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毎年八月は大沢池に二度誘われる。
一度は池一面の蓮の花を見て、愛宕山を仰ぐ。
小生の訪れる日は、極楽浄土を思わせる蓮の花が満開で、決まって涼やかな色の灯篭が浮かんでいる。前夜に灯篭流しが行われたのであろう。
灯篭を見ると子供たちの名と願い事が書かれていた。微笑ましい願い事に触れると、思わず「頑張って!」と声援を送りたくなる。
この池の蓮は小ぶりで、「名古曽」と名づけられている。
大沢池の北約五十メートルの所に嵯峨天皇の造営された離宮嵯峨院の滝殿の石組み跡、「名古曽滝(なこそのたき)」があるが、その名に因み命名されたのであろう。
藤原公任(ふじわらのきんとう/966〜1041年)は、
「滝の音は絶えて久しくなりぬれど なこそ流れてなお聞こえけれ」
と詠んでいる。
名古曽の蓮は薄紅色であるが、多宝塔奥の池は白い蓮が集められ、朱色の塔と互いに引き立てあっている。大らかさを感じさせる池泉舟遊式庭園の広い苑池の周りを歩くと、石仏や五社大明神にも参詣できる。
額に汗しながらも、木陰の風に癒され、目に入る風景を見て、小生は「極楽に近い夏」との記号をつけている。
その蓮の花が少し取り除かれるのは、大文字の頃であろうか。
取り除かれた辺りに丸太組みされた祭壇が、池端から伸びた桟橋に施餓鬼棚が、設えられる。
16日の大文字さんのあと、20日に執り行われる「宵弘法」には、帰り損ねてこの世に残るお精霊さんを、皆冥界へ送り届けてくれる「嵯峨の送り火」がある。
二度目に誘われるのは、「万灯会」と「施餓鬼会」の法会が行われ、「嵯峨の送り火」が焚かれる「宵弘法」の日である。
五山の送り火が終わっても、帰り損ねたお精霊さんがいらっしゃる。
では、そのお精霊さんは十万億土の冥界へは帰れず、この世に留まり放浪されるのか。
良くしたもので、ちゃんと面倒をみてくださるところがある。
それが、大覚寺の「嵯峨の送り火」であり、弘法大師の教えに従い厳修されている。
普段閉じられたままの勅使門が開いている。境内からは、聞きなれたメロディーが吹奏楽で聞こえてくる。
境内に入ると、左近の梅・右近の橘の前に椅子席があり、宸殿を舞台にして、北嵯峨高校の生徒さんが吹奏楽を演奏している。
そこは旧嵯峨御所であった建造物で、宸殿ではないか。
宸殿前庭の椅子席には、父兄や近所の方、子供達が座り笑顔で鑑賞している。
宸殿前から少し離れると、吹奏楽と同時に、五大堂の方から僧侶の読経の声が聞こえてきた。そして、その間にある御影堂ではアニメの上映が子供達のためにされている。
奇妙な感覚に襲われた。
嵯峨離宮の高貴な趣の中で、町内の地蔵盆の風情である。
つまり、派手で気位が高い観光催事をひけらかすのではなく、地域に密着した身近な大寺院があるのだ。
あらためて、これが民の中にある宗教活動の本質であると感心し、納得させられた。
高慢な僧侶の説教ではない、隣に居て助けてくれる僧侶の姿が浮かんできたのである。
やがて行われる万灯会、施餓鬼会の送り火の様子を窺うべく、暮れなずみ始めた大沢池に出た。
燈籠流しが志納金で受け付けてもらえたので、燈籠を大沢池に流してもらうことにした。これで先祖供養も出来、行事にも参加できるという按配である。蓮の花が浮く池に燈籠流しの風情は実に良い。暗くなるのがさらに待ち遠しくなってきた。
池の周りには提灯が吊るされ、施餓鬼棚には竹笹が立ち、赤・黄・白・緑・紫と五色のお幡が棚引いている。
