。
贈り主の感謝の気持ちが伝わって来ると同時に、その気遣いを有り難く感じ、更に来年も感謝されるように精進しなければと感じる。
先様が何を贈ってきてくれたかは、品物を通しての人間観察へと展開し、自然と贈り主の人物像までにも及び、その心配りの深さが夕餉の食卓の話題となり、結果、贈るときの心構えを教えられる。
虚礼廃止の風潮が生まれてから久しくなるが、先に記したようなお歳暮というのは、コミュニケーションを高める上でも、誠に便利でありがたい習わしである。
日頃に欠礼がちになっている場合には、尚更のこと絶好の機会という訳だ。
虚礼は不要であるが、実礼を外すことは世間を狭くするはずである。
ところが、お歳暮は全て虚礼であると勘違いしている人もいるようだ。
先日、インターネット上の質疑コミュニティで、お歳暮の質疑回答が目に留まった。虚礼廃止でのお歳暮の質問に対して、その回答者の答えに、実礼怠らぬようにとのアドバイスがない。首を傾げてしまうところであった。
虚礼廃止イコールお歳暮廃止との、短絡的理解に繋がる言葉足らずのものばかりである。これが常識となっていくようでは困ったものである。
日本の良き文化を忘れ、西欧文化に短絡的に踊らされ、義理チョコの廃止には躊躇いがあるのだから。
小生宅では、親族間でもお歳暮の習慣がある。
今も虚礼の習慣とは思っていない。双方贈りあう結果となっているので、感謝の交換ということになる。
他人のような気遣いも不要の関係であるし、互いの家計の負担軽減にもなる。これは不要なものとして相殺しようと、以前に考えたことがある。
しかし、家計損益のコスト削減を優先するのは間違いだと、今もその習慣は続いている。
近い間柄だからこそ、日頃には伝えられない感謝の念を表す機会として捉えなおしたのである。
いたって道理に適う文化となっている。これこそが合理的といえる。
虚礼廃止の的とすべきお歳暮とは、明治時代以降のお歳暮の風潮となった、自分の生活の安寧を約束してもらう為の利害をもとにした、官吏や上司に対する儀礼的な要素のものである。
そして、その端となるのは江戸時代の日本歳時記(1688年 貝原益軒 著)に伺える。
武士にも組合があり、その組頭に家来達が贈答する習慣に始まり、師匠や医師にも贈答せよと記されている。
「下旬の内、親戚に贈物して歳暮を賀す。また知れるところの鰐寡孤独貧窮困苦の者にも、我が力に随って財物を賑わうべし。あるいは我にかつて恩恵ある人、師伝となれる人、我が身および家人の病よ療せし医師などのも分に随いて厚く物を贈るべし」
つまり、血縁者において歳の暮れを祝い贈答するのを本分としていた。
更に、その原点をと遡ると「歳暮の礼」であり、新年に先祖の霊を迎えるために必要な供物を、嫁ぎ先や分家した者が、本家や親元に持って行く行事であった。
そして、歳の暮れに行われた先祖供養の供え物を、近所の人やゆかりの人に分け合うこととなる。
京都にある元来のお歳暮とは、そのように魂を込めた間柄、絆にあったものである。
とすると、供養という行事とともに、魂や心を供え、お下がりを分け合う精神は継承したほうがよい。
高価なモノを贈ることを重要としないで、心を贈ることを重要としている証に、水引や熨斗(のし)をつけられているのであるが、ご存知であったろうか。
日本には古代から魂を結びいれるという結びの信仰がある。
結ぶことによって魂が宿り、これをつけて贈られたものは単なる物品ではなくなるのである。
5211-141211-12月