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祇園祭の真只中である。
先週の17日は朝から晩まで祇園祭の追っかけで一日が過ぎた。
汗と雨とで三度着替え直した。洗濯籠を持ち上げるとずっしりとしている。寺町の御旅所から自宅に戻るなり風呂場に直行、頭からシャワーを浴びせ、すぐさまバスタブの湯に身を沈めた。
御旅所前での神輿の「差し上げ」「差し回し」の興奮が未だ覚めやらず、湯船の中で神輿振りの囃子言葉が繰り返し口を突く。
ビデオを逆戻しするように、一日の光景が蘇ってきた。
久世駒形稚児の胸に掛けられた御神体の駒形は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の荒御霊(あらみたま)であるが、その稚児と駒形がストップモーションでフラッシュバックしてくる。
次に、和御霊(にぎみたま)の中御座神輿の神輿振りが執拗なまでの波打ち激しく暴れるようなスローモーションで、頭の中に呼び戻された。
神威を感じる思いがする。
輿丁が神輿を荒々しく激しく揺らすのを「魂振り」という。その意味は神の霊を揺り動かし、神霊に活性化してもらうことであり、その活性した魂に肖ろうとする信仰である。「ナリカン」と呼ぶ金具を激しく鳴らすのも京都特有の神輿の特徴で、それらの表れである。
御旅所から祇園石段下にシーンが変わると、「回せぇ 回せぇ」と、東御座神輿の緩やかで止まることがないかと思う程の、高く静止した見事な差し回しである。
遷移された神霊(櫛稲田姫命/くしなだひめのみこと)の気高く威風堂々とした様が伝わってくる。
これらは八坂神社が祇園社と呼ばれ、祇園感神院・祇園寺と言う天台宗の寺院の一角にあったとされる時代より、1100年以上もの悠久の歴史の中、こうして毎年繰り返されてきた習わしであろう。
疫病に苦しむ庶民は祇園の神仏にすがり、牛頭天王(ごずてんのう/素戔嗚尊の化身)を崇敬し、喜んでもらうためのそれぞれの奉納に懸命になっていた。
創祀について諸説多いが、神仏習合時代の境内には薬師堂と天神堂があり、矛盾することなく崇敬され、ごく普通に混在習合して祭や行事が行われていたことは、祇園祭の諸行事にもよく表れている。
明治の廃仏毀釈の思想や昭和の戦後宗教教育アレルギーを等閑にしたままで、祭や芸能の保存会に頼りきっていて良いのだろうか。
そろそろ適切な処方箋を施し、宗教観、日本の歴史観に誇りを持って応えられる時代にしなくてはならない。
この家族が、この町が、この国が、この地球があってこその自分である。
先人達は住みよく暮らし良くするために政(まつりごと)を行い、人智が及ばない時代のテーマに直面した。例えば、洪水などの災害や疫病、崇りと死への恐怖である。
そのとき、大自然を畏敬し、神仏を崇敬する心を見出した。
そして、神仏に祈り、信仰する心を形に示し祭事(まつりごと)を執り行った。
その心を継承することが祇園祭なのだと、今更ながら思えてきた。
湯船に浮かぶ身体の疲れが解れてきた頃に、閉じた瞼には山鉾巡行のシーンが映し出された。
祭りは時代とともに緩やかに変化するものだと思った。
山鉾は女人禁制が仕来りであると教えられたものである。鉾に上がることも、綱を曳くことも許されていなかった。
ところが、鉾町ごとの自治であるところから、曳き初めの綱を曳くことを許すところが出だし、宵山の鉾に上げるところも出だし、それに追随する鉾町も増えた。
そして、1993年宵山に限りとして女性囃子方を上げたのが函谷鉾である。堰が切れたも同然となり、函谷鉾の巡行時に女性囃子方が登場することとなり、1996年に南観音山も女性囃子方を乗せ巡行するようになった。
「そもそも女人禁制は江戸中期頃に引かれた仕来りで、江戸初期(1615年?)までは、女人の囃子方も乗っていた」と、函谷鉾の囃子方に聞いたことがある。
つまり、元に戻ったというのである。
と、すれば、江戸期に「女性には穢れがある」とした偏見迷信が広まり、そのとき決められた仕来りを守っていたということになる。
守るも伝統なら、破るも新たな伝統を作ることとなり、それが文化なのであろうか。
