季語は飾りにあらず、時節の本質ぞ

野花菖蒲で田植えを知る by 五所光一郎

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この時期に外へ出ると、緑陰が目に留まり、草木などの生物が次第に生長していることに気づく。

二十四節気を見てみると「小満」を終え、「芒種(ぼうしゅ)」とある。

「芒種」とは、現在の6月6日頃にあたり、農家の田植えが始まる季節であった。

稲や麦など、穂が出る穀物の種を蒔く時季を称して、芒(のぎ)の種、「芒種」と呼ばれていたのである。

更に、旧暦では、芒種の5日目から30日間を梅雨と呼んでいた。

ということは、入梅になりかかりの頃が田植えに適した時季としていたことがわかる。

暦のない時代には、田んぼの畦に自生していた花菖蒲が開花しだすと、一斉に田植えを始め、一軒の農家の田んぼが植え終わると、隣の家の田んぼというように、村落総出で共同して田植えが行われていた。

古代稲作伝来の時より、水無月の畦道に咲く花菖蒲は、農事暦の役割を果たし、地域毎の村民に英々と田植えを知らせ、入梅の予告をしていたのである。

農事暦といえば、春の桜も農作業を告げていた。

桜の花芽を見て田んぼを掘り起こし水を張る、桜の花が咲くと苗代に種籾を蒔き、苗の生育を待つ。花が散り葉桜となる頃には田植えの準備を始める、という種まき桜の話を記憶している。

日本人にとって、花と稲作との深い結びつきは、花が気象情報源であり、一年のカレンダーであり、生活の一部であったことが偲ばれる。

新聞雑誌、ラジオ、テレビ、インターネットなどが現代生活の一部となっているが、これらの情報源が遮断される事態となったとき、小生は、花や自然からのメッセージをどれだけ翻訳できるだろうか。

否、退化してしまっているであろう翻訳力、読解力、判断力を蘇らさねばならない時代が再来しているように感じられて仕様がない。

その理由を尋ねられても答えように困る。
花菖蒲の観賞にあたり、そのルーツである花菖蒲の存在意義がどこにあったかを知ったから」としか、言いようがない。

農作業の最中に一服を取り、綺麗だなと先人も観賞していたであろう。

しかし、ただの観賞用だけではなかったのだ。
花菖蒲の開花は生きてゆく重要な一部であり、共に生きていたことに気づかされたからかもしれない。

多種の情報が錯綜し、結果だけが一方通行している情報構造に疑問を抱き、自然との対話で結論を出す本能を取り戻したいと、感じているのかもしれない。

兎にも角にも、そう感じるのである。

それはそれとして、花菖蒲文化とその見物である。

花菖蒲見物というと、まず群生したものを、現代では誰もが思い浮かべる。

花菖蒲園などで花見するというのは、江戸庶民が作り出した「江戸文化」で、江戸系花菖蒲の見物の粋であった。

これとは対象的に肥後系や伊勢系の花菖蒲は、一部の上流階級の者によって、鉢植えで観賞するのを目的として改良され、門外不出に愛でられていたのである。

京都は現在も花菖蒲の四大生産地にあげられてはいるが、古くより伝わる京都系という花菖蒲は存在していない。

いくら優雅で華麗な花であっても、武家が好んで愛でる花菖蒲(あやめ科)を京の花とすることを、公家にとっては承服しかねたのであろうか。

公家の文化である端午の節句は、菖蒲(サトイモ科)以外にないと譲らず、花菖蒲を観賞はしても、武家がそうするほどには、花菖蒲をちやほやと扱わなかったのかもしれない。

さりとて、軽んじられていたわけではない。

室町時代、最古の花伝書とされる「仙伝抄」の「十二ヶ月の花」や、当時の学問技芸を消息文に託した「尺素往来」の中では、庭に植えるべき花約80種のうちの、夏の花二十六品目の中に花菖蒲の名が入れられている。


このように花菖蒲は早くから園芸種として栽培されていたが、江戸天保時代の持て囃されようは甚だしく、競うように改良された江戸系花菖蒲園の文化が確立されたのである。

それらの花菖蒲を飛躍的に改良発達させたのは、二千石取りの旗本・松平左金吾定朝(1773〜1857)である。菖翁(しょうおう)と通称される人物で、江戸麻布桜田町にある2400坪もの邸宅のなかで、60年以上にわたり花菖蒲の改良に取り組んだ。

花菖蒲中興の祖と呼ばれる菖翁は、晩年生涯を追想し、自作の品種の紹介とその栽培方法、またその他の知見を語った花菖蒲の総合書として「花菖培養録(かしょうばいようろく)」という本を著わし、花菖蒲の聖典として評価されている。

さらに、その菖翁こと松平左金吾定朝は、京都町奉行などの役職にあたり、40代の後半から15年間京都で暮らし、京都でも改良を続けていたという。

59歳で幕職を辞した後は、秘蔵の花菖蒲を次々と産み出し、江戸系花菖蒲の聖地、葛飾区堀切菖蒲園にも、肥後系花菖蒲の肥後熊本藩主の細川斉護公にも、その秘蔵の品種が渡り、その伝統が守り続けられてきたと伝わる。

菖翁がいなかったら、現在の花菖蒲はこれほどまでに素晴らしいものではなかったといわれる由縁である。

戦後全国各地に花菖蒲園が造成され、伊勢系も肥後系も花菖蒲園のなかに植え込まれるようになり、門外不出の菖翁秘蔵の花菖蒲も、広く見られるようになった。

小生は、南禅寺細川別邸の南、壁雲荘の裏門前にある花菖蒲を見たとき、その景観、風情に松平菖翁の面影を感じたことがあった。

今年は、畦道に咲く花菖蒲のルーツである花菖蒲を探して、梅雨を過ごしたいと思っている。

厳しい農作業の時も、優雅に控えめに咲く紫の花を見つめて、休みを取り楽しみ、そしてまた励む先人の姿が目に浮かぶようだ。

花菖蒲が咲き梅が熟す頃に降る長雨を、先人は梅雨と言い伝えた。
季節の記号に実利を伴わせた先人の技に、情緒を感じている現代人の我々は、ただただ頭が下るばかりである。


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関連歳時/文化
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野花菖蒲
花菖蒲
芒種(ぼうしゅ)
芒(のぎ)
花菖培養録(かしょうばいようろく)
仙伝抄
尺素往来
菖蒲(あやめ)

関連施設/場所
京都市左京区南禅寺下河原町37
壁雲荘

関連人物/組織
松平左金吾定朝
菖翁(しょうおう)

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