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							「祇園祭も終わりましたな。」と、大阪からの来客者の挨拶である。
「とんでもおへん。山鉾巡行が済んだだけですがな。」と、前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり)の説明をひとしきりする。
「まぁ、お帰りに軒先の祭提灯と献酒の貼り札を見ておくれやす」と、祭話を切りあげ打ち合わせに入る。
来客の度にこんな繰り返しの連続で24日の後祭を迎えた。
知り合いのお子さんが花傘巡行に行列すると聞いて、祇園石段下へ見物のお供をすることにした。
小生が中学生の頃は、後祭は昼の山鉾巡行と夜の神輿のおかえり(還幸祭)が当たり前であった。前祭と同じ態様である。予断になるが、山鉾からチマキは投げられ取り合いに熱くなったものである。
後祭から山鉾が抜けても、花傘巡行として女性と子供達の手で繰り広げ、後祭の巡行の火を消さずに継承されていることに、ただただ頭が下がる思いである。
その純で下向きな御霊会への町衆の思いは、必ずや牛頭天王に届いているに違いない。
午前10時、花傘巡行の行列が祇園石段下を出発した。
八坂神社西の楼門に掛けられた行事札の文字が京の一日を示し、風に棚引く朱の幟旗が京の夏を謳っている。
先祓に氏子町の子供神輿が先導し、花傘巡行旗を先頭にまず神饌行列・花車・祇園太鼓と続く。
行列は囃子があると真に華やかに弾むものである。
祇園太鼓の響きが体の芯に届いてくるからこそ、それに続く、花傘・金獅子・銀獅子・幌武者・児武者・高士などの行列も見物できるものである。
子供神輿の行列を見ながら知人に話した。行列に参加してもらうだけでも大変なことだろうが、子供神輿にもドレスコードが必要ではないかと。
子供輿丁の半ズボンがバラバラ、履物がバラバラで、行列の質を半減させてしまっている。
介添えの親御さんも辛うじて法被は身に着けているが、鉢巻とサンバイザーが混在し、法被下の着衣、ズボンの種類などに、申し合わせやルールを引くことで、子供神輿の質も上がり、祭というハレの場の意味が理解されるのではと苦言してしまった。
予算の裏づけも考慮しなければならない点だが、祭りへの取り組み方を知ってもらうだけで、花傘巡行が京の誇りある祭へとさらに昇華できるはずである。
以前に「花傘巡行はしょぼいね」と言われたことがある。そのとき、京の町を、文化を馬鹿にされたように感じ口喧嘩してしまったが、目の当たりに見ると内観すべき点も多々あることに気づく。
このあと、馬長・六斎に続き、織商花傘・花傘娘・織商鉾・お茶屋組合花傘・小町踊(祇園東)・歌舞伎踊(先斗町)・花傘・さぎ踊・万灯踊花傘と、衣装も華やかに綺麗どころと娘さん達が沿道を賑わし、祇園囃子が最後尾で音曲を振舞うのを見送った。
巡行は四条河原町を御池通へ、寺町御池から四条御旅所を経由して、正午には八坂神社へ参内し、舞殿にて奉納舞が順次披露される。舞殿はこの日の深夜に神輿がおかえりになり、御霊うつしが行われるところである。
夕刻5時から深夜0時までの還幸祭への英気を養おうと、奉納披露は失礼して昼寝を取り、「錦市場 のとよ」で鰻を食べることに決めた。今夜は鱧でも鯖でもない、鰻でないと神輿の追っかけはできないだろうと体が要求していた。
錦市場なら錦天満宮にも近く、駒形稚児も見送れ、直ぐに四条の御旅所へも移動できて、ナリカンを揺さぶっての西御座輿丁の行列も迎えられる。
予定通り事をすすめ、錦天満宮から新京極を下がる三若神輿会の輿丁の後に続いた。
午後4時、歩道には観衆の人垣ができている。四条通の交通規制がまだ行われていない。御旅所前の三若の輿丁の苛立ちが伝わってくる。
三若の担ぐ中御座神輿の準備は既に整っている。屋根上の鳳凰には既に青々とした稲株が取り付けられているのが見える。因みに、この稲は丹波町にある八坂神社の神饌田に植えられている稲であると聞く。