祇園御霊会を祇園祭と変えたのも、祇園感神院を八坂神社と変えたのも、その時代の為政者の気持ち次第で庶民が翻弄されていたことは既に明白である。
「歴史は誤った判断のうえに繰り返されている」、といえば皮肉な表現だろうか。
24日には「後祭(あとのまつり)」が控えている。午前10時の花傘巡行に始まり、夕方5時からおかえり(還幸祭)の神事(神輿還御)となり、神輿から本殿に御霊遷しされるのが深夜0時を過ぎた頃である。この日も丸一日、追っかけの日となりそうだ。
昭和41年(1966年)の後祭から、九基の山鉾巡行が前祭に統合され姿を消し、花傘巡行となったのは経済的事情からだそうだが、それぞれ庶民の祇園御霊会への想いが結晶された花傘巡行になっている。
昭和31年に復活した笠鷺鉾に由来の鷺舞が平成18年に姿を消したのは残念なことである。鷺舞保存会と氏子組織清々講社の金銭的対立と報じられたが、同年、鷺舞に代わり子鷺踊りが始まった。
花傘巡行は花傘の10余基をはじめとして、花街の芸舞妓の踊り、小町踊り、子鷺踊、久世六斎念仏、万灯をどり、子供神輿、祇園囃子、稚児など総勢千人の行列で、祇園石段下から市役所を往復して、色とりどりの舞や踊りが繰り広げられる。
伝統を守るといわれる祇園祭も、時代に応じて生成化育している。
守られるべき仕来りを守り、歪な仕来りに囚われない精神こそが京都の精神である。
花傘巡行に平成女鉾の巡行が見られる「山動く日」が待ち遠しい。
新たな時代の奉納行事の始まりと、その開かれた受け入れを期待して止まない。
それは、牛頭天王への供応接待であり、祈りと感謝の姿の表れと小生の目には映る。
湯上りに、ふと思った。
平安時代よりの疫病は科学の力で克服できるようになったが、現代の躁鬱をはじめとする心の病には牛頭天王の力がまだまだ必要なのではないか。
祇園祭に奉仕、奉納する浅からぬ崇敬で、治癒の道が開けるのではないかと。
先週の17日は朝から晩まで祇園祭の追っかけで一日が過ぎた。
汗と雨とで三度着替え直した。洗濯籠を持ち上げるとずっしりとしている。寺町の御旅所から自宅に戻るなり風呂場に直行、頭からシャワーを浴びせ、すぐさまバスタブの湯に身を沈めた。
御旅所前での神輿の「差し上げ」「差し回し」の興奮が未だ覚めやらず、湯船の中で神輿振りの囃子言葉が繰り返し口を突く。
ビデオを逆戻しするように、一日の光景が蘇ってきた。
久世駒形稚児の胸に掛けられた御神体の駒形は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の荒御霊(あらみたま)であるが、その稚児と駒形がストップモーションでフラッシュバックしてくる。
次に、和御霊(にぎみたま)の中御座神輿の神輿振りが執拗なまでの波打ち激しく暴れるようなスローモーションで、頭の中に呼び戻された。
神威を感じる思いがする。
輿丁が神輿を荒々しく激しく揺らすのを「魂振り」という。その意味は神の霊を揺り動かし、神霊に活性化してもらうことであり、その活性した魂に肖ろうとする信仰である。「ナリカン」と呼ぶ金具を激しく鳴らすのも京都特有の神輿の特徴で、それらの表れである。
御旅所から祇園石段下にシーンが変わると、「回せぇ 回せぇ」と、東御座神輿の緩やかで止まることがないかと思う程の、高く静止した見事な差し回しである。
遷移された神霊(櫛稲田姫命/くしなだひめのみこと)の気高く威風堂々とした様が伝わってくる。
これらは八坂神社が祇園社と呼ばれ、祇園感神院・祇園寺と言う天台宗の寺院の一角にあったとされる時代より、1100年以上もの悠久の歴史の中、こうして毎年繰り返されてきた習わしであろう。
疫病に苦しむ庶民は祇園の神仏にすがり、牛頭天王(ごずてんのう/素戔嗚尊の化身)を崇敬し、喜んでもらうためのそれぞれの奉納に懸命になっていた。
創祀について諸説多いが、神仏習合時代の境内には薬師堂と天神堂があり、矛盾することなく崇敬され、ごく普通に混在習合して祭や行事が行われていたことは、祇園祭の諸行事にもよく表れている。
明治の廃仏毀釈の思想や昭和の戦後宗教教育アレルギーを等閑にしたままで、祭や芸能の保存会に頼りきっていて良いのだろうか。
