うなぎのねどこに詰まった都びとの智慧

秀吉が京都に残したもの by 五所光一郎

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初夏の光の風を受けながら横断歩道の信号が変わるのを待つ。
東山七条の交差点である。右前方の勅使門は智積院、左前方の土塀は妙法院である。

その間の広い坂道が東山連峰に向かっている。坂をあがると、両脇は京都女子学園の敷地で、校舎が並ぶ。平日なら通学の女子学生が行き交う華やかなところから、通称「女坂」と呼ばれている。思い出多い男性諸君も多かろう。
京都に古くからあるトラットリア「イル・パッパラルド」も、この坂沿いに今もカジュアルイタリアンで営業している。因みに、「イル・ギォットーネ」の笹島シェフはここで修行を積んでいて現在の名声を得ている。

さて、坂の入り口両脇には、「豊国廟(ほうこくびょう)参道」と「新日吉(いまひえ)神宮」の二つの石碑が立つ。
左脇の豊国廟参道の石碑がえらく大きい。この通称女坂は正式には豊国廟参道なのである。

参道正面に聳えるのが阿弥陀ケ峯で、東山三十六峰の中でも一際目立つ秀峰である。
その阿弥陀ヶ峯の山頂(標高196m)は、戦国の世から天下統一を成し遂げ、世に平和をもたらした豊臣秀吉公の墓所(豊国廟)である。

秀吉公は慶長三年(1598年)八月十八日、京都伏見城で病に伏す中、正妻ねねの看病の甲斐なく62歳の生涯を終えた。その亡骸は、遺言により阿弥陀ヶ峯にすぐさま密かに葬られている。
秀吉が墓所に選んでいた阿弥陀ヶ峯は、飛鳥時代に僧行基により阿弥陀像が安置されていたところで、京の町が一望に見下ろせる高さであった。

墓所は五輪石塔を包み込むように木々が生い茂り、京を見渡せる視界の場所は高さ約10mほどもある五輪石塔の上ぐらいである。所々の木々の隙間から市街地が見えるも、霞んでいて建物の判別がつきづらい。
天守閣よろしく見渡せるのは太閤秀吉さんだけなのである。

五輪石塔に辿り着くまでには、真っ直ぐにつけられた見上げるほどの石段を上がる。
途中一服をしながら上がりきると・・・廟がない。近づきながらよく見ると「神門」が迎えている。
神門を潜ると、またもや石段である。更に急勾配の石段が見える。
石段を包み込むように木々はトンネルをこさえ、その先に、光の小さな窓が見えた。
息も絶え絶えなので、引き返そうかとも思ったが、ここまで来ればと腹を決めた。

小生の目には天国への階段のように映ったからである。


長い石段を登りながら秀吉の生涯を思い浮かべていた。
天文5年(1536年)1月1日、尾張国中村の半農半兵の貧乏農家に生まれた。日吉丸は戦国乱世に足軽として仕え、主君織田信長から猿と愛称され木下藤吉郎となった。

その後も、機転と忠心から戦功をあげ、家臣羽柴秀吉にまで上り詰めた。
主君亡き後、実権を握り天下統一を果たし、関白、太政大臣に就き、太閤豊臣秀吉となった。

太閤秀吉は、京の都を根城とし、応仁の乱以降荒れ果てた京都を復興させ、様々な都市改造政策を行ない、現在ある京都の基盤を築き、その貢献の足跡はあちこちに見られる。

身近な話であれば、商家を繁栄させるべく市中の土地に掛かる税(現財の固定資産税)を免除し朱印貿易を始め、農家からの年貢を徴収した(太閤検地・刀狩令)。市中が都市として機能するようになると(御土居の建設)、洛中には町費を義務づけた。その町費の計算は、間口に応じて決められたため、間口が狭くて奥行が長い「鰻の寝床」といわれる京町家が立ち並ぶ結果となった。

伏見城に豊国廟、豊国社など、豊臣家のシンボルとなるものは、徳川家康によってことごとく取り壊されているが、近年ブームが続いている京町家は未だに残っている。

秀吉は主君信長が徹底弾圧した浄土真宗を保護し、現在の地を本願寺(西本願寺)に与え御影堂と阿弥陀堂を建立させ、天台宗の方広寺や大佛殿の建立を行い、方広寺と本願寺の間を「正面通」としている。秀吉が自らを神格化しようとした施策であったようだが、家康は両寺については取り壊していない。為したのは、両寺を結ぶ正面通の真ん中に東本願寺渉成園(枳殻邸)を設け、正面通を分断したに止まっている。

現在の豊国廟と豊国神社は明治天皇により再興されたものである。
方広寺の「国家安康 君臣豊楽」の梵鐘完成により、秀頼は家康に難癖をつけられ、家康に勧められ再興した京の大仏さんの開眼法要を行うことが成せなかった。
それどころか、大坂夏の陣の原因となり、元和元年(1615年)、遂に豊臣家は断絶破滅させられたのである。

秀吉の墓所は跡形もなく破壊され墳墓に弔する人もなく風雨にさらされた。豊国廟に登る中腹、太閤坦(たいこうだいら)にあった、境内30万坪を誇る壮麗かつ壮大な社殿の「豊国社」も壊され山野と化し、民衆さえ立ち入れなかったようである。
残ったのは豊国社の石鳥居だけで、参道を新日吉神社へ分かつように、三叉路の真ん中にあるのがそれである。

後陽成天皇から賜った「正一位豊国大明神」の神階と神号は消え去り、秀吉の御霊は彷徨ったに違いない。

豊臣家破滅断絶後の徳川時代に、その彷徨った御霊を隠し、ひっそりと祀っていたところがある。前出の新日吉神社境内にある摂社「樹下社(このもとのやしろ)」がそれだ。
一説に、豊国廟の遺骨も運び出し埋葬されていたという。方広寺境内(現豊国神社境内)に馬塚を装って埋葬されたとのことである。


京に固い絆を残しこの世を去り、京の地を墓所と定めた秀吉の無念はいかばかりであろうか。

(続)


5313-150521-春

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