久世駒形稚児が騎乗して寺町四条を下がってゆく姿が見えた。錦神輿会の輿丁が新京極から御旅所前(斎場)に入ってきた。
東御座、西御座の二基は、これから出御の準備である。黒棒に稲株が置かれ、白い添え棒(轅/ながえ・長柄)と縄が車道に運び出されている。
午後4時半、通行規制がはかどっていない。現場の警察官の統制がぬるいようだ。
輿丁が痺れを切らせ中御座を御旅所から担ぎ出し、藤井大丸前に待機させた。
四条通西向きの御旅所前に滞留した車両がやっと掃かれ、御旅所前に斎場が確保された。
神が最上のはずなのに人間の操る自動車に配慮しなくてはならないとは、冒涜とまでいわずしても軽率ではあるまいか。警備当局およびその上位権限者の意識の問題であろう。信教の自由や民主主義の論議の問題ではない。京の常識、掟としての文化意識の論議を問いたい思いである。
中御座は御旅所にて「御霊遷し」を受け、斎場で差し回しされ寺町通を南下、大政所(烏丸高辻上る)で祓いのあと「差し上げ」された。大政所の祠は織田信長時代の御旅所であったことを示すものである。現在の四条御旅所は豊臣秀吉により移築されたと駒札に記されている。
続いて、中御座は烏丸四条で差し回しされ四条通を西へ、大宮四条で丹波八坂太鼓に迎えられ北上し、神泉苑で東寺の僧侶による読経の迎えを受け、三条会商店街(黒門三条)の八坂御供社(又旅社)で祭典が執り行われた。
八坂御供社は往時の平安京神泉苑の一角であり、禁苑であった。
疫病退散を念じ六十六基の鉾が立てられ、祇園社より神輿三基が差し向けられ祇園御霊会が執り行われた斎場だったところである。
中御座が八坂御供社を発つとき、三基の祭神の寄り代であるオハケ(御幣)が抜かれていた。神泉苑での御霊会が終わった印であろう。そのあとに東御座、西御座の神輿は次々とあとに続いていく。
つまり、牛頭天王一行は八坂神社(祇園社)へとお帰りになっていくのである。
(続く)
 
													
						「とんでもおへん。山鉾巡行が済んだだけですがな。」と、前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり)の説明をひとしきりする。
「まぁ、お帰りに軒先の祭提灯と献酒の貼り札を見ておくれやす」と、祭話を切りあげ打ち合わせに入る。
来客の度にこんな繰り返しの連続で24日の後祭を迎えた。
知り合いのお子さんが花傘巡行に行列すると聞いて、祇園石段下へ見物のお供をすることにした。
小生が中学生の頃は、後祭は昼の山鉾巡行と夜の神輿のおかえり(還幸祭)が当たり前であった。前祭と同じ態様である。予断になるが、山鉾からチマキは投げられ取り合いに熱くなったものである。
後祭から山鉾が抜けても、花傘巡行として女性と子供達の手で繰り広げ、後祭の巡行の火を消さずに継承されていることに、ただただ頭が下がる思いである。
その純で下向きな御霊会への町衆の思いは、必ずや牛頭天王に届いているに違いない。
午前10時、花傘巡行の行列が祇園石段下を出発した。
八坂神社西の楼門に掛けられた行事札の文字が京の一日を示し、風に棚引く朱の幟旗が京の夏を謳っている。
先祓に氏子町の子供神輿が先導し、花傘巡行旗を先頭にまず神饌行列・花車・祇園太鼓と続く。
行列は囃子があると真に華やかに弾むものである。
祇園太鼓の響きが体の芯に届いてくるからこそ、それに続く、花傘・金獅子・銀獅子・幌武者・児武者・高士などの行列も見物できるものである。
子供神輿の行列を見ながら知人に話した。行列に参加してもらうだけでも大変なことだろうが、子供神輿にもドレスコードが必要ではないかと。
子供輿丁の半ズボンがバラバラ、履物がバラバラで、行列の質を半減させてしまっている。
介添えの親御さんも辛うじて法被は身に着けているが、鉢巻とサンバイザーが混在し、法被下の着衣、ズボンの種類などに、申し合わせやルールを引くことで、子供神輿の質も上がり、祭というハレの場の意味が理解されるのではと苦言してしまった。
