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例年、京都の桜たちは、いかなる京都人にも、一年で全てを見納めさせてはくれない。
しかし、今年ばかりは、枝垂桜がチャンスをくれているのか、油断しているようである。
だから、小生の桜見の場所選びと、満開見頃の日が一致させ易かったのである。
桜見は人それぞれの型というものがあるのだろうか。
桜の花の形を、色を、種類をと丹念に観賞し、関心される人がいる。
桜の樹形や、枝ぶりや、花の色づきを愛で、感心される人がいる。
桜の咲いている場所や、その全体の風景との調和に、歓心される人がいる。
勿論、人の心を打つのは単一の型のみではなく複合的な結果ではあるが、どの比重が高いかに違いはある。それによって、どこで花見をするかが変わってくる。
更に、それらの桜の由縁に興味の重点を置かれる人がいる。
品種改良での珍種などの点もあるだろうし、歴史的人物や場所との関わりなどの点もある。
何であれ、まず、「桜は綺麗やなぁ。」という心の受け皿があれば良い。
それがあれば、誰にも春は一層に楽しいものである。
そのうちに、種々の興味と好奇心が湧き、あるいは湧かせていくと、品格の伴ってくる花見というものが楽しめるようになるのだろう。
小生は、風光明媚な桜が好きだ。
そして、その花見の場所を選ぶと、どこから眺めるかに、躍起となる。
まずは、誰もと同じく、遠景、全景で眺めが良いところ。
その桜の木姿を愛でる。四方をぐるりと一周して眺め、一番形の整った側を見つける。
そして、どちら側であっても、その木姿と何を借景として見るのかを探す。
借景するものを変えると、景色が変わるばかりではなく桜の表情も変わる。
背景が山か、池か、建物か。建物がお寺なら、本堂か、多宝塔か、鐘楼か、石段か、という風にである。
それはまるで、額縁の中の一幅の絵を描く画家のような心地である。
「これがいい。」と思える一瞬がある。
花見の楽しみはここにあり、桜との出合いに期待が膨らむから出掛けるのである。
出合いの感動が覚めやらぬうちに、花に近寄り、その花柄から花芯、花弁の一枚ずつまでを眺める。
すると、瑞々しく繊細に風に揺らぐ様子に、華やかに咲き誇る姿の本性が、こんなにも淡く儚いものかと感じ、愛おしくなる。
そのあとの小生は、決まってあちこちと眺める位置を変える。
眺め方が変なのだろうか、何かを通してみている、いや覗き込んでいるのである。
例えば、石灯籠の空洞からであったり、手水舎の水を吐く龍の陰であったり、半開きの障子戸の中であったり、木陰の木々の隙間からであったり。
時には、ガラス戸に、水面に、漆喰の壁にと、映る姿でさえ見逃さない。
地に映る影も、そこに咲き散った花びらの一枚ずつでも見ている。
自分のことながら怖いぐらいである。
花見を楽しんでいるというよりも、監視観察しているようにも思える。
それ位に、執拗なまでに桜を愛しているのだろうか。
大勢の輩に見られていることに嫉妬しているのだろうか。
祗園白川の十六夜桜を歌碑の前に立ち見た。
枝垂れる桜の間からお茶屋の簾が見えた。
後ろに下がり柳越しに覗った。
石畳を歩き料理旅館白梅の橋の上に立ち、川面と巽橋に目を遣った。
ついに、簾の隙間から十六夜桜を眺めたくなった。
4月1日からは都をどり、そして続いて京おどりが始まり、京の歌舞練場にも花が咲き、市内のソメイヨシノも見頃となるだろう。
そして、ほろ酔い人の行き交う高瀬川沿いの二百本の桜にも、ライトがあてられ夜の化粧が施される。
桜見が存分に楽しめるのは今週になりそうだ。
よき出会いが感動の余韻を長く残してくれる桜を探しに、小生を癒してくれる桜を求めて、東奔西走するつもりである。
しかし、今年ばかりは、枝垂桜がチャンスをくれているのか、油断しているようである。
だから、小生の桜見の場所選びと、満開見頃の日が一致させ易かったのである。
桜見は人それぞれの型というものがあるのだろうか。
桜の花の形を、色を、種類をと丹念に観賞し、関心される人がいる。
桜の樹形や、枝ぶりや、花の色づきを愛で、感心される人がいる。
桜の咲いている場所や、その全体の風景との調和に、歓心される人がいる。
勿論、人の心を打つのは単一の型のみではなく複合的な結果ではあるが、どの比重が高いかに違いはある。それによって、どこで花見をするかが変わってくる。
更に、それらの桜の由縁に興味の重点を置かれる人がいる。
品種改良での珍種などの点もあるだろうし、歴史的人物や場所との関わりなどの点もある。
何であれ、まず、「桜は綺麗やなぁ。」という心の受け皿があれば良い。
それがあれば、誰にも春は一層に楽しいものである。
そのうちに、種々の興味と好奇心が湧き、あるいは湧かせていくと、品格の伴ってくる花見というものが楽しめるようになるのだろう。
小生は、風光明媚な桜が好きだ。
そして、その花見の場所を選ぶと、どこから眺めるかに、躍起となる。
まずは、誰もと同じく、遠景、全景で眺めが良いところ。
その桜の木姿を愛でる。四方をぐるりと一周して眺め、一番形の整った側を見つける。
そして、どちら側であっても、その木姿と何を借景として見るのかを探す。
借景するものを変えると、景色が変わるばかりではなく桜の表情も変わる。
背景が山か、池か、建物か。建物がお寺なら、本堂か、多宝塔か、鐘楼か、石段か、という風にである。
それはまるで、額縁の中の一幅の絵を描く画家のような心地である。
「これがいい。」と思える一瞬がある。
花見の楽しみはここにあり、桜との出合いに期待が膨らむから出掛けるのである。
出合いの感動が覚めやらぬうちに、花に近寄り、その花柄から花芯、花弁の一枚ずつまでを眺める。
すると、瑞々しく繊細に風に揺らぐ様子に、華やかに咲き誇る姿の本性が、こんなにも淡く儚いものかと感じ、愛おしくなる。
そのあとの小生は、決まってあちこちと眺める位置を変える。
眺め方が変なのだろうか、何かを通してみている、いや覗き込んでいるのである。
例えば、石灯籠の空洞からであったり、手水舎の水を吐く龍の陰であったり、半開きの障子戸の中であったり、木陰の木々の隙間からであったり。
時には、ガラス戸に、水面に、漆喰の壁にと、映る姿でさえ見逃さない。
地に映る影も、そこに咲き散った花びらの一枚ずつでも見ている。
自分のことながら怖いぐらいである。
花見を楽しんでいるというよりも、監視観察しているようにも思える。
それ位に、執拗なまでに桜を愛しているのだろうか。
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