そろそろ適切な処方箋を施し、宗教観、日本の歴史観に誇りを持って応えられる時代にしなくてはならない。
この家族が、この町が、この国が、この地球があってこその自分である。
先人達は住みよく暮らし良くするために政(まつりごと)を行い、人智が及ばない時代のテーマに直面した。例えば、洪水などの災害や疫病、崇りと死への恐怖である。
そのとき、大自然を畏敬し、神仏を崇敬する心を見出した。
そして、神仏に祈り、信仰する心を形に示し祭事(まつりごと)を執り行った。
その心を継承することが祇園祭なのだと、今更ながら思えてきた。
湯船に浮かぶ身体の疲れが解れてきた頃に、閉じた瞼には山鉾巡行のシーンが映し出された。
祭りは時代とともに緩やかに変化するものだと思った。
山鉾は女人禁制が仕来りであると教えられたものである。鉾に上がることも、綱を曳くことも許されていなかった。
ところが、鉾町ごとの自治であるところから、曳き初めの綱を曳くことを許すところが出だし、宵山の鉾に上げるところも出だし、それに追随する鉾町も増えた。
そして、1993年宵山に限りとして女性囃子方を上げたのが函谷鉾である。堰が切れたも同然となり、函谷鉾の巡行時に女性囃子方が登場することとなり、1996年に南観音山も女性囃子方を乗せ巡行するようになった。
「そもそも女人禁制は江戸中期頃に引かれた仕来りで、江戸初期(1615年?)までは、女人の囃子方も乗っていた」と、函谷鉾の囃子方に聞いたことがある。
つまり、元に戻ったというのである。
と、すれば、江戸期に「女性には穢れがある」とした偏見迷信が広まり、そのとき決められた仕来りを守っていたということになる。
守るも伝統なら、破るも新たな伝統を作ることとなり、それが文化なのであろうか。
祇園御霊会を祇園祭と変えたのも、祇園感神院を八坂神社と変えたのも、その時代の為政者の気持ち次第で庶民が翻弄されていたことは既に明白である。
「歴史は誤った判断のうえに繰り返されている」、といえば皮肉な表現だろうか。
24日には「後祭(あとのまつり)」が控えている。午前10時の花傘巡行に始まり、夕方5時からおかえり(還幸祭)の神事(神輿還御)となり、神輿から本殿に御霊遷しされるのが深夜0時を過ぎた頃である。この日も丸一日、追っかけの日となりそうだ。
昭和41年(1966年)の後祭から、九基の山鉾巡行が前祭に統合され姿を消し、花傘巡行となったのは経済的事情からだそうだが、それぞれ庶民の祇園御霊会への想いが結晶された花傘巡行になっている。
昭和31年に復活した笠鷺鉾に由来の鷺舞が平成18年に姿を消したのは残念なことである。鷺舞保存会と氏子組織清々講社の金銭的対立と報じられたが、同年、鷺舞に代わり子鷺踊りが始まった。
花傘巡行は花傘の10余基をはじめとして、花街の芸舞妓の踊り、小町踊り、子鷺踊、久世六斎念仏、万灯をどり、子供神輿、祇園囃子、稚児など総勢千人の行列で、祇園石段下から市役所を往復して、色とりどりの舞や踊りが繰り広げられる。
伝統を守るといわれる祇園祭も、時代に応じて生成化育している。
守られるべき仕来りを守り、歪な仕来りに囚われない精神こそが京都の精神である。
花傘巡行に平成女鉾の巡行が見られる「山動く日」が待ち遠しい。
新たな時代の奉納行事の始まりと、その開かれた受け入れを期待して止まない。
それは、牛頭天王への供応接待であり、祈りと感謝の姿の表れと小生の目には映る。
湯上りに、ふと思った。
平安時代よりの疫病は科学の力で克服できるようになったが、現代の躁鬱をはじめとする心の病には牛頭天王の力がまだまだ必要なのではないか。
祇園祭に奉仕、奉納する浅からぬ崇敬で、治癒の道が開けるのではないかと。
5243-090721-7月
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牛頭天王(ごずてんのう)
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櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)
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