京の夏といえば、何を連想されるであろう。
京の夏は祇園祭に始まり、大文字五山の送り火で終わるという言い回しがあるように、この二つを連想される方が圧倒的に多い。
それ故、観光客の方もこの時とばかり大挙される。
そして、「蒸し暑い、兎に角暑い。」とよく言われる。
四方を山に囲まれた典型的な盆地で確かにそれは間違いではないが、猛暑日という熟語が連日使われ、亜熱帯気候化している日本はどこも暑く、京都に限ったことではなくなっている。
だから、夏の暑いときに、京都など行くものではないという意見は当たらない。
今や夏の京都にこそ是非訪れて貰いたいと言いたい。
何故なら、長年蒸し暑さを共にしてきた京都は、他所より暑さを凌ぐ術は心得ているからである。現実的にも情緒的にも、夏の過ごし方や楽しみ方を歴史的に培ってきた文化を持っているということである。
海水浴をするような海もなく、避暑地として過ごす山岳や高原もない。ところが、俗に言われるリゾート地を持たない自然環境の中で、心身ともに癒やせるコト、モノ、バショは枚挙に暇がないくらである。
こう言えば身も蓋もないが、避暑だけなら今や出歩くことなく、在宅しているのが一番過ごしやすい筈である。
つまり、自宅では得られない非日常の保養がいかに図れるかがポイントである。
さて、祇園祭や大文字が示すように、京都の夏は夜が全てである。
昼間は余興のようなつもりで過ごし、夜に向けて鋭気を養われるのが懸命といえる。
社寺なら2ヶ所程度に留め、年輪を重ねた堂内や方丈の持つ木造特有のひんやりとした空気にゆっくり浸り、座禅や瞑想に身を置き、あるいは縁に腰掛け、深い緑に囲まれた自然の涼感を味わい、悠久の時の流れを感じ取れるところに行かれるのがよい。
それが夏の昼間に得られる京の趣ある風情というものだ。
打ち水もなく、簾や網代などが設えられていない社寺やその文化財を、駆け足で見て回ることに終始するのは愚の骨頂である。
神仏と空間を共にする時間は安らぎの時でありたいし、明日の光を見つけて至福を得たりとなりたいものだ。
あるいは、奥座敷貴船、高雄で、納涼の知恵である川床(かわどこ)に席を取り、昼食に贅を尽くし都人の気分を味わうのも格別である。涼しげな川の流れを前にして、昼下がりまで、風流に楽しむ食事に時間をかけ、汗を流し湯を浴び過ごすことも良かろう。
市街なら庭園鑑賞しながらの京懐石の時間を存分にとることである。
そうして、夜に備えられることだ。夜の食事は簡単に済ませて、短い夏の夜を存分に楽しめる状態にしておくことが利巧というものである。
そうこうして、京都の夏の空が暮れなずんでくると・・・。
ドラマチックに彩られた空に山並みが影を落とす。軒の提灯や路地の行灯が灯る。
こんな情景が京都にはお似合いなのである。
花火、ネオンサインやLEDのイルミネーションは京の町は苦手であるし、それを求めてこられる方もあるまい。
振り返れば、提灯に行灯、灯明に松明、紫燈護摩火に松上げ、これらの火が京の夏だった。また、その京の夏の火は、何れも人々の祈りの火だったのである。
祇園祭宵山の駒形提灯はよく知られているが、祇園祭神輿洗いの禊祓いの松明が四条通を練り歩く姿をどれくらいの方がご存知だろうか。
あるいは八坂神社の神輿渡御で、小路を行く神輿が、町家の祭提灯や家々の街頭の灯りに鈍く光りを放つ様子をご覧になられただろうか。
また、八坂神社境内での御霊遷しの暗転となる静寂を体験されたであろうか。