「施餓鬼」とは、仏教用語で、「六道輪廻の世界にある凡夫の中でも、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食べ物を布施し、その霊を供養する儀礼」とある。
つまり、お精霊さんは各家の祖霊で、一年に一度、家の仏壇に帰り、盆の期間中、盆供として毎日供物を供えられる。それと同様に、無縁仏となり、成仏できずに俗世をさまよう餓鬼にも施餓鬼棚(せがきだな)を設け供養してやろうというものである。
大覚寺では施餓鬼を行い、あの世に大沢池より送り火をもって送ろうとしているのである。
王朝の薫り漂う大沢池に屋形船が走り出す。船べりから灯篭が流された。仄かなあかりを放ちながら風に流され、それは水面を走り出す。
五大堂では先祖追福供養の読経が続いているようだ。
暫く、大沢池の万灯を眺めていると、五大堂の屋外に設けられた祭壇に門跡が就かれ、修法が行われると、大沢池の桟橋に多数の僧侶が並び立ち、施餓鬼棚前にて法会が始まった。
塔婆に記された戒名が次々と読み上げられている。経本が扇状に空に踊る。その読経の様子はまさに覚醒状態であった。
真言の唱えと菩提が祈られると、僧侶たちは船に素早く乗り込んだ。それは桟橋から闇を渡り祭壇に向かう。
暗闇に小さく灯りが揺らいだと思うと、一気に火柱が噴出した。船より祭壇に火が入れられたのだ。
大沢池に送り火は燃え上がり、舞い上がり、その火の粉は冥界に届くかのようである。
また、その火姿が織り成す形は六道の生き物のようにも見えた。
立ち上がる火柱は池の周りを黄金色に照らし出し、その火勢に明日を生き貫く勇気を頂き、やがて火は落ちた。
夏の終わりの祈りの中に、宵弘法の夜は更けていった
翌21日は弘法さんの命日にあたる。
一度は池一面の蓮の花を見て、愛宕山を仰ぐ。
小生の訪れる日は、極楽浄土を思わせる蓮の花が満開で、決まって涼やかな色の灯篭が浮かんでいる。前夜に灯篭流しが行われたのであろう。
灯篭を見ると子供たちの名と願い事が書かれていた。微笑ましい願い事に触れると、思わず「頑張って!」と声援を送りたくなる。
この池の蓮は小ぶりで、「名古曽」と名づけられている。
大沢池の北約五十メートルの所に嵯峨天皇の造営された離宮嵯峨院の滝殿の石組み跡、「名古曽滝(なこそのたき)」があるが、その名に因み命名されたのであろう。
藤原公任(ふじわらのきんとう/966〜1041年)は、
「滝の音は絶えて久しくなりぬれど なこそ流れてなお聞こえけれ」
と詠んでいる。
名古曽の蓮は薄紅色であるが、多宝塔奥の池は白い蓮が集められ、朱色の塔と互いに引き立てあっている。大らかさを感じさせる池泉舟遊式庭園の広い苑池の周りを歩くと、石仏や五社大明神にも参詣できる。
額に汗しながらも、木陰の風に癒され、目に入る風景を見て、小生は「極楽に近い夏」との記号をつけている。
その蓮の花が少し取り除かれるのは、大文字の頃であろうか。
取り除かれた辺りに丸太組みされた祭壇が、池端から伸びた桟橋に施餓鬼棚が、設えられる。
16日の大文字さんのあと、20日に執り行われる「宵弘法」には、帰り損ねてこの世に残るお精霊さんを、皆冥界へ送り届けてくれる「嵯峨の送り火」がある。
二度目に誘われるのは、「万灯会」と「施餓鬼会」の法会が行われ、「嵯峨の送り火」が焚かれる「宵弘法」の日である。
五山の送り火が終わっても、帰り損ねたお精霊さんがいらっしゃる。
では、そのお精霊さんは十万億土の冥界へは帰れず、この世に留まり放浪されるのか。
