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香道で香を嗅いでその種類を当てることを聞香(もんこう・ききこう)というが、観梅で馥郁(ふくいく)たる梅の匂いを嗅ぐことを、いかに呼べば良いだろうか。
辞書を繰るが、適切な文字が見当たらない。
相方は「香り楽しむと書いて、楽香(らっこう)」と、小生は「薫る梅と書いて、薫梅(くんばい)」と名づけた。
お花見の桜のような華やかさがあるわけでなく、紅葉狩りのような煌びやかさもないが、厳寒を乗り越えそっと春の音を運び、咲いている。
友とほころんだ梅を眺めていると、気品高い趣と清らかな香りがほんのりと漂ってきた。
「松竹梅の末席に置くには、いささか憚るのではないか」、と小生が言うと、
「梅・蘭・菊・竹と、四君子の一つに挙げられるほどの気高さがあるではないか」と、即座に友は返してきた。
梅の花言葉には、「高潔、上品、忍耐、忠実、独立」などといった言葉が割り当てられている。凛とし、粘り強く健やかに生き抜いている姿に見えてきた。
例年 2月下旬から3月中旬までが、最も美しく花開き、芳しい匂いを放っている時期となる。
その梅の精を貰った観梅の場所をご案内したい。
向かうは世界遺産の糺の森である。
その昔「烏の縄手」という細長い曲がりくねった道が何筋もあったという森の中を眺めながら参道を進む。楼門まであと一足であるが、石橋を渡らず右へ折れて、奈良の小川の方へと歩いた。
侘助に似た桃色の椿に出会った。名札の欲しいところである。
奈良の小川では、せせらぎの音に癒されながら、その復元された小川の流れを目で追う。
琳派の絵師尾形光琳(1658〜1716年)の「国宝 紅白梅図屏風」に描かれたS字の表現を否がおうにも思い出し、頷いた。きっと、この奈良の小川の流れからイメージし、描いたのであろうと。
琳派芸術の最高傑作とされる屏風に描かれる風景は、下鴨神社の御手洗川とその川縁の梅であると伝わっている。
光琳が晩年に手がけた代表作、「紅白梅図屏風」の紅梅のモチーフとなった「光琳梅」が気になった。
一度見れば、誰しもの印象に残るのが、光琳の「紅白梅図屏風」である。
老熟した白梅の静と若々しい紅梅の動、写実性を感じさせる梅の樹幹とS字の水流に図案化された表現手法に装飾性の極地を感じさせられるのである。
楼門の先に薄紅の花が咲いているのが見えた。
光琳は、あの紅梅を描いたのだろうかと、いきおい足早になる。
下鴨神社の楼門を潜った。本殿東の御手洗川の傍の朱の鳥居の方へと一目散に目ざす。
修学旅行生が輪橋(そりばし)を背に記念写真を撮っていた。撮り終えるのをひたすら待つ。
その間に紅梅を見ていると、紅梅に来訪者があらわれた。糺の森からやってきた鳥である。
・・・そして、修学旅行生達はおみくじをくくりつけだした。
ひとまず、輪橋の袂の「光琳梅」の周りを一回りする。
川の右手に紅梅がある構図が紅梅図屏風である。紅梅図に描かれていたアングルと同じ位置を探った。
左後方を振り返ると、御手洗川の上方に祭神瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)を祀る御手洗社(井上社)が見える。
このアングルからカメラを構える人が数人いた。輪橋の下へ降り御手洗川に入りシャッターを切りたかったが叶わなかった。
紅白梅図と瓜ふたつのアングルはなかったが、紅梅図の力強い樹幹の趣きが伝わってきた。
光琳は万治元年 (1658)、京都の呉服商「雁金屋」の当主・尾形宗謙の次男として生まれた。生来遊び人であった光琳は遊興三昧の日々を送り、相続した莫大な財産を湯水のように使い果たし、弟の尾形乾山からも借金するようなありさまであった。
四十代になって画業に身を入れ始めたのも、こうした経済的理由が一因であったらしいが、江戸文化最大の絵師としての名声を手に入れた。
その作品は、「風神雷神図屏風」のような大画面の屏風絵から水墨画まで多彩で、弟の乾山との合作による陶器の絵付け、手描き小袖の絵付け、漆工芸品の意匠に至るまで幅広く才能を発揮し、どの作品も都市的な感覚が溢れている。
晩年に手がけ代表作となった「紅白梅図屏風」のモチーフとなった紅梅のルーツが、下鴨神社の光琳梅に御手洗川、糺の森の奈良の小川に見られる。下鴨神社の「光琳梅」はいかがだろうか。
さて、名もある梅のあとは、名もない梅の名木を紹介して、今回のペンを置くことにする。
城南宮楽水苑春の山の枝垂れ梅の数には及ばないが、その枝ぶり、樹形、花の数で勝るといえる枝垂れ梅名木の穴場である。場所は西陣の街中にある檀家寺院の二箇所だ。
一つは智恵光院(上京区 智恵光院通一条上る)、もう一つは祐正寺(上京区下立売通七本松東入ル)である。
いずれも浄土宗の寺院で、枝垂れ梅は一本で、境内の地蔵堂の前に形よく咲き誇る姿が共通している。まるで盆栽のように仕立て上げられた樹形なのだか、その背丈は地蔵堂の屋根の高さに迫るものである。
前者の智恵光院の地蔵堂には小野篁作と伝える六臂地蔵菩薩像が安置され、後者の祐正寺の地蔵堂には妻取地蔵菩薩像が安置されている。
手狭な境内ではあるが、その境内に腰掛け、地蔵堂を背景に枝垂れる花々を眺めていると、緩やかな時の流れが、世俗を忘れさせてくれる。いずれも見事な枝垂れ梅である。