予算の裏づけも考慮しなければならない点だが、祭りへの取り組み方を知ってもらうだけで、花傘巡行が京の誇りある祭へとさらに昇華できるはずである。
以前に「花傘巡行はしょぼいね」と言われたことがある。そのとき、京の町を、文化を馬鹿にされたように感じ口喧嘩してしまったが、目の当たりに見ると内観すべき点も多々あることに気づく。
このあと、馬長・六斎に続き、織商花傘・花傘娘・織商鉾・お茶屋組合花傘・小町踊(祇園東)・歌舞伎踊(先斗町)・花傘・さぎ踊・万灯踊花傘と、衣装も華やかに綺麗どころと娘さん達が沿道を賑わし、祇園囃子が最後尾で音曲を振舞うのを見送った。
巡行は四条河原町を御池通へ、寺町御池から四条御旅所を経由して、正午には八坂神社へ参内し、舞殿にて奉納舞が順次披露される。舞殿はこの日の深夜に神輿がおかえりになり、御霊うつしが行われるところである。
夕刻5時から深夜0時までの還幸祭への英気を養おうと、奉納披露は失礼して昼寝を取り、「錦市場 のとよ」で鰻を食べることに決めた。今夜は鱧でも鯖でもない、鰻でないと神輿の追っかけはできないだろうと体が要求していた。
錦市場なら錦天満宮にも近く、駒形稚児も見送れ、直ぐに四条の御旅所へも移動できて、ナリカンを揺さぶっての西御座輿丁の行列も迎えられる。
予定通り事をすすめ、錦天満宮から新京極を下がる三若神輿会の輿丁の後に続いた。
午後4時、歩道には観衆の人垣ができている。四条通の交通規制がまだ行われていない。御旅所前の三若の輿丁の苛立ちが伝わってくる。
三若の担ぐ中御座神輿の準備は既に整っている。屋根上の鳳凰には既に青々とした稲株が取り付けられているのが見える。因みに、この稲は丹波町にある八坂神社の神饌田に植えられている稲であると聞く。
久世駒形稚児が騎乗して寺町四条を下がってゆく姿が見えた。錦神輿会の輿丁が新京極から御旅所前(斎場)に入ってきた。
東御座、西御座の二基は、これから出御の準備である。黒棒に稲株が置かれ、白い添え棒(轅/ながえ・長柄)と縄が車道に運び出されている。
午後4時半、通行規制がはかどっていない。現場の警察官の統制がぬるいようだ。
輿丁が痺れを切らせ中御座を御旅所から担ぎ出し、藤井大丸前に待機させた。
四条通西向きの御旅所前に滞留した車両がやっと掃かれ、御旅所前に斎場が確保された。
神が最上のはずなのに人間の操る自動車に配慮しなくてはならないとは、冒涜とまでいわずしても軽率ではあるまいか。警備当局およびその上位権限者の意識の問題であろう。信教の自由や民主主義の論議の問題ではない。京の常識、掟としての文化意識の論議を問いたい思いである。
中御座は御旅所にて「御霊遷し」を受け、斎場で差し回しされ寺町通を南下、大政所(烏丸高辻上る)で祓いのあと「差し上げ」された。大政所の祠は織田信長時代の御旅所であったことを示すものである。現在の四条御旅所は豊臣秀吉により移築されたと駒札に記されている。
続いて、中御座は烏丸四条で差し回しされ四条通を西へ、大宮四条で丹波八坂太鼓に迎えられ北上し、神泉苑で東寺の僧侶による読経の迎えを受け、三条会商店街(黒門三条)の八坂御供社(又旅社)で祭典が執り行われた。
八坂御供社は往時の平安京神泉苑の一角であり、禁苑であった。
疫病退散を念じ六十六基の鉾が立てられ、祇園社より神輿三基が差し向けられ祇園御霊会が執り行われた斎場だったところである。
中御座が八坂御供社を発つとき、三基の祭神の寄り代であるオハケ(御幣)が抜かれていた。神泉苑での御霊会が終わった印であろう。そのあとに東御座、西御座の神輿は次々とあとに続いていく。
つまり、牛頭天王一行は八坂神社(祇園社)へとお帰りになっていくのである。
(続く)
							
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