良くしたもので、ちゃんと面倒をみてくださるところがある。
それが、大覚寺の「嵯峨の送り火」であり、弘法大師の教えに従い厳修されている。
普段閉じられたままの勅使門が開いている。境内からは、聞きなれたメロディーが吹奏楽で聞こえてくる。
境内に入ると、左近の梅・右近の橘の前に椅子席があり、宸殿を舞台にして、北嵯峨高校の生徒さんが吹奏楽を演奏している。
そこは旧嵯峨御所であった建造物で、宸殿ではないか。
宸殿前庭の椅子席には、父兄や近所の方、子供達が座り笑顔で鑑賞している。
宸殿前から少し離れると、吹奏楽と同時に、五大堂の方から僧侶の読経の声が聞こえてきた。そして、その間にある御影堂ではアニメの上映が子供達のためにされている。
奇妙な感覚に襲われた。
嵯峨離宮の高貴な趣の中で、町内の地蔵盆の風情である。
つまり、派手で気位が高い観光催事をひけらかすのではなく、地域に密着した身近な大寺院があるのだ。
あらためて、これが民の中にある宗教活動の本質であると感心し、納得させられた。
高慢な僧侶の説教ではない、隣に居て助けてくれる僧侶の姿が浮かんできたのである。
やがて行われる万灯会、施餓鬼会の送り火の様子を窺うべく、暮れなずみ始めた大沢池に出た。
燈籠流しが志納金で受け付けてもらえたので、燈籠を大沢池に流してもらうことにした。これで先祖供養も出来、行事にも参加できるという按配である。蓮の花が浮く池に燈籠流しの風情は実に良い。暗くなるのがさらに待ち遠しくなってきた。
池の周りには提灯が吊るされ、施餓鬼棚には竹笹が立ち、赤・黄・白・緑・紫と五色のお幡が棚引いている。
「施餓鬼」とは、仏教用語で、「六道輪廻の世界にある凡夫の中でも、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食べ物を布施し、その霊を供養する儀礼」とある。
つまり、お精霊さんは各家の祖霊で、一年に一度、家の仏壇に帰り、盆の期間中、盆供として毎日供物を供えられる。それと同様に、無縁仏となり、成仏できずに俗世をさまよう餓鬼にも施餓鬼棚(せがきだな)を設け供養してやろうというものである。
大覚寺では施餓鬼を行い、あの世に大沢池より送り火をもって送ろうとしているのである。
王朝の薫り漂う大沢池に屋形船が走り出す。船べりから灯篭が流された。仄かなあかりを放ちながら風に流され、それは水面を走り出す。
五大堂では先祖追福供養の読経が続いているようだ。
暫く、大沢池の万灯を眺めていると、五大堂の屋外に設けられた祭壇に門跡が就かれ、修法が行われると、大沢池の桟橋に多数の僧侶が並び立ち、施餓鬼棚前にて法会が始まった。
塔婆に記された戒名が次々と読み上げられている。経本が扇状に空に踊る。その読経の様子はまさに覚醒状態であった。
真言の唱えと菩提が祈られると、僧侶たちは船に素早く乗り込んだ。それは桟橋から闇を渡り祭壇に向かう。
暗闇に小さく灯りが揺らいだと思うと、一気に火柱が噴出した。船より祭壇に火が入れられたのだ。
大沢池に送り火は燃え上がり、舞い上がり、その火の粉は冥界に届くかのようである。
また、その火姿が織り成す形は六道の生き物のようにも見えた。
立ち上がる火柱は池の周りを黄金色に照らし出し、その火勢に明日を生き貫く勇気を頂き、やがて火は落ちた。
夏の終わりの祈りの中に、宵弘法の夜は更けていった
翌21日は弘法さんの命日にあたる。
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