辞書を繰るが、適切な文字が見当たらない。
相方は「香り楽しむと書いて、楽香(らっこう)」と、小生は「薫る梅と書いて、薫梅(くんばい)」と名づけた。
お花見の桜のような華やかさがあるわけでなく、紅葉狩りのような煌びやかさもないが、厳寒を乗り越えそっと春の音を運び、咲いている。
友とほころんだ梅を眺めていると、気品高い趣と清らかな香りがほんのりと漂ってきた。
「松竹梅の末席に置くには、いささか憚るのではないか」、と小生が言うと、
「梅・蘭・菊・竹と、四君子の一つに挙げられるほどの気高さがあるではないか」と、即座に友は返してきた。
梅の花言葉には、「高潔、上品、忍耐、忠実、独立」などといった言葉が割り当てられている。凛とし、粘り強く健やかに生き抜いている姿に見えてきた。
例年 2月下旬から3月中旬までが、最も美しく花開き、芳しい匂いを放っている時期となる。
その梅の精を貰った観梅の場所をご案内したい。
向かうは世界遺産の糺の森である。
その昔「烏の縄手」という細長い曲がりくねった道が何筋もあったという森の中を眺めながら参道を進む。楼門まであと一足であるが、石橋を渡らず右へ折れて、奈良の小川の方へと歩いた。
侘助に似た桃色の椿に出会った。名札の欲しいところである。
奈良の小川では、せせらぎの音に癒されながら、その復元された小川の流れを目で追う。
琳派の絵師尾形光琳(1658〜1716年)の「国宝 紅白梅図屏風」に描かれたS字の表現を否がおうにも思い出し、頷いた。きっと、この奈良の小川の流れからイメージし、描いたのであろうと。
琳派芸術の最高傑作とされる屏風に描かれる風景は、下鴨神社の御手洗川とその川縁の梅であると伝わっている。
光琳が晩年に手がけた代表作、「紅白梅図屏風」の紅梅のモチーフとなった「光琳梅」が気になった。
一度見れば、誰しもの印象に残るのが、光琳の「紅白梅図屏風」である。
老熟した白梅の静と若々しい紅梅の動、写実性を感じさせる梅の樹幹とS字の水流に図案化された表現手法に装飾性の極地を感じさせられるのである。
楼門の先に薄紅の花が咲いているのが見えた。
光琳は、あの紅梅を描いたのだろうかと、いきおい足早になる。
下鴨神社の楼門を潜った。本殿東の御手洗川の傍の朱の鳥居の方へと一目散に目ざす。
修学旅行生が輪橋(そりばし)を背に記念写真を撮っていた。撮り終えるのをひたすら待つ。
その間に紅梅を見ていると、紅梅に来訪者があらわれた。糺の森からやってきた鳥である。
・・・そして、修学旅行生達はおみくじをくくりつけだした。
ひとまず、輪橋の袂の「光琳梅」の周りを一回りする。
川の右手に紅梅がある構図が紅梅図屏風である。紅梅図に描かれていたアングルと同じ位置を探った。
左後方を振り返ると、御手洗川の上方に祭神瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)を祀る御手洗社(井上社)が見える。
このアングルからカメラを構える人が数人いた。輪橋の下へ降り御手洗川に入りシャッターを切りたかったが叶わなかった。
紅白梅図と瓜ふたつのアングルはなかったが、紅梅図の力強い樹幹の趣きが伝わってきた。
光琳は万治元年 (1658)、京都の呉服商「雁金屋」の当主・尾形宗謙の次男として生まれた。生来遊び人であった光琳は遊興三昧の日々を送り、相続した莫大な財産を湯水のように使い果たし、弟の尾形乾山からも借金するようなありさまであった。
四十代になって画業に身を入れ始めたのも、こうした経済的理由が一因であったらしいが、江戸文化最大の絵師としての名声を手に入れた。
その作品は、「風神雷神図屏風」のような大画面の屏風絵から水墨画まで多彩で、弟の乾山との合作による陶器の絵付け、手描き小袖の絵付け、漆工芸品の意匠に至るまで幅広く才能を発揮し、どの作品も都市的な感覚が溢れている。
晩年に手がけ代表作となった「紅白梅図屏風」のモチーフとなった紅梅のルーツが、下鴨神社の光琳梅に御手洗川、糺の森の奈良の小川に見られる。下鴨神社の「光琳梅」はいかがだろうか。
さて、名もある梅のあとは、名もない梅の名木を紹介して、今回のペンを置くことにする。
城南宮楽水苑春の山の枝垂れ梅の数には及ばないが、その枝ぶり、樹形、花の数で勝るといえる枝垂れ梅名木の穴場である。場所は西陣の街中にある檀家寺院の二箇所だ。
一つは智恵光院(上京区 智恵光院通一条上る)、もう一つは祐正寺(上京区下立売通七本松東入ル)である。
いずれも浄土宗の寺院で、枝垂れ梅は一本で、境内の地蔵堂の前に形よく咲き誇る姿が共通している。まるで盆栽のように仕立て上げられた樹形なのだか、その背丈は地蔵堂の屋根の高さに迫るものである。
前者の智恵光院の地蔵堂には小野篁作と伝える六臂地蔵菩薩像が安置され、後者の祐正寺の地蔵堂には妻取地蔵菩薩像が安置されている。
手狭な境内ではあるが、その境内に腰掛け、地蔵堂を背景に枝垂れる花々を眺めていると、緩やかな時の流れが、世俗を忘れさせてくれる。いずれも見事な枝垂れ梅である。
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