雑踏の宵山では見られない京都の真の顔がここにあるといえる。
いくら京都といえど、提灯の灯が蝋燭の火で灯っているのは流石に少ない。
蝋燭の灯りとなると灯明である。人懐こく自然の温もりが感じられる火である。
八月に入ると盂蘭盆会とともに、各寺院では迎え火と墓参の灯明として、あちこちで灯る。
5日の醍醐山夜まいりでの大小様々な行灯が並ぶ万灯会を皮切りに、7日からは深紅の迎え提灯でお精霊迎えの始まる千本ゑんま堂、8日からは六波羅蜜寺での大文字の点く迎え火万灯会、夜空に伸びる千体仏塔や行灯の灯りで黄金色に浮かび上がる本堂となる9日からの壬生寺万灯会と、盆明けまで連日灯明が灯っている。
14日からは墓参で市内の各寺院の灯明は絶えないが、中でも、境内全域にわたり蝋燭が灯り、その光に浮かぶ往生極楽院や観音堂が拝観できる大原三千院万灯会や、親鸞聖人の眠る広大な墓地に吊るされる行灯と市内の夜景とが見下ろせ、京の平穏を祈りたくなるような東山ふもとの東大谷万灯会は見逃すべきでない。
16日は五山の送り火がある。鴨川三角州や船岡山などから眺めるも良いが、広沢池や渡月橋畔のお精霊送り万灯流しにも照準は合わせておくべきであろう。
盂蘭盆会が明けると、地蔵盆に大日盆の提灯が灯る。化野念仏寺の千灯供養に見る賽の河原一面の無縁石仏像に献灯供養される蝋燭の火は、日本人の心に、忘れ去られていた火を点してくれる。まるで心のふるさとを訪ねた思いである。
23日に始まる千灯供養にあわせて、愛宕街道界隈の奥嵯峨は、手づくりの灯籠と路地行灯で2キロの街道を灯してくれている。古都保存地区での夜道の嵯峨野散策ができるよう持て成してくれているのが愛宕古道街道灯し(あたごふるみちかいどうとぼし)である。そこには日本の原風景があった。
送り火のあとの京の夏は、提灯の灯りとともに芸能を楽しむ六斎念仏踊に念仏狂言が、伝統として今も各地域に息づいている。
取材する小生にとっても、夏の夜は毎晩楽しくも忙しくてならない。
京都の夏の火は、先に触れたような、幽霊や妖怪が出てくるやも知れないしっとりとした火ばかりではなかった。
7月28日の狸谷山不動院で行われた千日詣りの火渡り祭は、元気が千倍になるようなパワースポットである。舞台造建築の本堂が漆黒の闇に赤々と燃え、浮かび上がり、行者の焚く紫燈護摩壇は天に火を噴く。更に、青や赤の火がまだ消え去らぬ燃え殻の上を、山伏姿の行者が歩く姿は圧巻なのだ。
同じく、旧嵯峨御所の大沢池に設けられた斎場の紫燈護摩壇も火を天に噴き、炎は嵯峨の空に閻魔大王を描くがごとくに変容する。大覚寺の僧侶が施餓鬼棚の設けられた桟橋から舟を出して執り行われた。先祖供養の灯籠が風に吹かれて水面を走る万灯会の中での出来事である。
これは8月20日の宵弘法と呼ばれるもので、別名嵯峨の送り火とも呼ばれている。
まだまだ尽きぬが、もう一つ挙げるなら、愛宕山に献灯する松上げである。
満天の夜空に放物線を描き投げ上げられる火の玉が見られるのが花背(8/15)、小塩(8/20)、広河原(8/24)の松上げで、雲が畑(8/24)の松上げは、五山の送り火のようで、その年ごとの文字が山の二箇所で焚かれる。
これらのファンタジックな火の成す技を一度見てしまうと、病みつきになるのではないだろうか。
ここに記したものの殆どは、観光バスがこない、観光協会や観光寺院とは縁の少ない、京都人と共に息づいている京都である。
これらこそが素顔の京の夏である
京の夏は祇園祭に始まり、大文字五山の送り火で終わるという言い回しがあるように、この二つを連想される方が圧倒的に多い。
それ故、観光客の方もこの時とばかり大挙される。
そして、「蒸し暑い、兎に角暑い。」とよく言われる。
四方を山に囲まれた典型的な盆地で確かにそれは間違いではないが、猛暑日という熟語が連日使われ、亜熱帯気候化している日本はどこも暑く、京都に限ったことではなくなっている。
だから、夏の暑いときに、京都など行くものではないという意見は当たらない。
今や夏の京都にこそ是非訪れて貰いたいと言いたい。
何故なら、長年蒸し暑さを共にしてきた京都は、他所より暑さを凌ぐ術は心得ているからである。現実的にも情緒的にも、夏の過ごし方や楽しみ方を歴史的に培ってきた文化を持っているということである。
海水浴をするような海もなく、避暑地として過ごす山岳や高原もない。ところが、俗に言われるリゾート地を持たない自然環境の中で、心身ともに癒やせるコト、モノ、バショは枚挙に暇がないくらである。
こう言えば身も蓋もないが、避暑だけなら今や出歩くことなく、在宅しているのが一番過ごしやすい筈である。
つまり、自宅では得られない非日常の保養がいかに図れるかがポイントである。
さて、祇園祭や大文字が示すように、京都の夏は夜が全てである。
昼間は余興のようなつもりで過ごし、夜に向けて鋭気を養われるのが懸命といえる。
社寺なら2ヶ所程度に留め、年輪を重ねた堂内や方丈の持つ木造特有のひんやりとした空気にゆっくり浸り、座禅や瞑想に身を置き、あるいは縁に腰掛け、深い緑に囲まれた自然の涼感を味わい、悠久の時の流れを感じ取れるところに行かれるのがよい。
それが夏の昼間に得られる京の趣ある風情というものだ。
打ち水もなく、簾や網代などが設えられていない社寺やその文化財を、駆け足で見て回ることに終始するのは愚の骨頂である。
神仏と空間を共にする時間は安らぎの時でありたいし、明日の光を見つけて至福を得たりとなりたいものだ。
あるいは、奥座敷貴船、高雄で、納涼の知恵である川床(かわどこ)に席を取り、昼食に贅を尽くし都人の気分を味わうのも格別である。涼しげな川の流れを前にして、昼下がりまで、風流に楽しむ食事に時間をかけ、汗を流し湯を浴び過ごすことも良かろう。
市街なら庭園鑑賞しながらの京懐石の時間を存分にとることである。
そうして、夜に備えられることだ。夜の食事は簡単に済ませて、短い夏の夜を存分に楽しめる状態にしておくことが利巧というものである。
そうこうして、京都の夏の空が暮れなずんでくると・・・。
ドラマチックに彩られた空に山並みが影を落とす。軒の提灯や路地の行灯が灯る。
こんな情景が京都にはお似合いなのである。
花火、ネオンサインやLEDのイルミネーションは京の町は苦手であるし、それを求めてこられる方もあるまい。
振り返れば、提灯に行灯、灯明に松明、紫燈護摩火に松上げ、これらの火が京の夏だった。また、その京の夏の火は、何れも人々の祈りの火だったのである。
祇園祭宵山の駒形提灯はよく知られているが、祇園祭神輿洗いの禊祓いの松明が四条通を練り歩く姿をどれくらいの方がご存知だろうか。
あるいは八坂神社の神輿渡御で、小路を行く神輿が、町家の祭提灯や家々の街頭の灯りに鈍く光りを放つ様子をご覧になられただろうか。
また、八坂神社境内での御霊遷しの暗転となる静寂を体験されたであろうか。
雑踏の宵山では見られない京都の真の顔がここにあるといえる。
いくら京都といえど、提灯の灯が蝋燭の火で灯っているのは流石に少ない。
蝋燭の灯りとなると灯明である。人懐こく自然の温もりが感じられる火である。
八月に入ると盂蘭盆会とともに、各寺院では迎え火と墓参の灯明として、あちこちで灯る。
5日の醍醐山夜まいりでの大小様々な行灯が並ぶ万灯会を皮切りに、7日からは深紅の迎え提灯でお精霊迎えの始まる千本ゑんま堂、8日からは六波羅蜜寺での大文字の点く迎え火万灯会、夜空に伸びる千体仏塔や行灯の灯りで黄金色に浮かび上がる本堂となる9日からの壬生寺万灯会と、盆明けまで連日灯明が灯っている。
14日からは墓参で市内の各寺院の灯明は絶えないが、中でも、境内全域にわたり蝋燭が灯り、その光に浮かぶ往生極楽院や観音堂が拝観できる大原三千院万灯会や、親鸞聖人の眠る広大な墓地に吊るされる行灯と市内の夜景とが見下ろせ、京の平穏を祈りたくなるような東山ふもとの東大谷万灯会は見逃すべきでない。
16日は五山の送り火がある。鴨川三角州や船岡山などから眺めるも良いが、広沢池や渡月橋畔のお精霊送り万灯流しにも照準は合わせておくべきであろう。
盂蘭盆会が明けると、地蔵盆に大日盆の提灯が灯る。化野念仏寺の千灯供養に見る賽の河原一面の無縁石仏像に献灯供養される蝋燭の火は、日本人の心に、忘れ去られていた火を点してくれる。まるで心のふるさとを訪ねた思いである。
23日に始まる千灯供養にあわせて、愛宕街道界隈の奥嵯峨は、手づくりの灯籠と路地行灯で2キロの街道を灯してくれている。古都保存地区での夜道の嵯峨野散策ができるよう持て成してくれているのが愛宕古道街道灯し(あたごふるみちかいどうとぼし)である。そこには日本の原風景があった。
送り火のあとの京の夏は、提灯の灯りとともに芸能を楽しむ六斎念仏踊に念仏狂言が、伝統として今も各地域に息づいている。
取材する小生にとっても、夏の夜は毎晩楽しくも忙しくてならない。
京都の夏の火は、先に触れたような、幽霊や妖怪が出てくるやも知れないしっとりとした火ばかりではなかった。
7月28日の狸谷山不動院で行われた千日詣りの火渡り祭は、元気が千倍になるようなパワースポットである。舞台造建築の本堂が漆黒の闇に赤々と燃え、浮かび上がり、行者の焚く紫燈護摩壇は天に火を噴く。更に、青や赤の火がまだ消え去らぬ燃え殻の上を、山伏姿の行者が歩く姿は圧巻なのだ。
同じく、旧嵯峨御所の大沢池に設けられた斎場の紫燈護摩壇も火を天に噴き、炎は嵯峨の空に閻魔大王を描くがごとくに変容する。大覚寺の僧侶が施餓鬼棚の設けられた桟橋から舟を出して執り行われた。先祖供養の灯籠が風に吹かれて水面を走る万灯会の中での出来事である。
これは8月20日の宵弘法と呼ばれるもので、別名嵯峨の送り火とも呼ばれている。
まだまだ尽きぬが、もう一つ挙げるなら、愛宕山に献灯する松上げである。
満天の夜空に放物線を描き投げ上げられる火の玉が見られるのが花背(8/15)、小塩(8/20)、広河原(8/24)の松上げで、雲が畑(8/24)の松上げは、五山の送り火のようで、その年ごとの文字が山の二箇所で焚かれる。
これらのファンタジックな火の成す技を一度見てしまうと、病みつきになるのではないだろうか。
ここに記したものの殆どは、観光バスがこない、観光協会や観光寺院とは縁の少ない、京都人と共に息づいている京都である。
これらこそが素顔の京の夏である
5330-100831-8月
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