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織田信長(1534〜1582年)のことを知りたくて書きたくなった。
歴史上の超有名人なのだが、あまりにも知らなさ過ぎると思ったからである。
「信長といえば・・・?」と、関連用語を羅列し始めたが、安土城、種子島銃、本能寺の変などと学校の教科書で覚えた程度のままで、広がりも深まりも見られない始末である。
心の何処かで、反朝廷勢力とするものへのアレルギーというか、拒否反応が無意識の中に働いているのだろうか。信長に生き方として魅力を感じ、ファッションセンスもお気に入りの部類なのだが、関心を抱くことを避けてきたように思う。
大方の京都人もそのように窺えてならない。京都勢力に抹殺されたのだからと、後ろめたく気が咎めるDNAがあるのかもしれない。
あるいは、秀吉、家康の親方様として戦国乱世を招き、武将による天下統一の基礎をつくり、公家政治から武家政治への転換に止まることなく、朝廷の権威権力失墜の根源を産み、強いては京都の衰退を招いた武将、との深層心理が働いているのかもしれない。
阿弥陀寺や建勳神社に行く回数も少ないし、近くにある本能寺や本能寺跡も素通りしている。
京都には他に信長縁の所もあるが、じっくりと訪問することもなかった。
調べてみると、信長の墓所や廟所や供養塔など縁のある社寺は全国で21ヶ所あり(考証織田信長事典/東京堂出版)、内京都に9ヶ所、愛知に3ヶ所、滋賀に2ヶ所、福井、富山、岐阜、静岡、大阪、和歌山、熊本に各々1ヶ所である。
まずは信長父子の墓所阿弥陀寺と信長父子の菩提寺大雲院、信長の終焉の地本能寺は行かなくてはなるまい。
ところが、信長の墓所とされるところが二ケ所ある。一つは阿弥陀寺、もう一つが大徳寺総見院である。このほかにも、京都では信長乳母養徳院の菩提寺である妙心寺玉鳳院、信長の子で秀吉の養子となった秀勝が建立した亀岡の聖隣寺、滋賀の安土城址の総見寺にもあるという。
信長の遺骸は、本能寺の焼跡からは発見されていないといわれるが、阿弥陀寺の住職であった清玉(せいぎょく)上人は、天正十年(1582年)6月2日、本能寺の変を知るとすぐさま駆けつけ、信長の遺骨を持ち帰り埋葬したと伝えられている。
同日、妙覚寺にいた信忠は救援に本能寺に向かうが、父信長が自害したのを知ると、正親町(おおぎまち)天皇第五皇子誠仁(さねひと)親王を脱出させる為、すぐさま二条殿に向かう。
誠仁親王を脱出させると、信長と労苦をともにした上での潔い覚悟ができていたのか、明智光秀の追っ手の軍勢から逃げることを為さず、僅かな軍兵と篭城し善戦を見せたあと自害する。しかし、炎上した二条殿に信忠の首はなかったと。
おそらく、信忠の遺骸も清玉上人の手で埋葬されたことは容易に想像がつけられる。
その清玉上人の浄土宗蓮台山阿弥陀寺は、天文24年(1555年)、近江国坂本に玉誉清玉により創建された寺院で、その後信長の帰依を得て、上京区大宮今出川に寺領を請け移転していた。現在の阿弥陀寺は天正13年(1855年)に秀吉により移転を命じられたところで、翌年2月秀吉は聚楽第を着工している。
つまり、信長、信忠親子の遺骸は大宮今出川にあった阿弥陀寺に葬られていたことになる。
本堂には信長・信忠の木像があり、信長・信忠親子のほか本能寺でともに討ち死にした森蘭丸と坊丸、力丸の三兄弟や猪子兵助ら12名の家臣の名が刻まれた石碑が、現在の阿弥陀寺に運ばれていた。
訪れたときは、丁度、信長の墓地周辺の整備工事が行われており、家来や縁の者の墓碑が一部移動されていた。どんな風に整備されるかと待ち遠しい。
信長の後継者として世に認識されることを望んでいた秀吉は、本能寺の変の100日後の10月10日大徳寺で大葬礼を執り行い、信長の一周忌の法要に間に合うよう翌年、臨済宗大徳寺第117世古渓宗陳(こけいそうちん)を開祖に命じ、本尊を織田信長として、大徳寺塔頭総見院を建立させた。
墓所には信長とともに、帰蝶(濃姫)やお鍋の方、信長の子息、息女など多くの墓が並んでいると聞くが、拝観謝絶の寺院なので特別公開を待つほかない。
秀吉が信長の遺骨を引き渡すよう阿弥陀寺住職清玉上人に迫るシーンは、NHKドラマで夙に知られることになった。
秀吉「葬式ばするけん遺骨ば渡してくれ」と、頼む。
上人「葬儀は済んだ。」と、断る。
秀吉は法事料として300石の朱印を下付したが上人はこれを受けず、結局、三度まで上人が固辞したため、秀吉は木造信長坐像二体を作らせ一体を火葬し、もう一体を祀らせ、大徳寺に総見院の寺領を与え、一周忌法要を執り行ったのである。
一方、阿弥陀寺の寺領は大半を削られたという。
阿弥陀寺の信長らの墓所は世を忍ぶようなごく小さな墓で、天正10年と彫られた墓碑の文字を見るにつけ秀吉の豊国廟とは対照的である。
同じひとつの命にあって、時の権威権力を思い知らされる。
寺町今出川を後に洛東東山にある大雲院に向かうことにした。
大雲院は、円山公園の長楽館の門を右手に南へ、円山音楽堂の前を過ぎてねねの道に入る角にある。その周辺のどこからも見える目印となるのが祇園閣である。
まるで祇園祭の山鉾のような建物である。高さ36メートルの閣上の屋根の先には金鶴が鉾先のように付けられているので、直ぐに分かる。
非公開寺院なので、本堂や祇園閣にはいつでも入れるわけではないが、特別公開の時であれば檀家でなくとも拝観や墓参は許されている。
この大雲院は、天正15年(1587年)、正親町(おおぎまち)天皇の勅命により、貞安(じょうあん)上人が織田父子の菩提を弔うために、信忠の自害とともに炎上した二条殿跡(烏丸二条御池御所)に開山創建された寺院である。信忠公の法名に因み大雲院と号している。
その後天正18年(1590年)、秀吉の区画整備により寺町四条南に移り永らく伽藍を擁していたが、周辺の商業繁華街への変貌を期に、昭和48年(1973年)4月、本堂落成とともに現在地に移転した歴史を持つ。
祇園閣背後の墓所には織田父子を合祀する碑も移転され、追善供養されている。
その碑には、「総見院殿贈一品大相圀泰岩大居士」と「大雲院殿三品羽高岩大前条定門」と並んで刻まれていた。
阿弥陀寺に刻まれていた墓石の法名は判読し難く、供えられた塔婆の文字で、左にある「大雲院 」が 信忠、右が「総見院」の信長と分かった。
山科言経の日記『言経卿記』の天正10年9月7日の部分には、「阿弥陀寺にて(中略)、天徳院殿前の右府信長公・景徳院殿三位中将信忠など、来る十二日御百ケ日御追善なり」との記述があるらしく、大徳寺での信長本葬に際し法名の変更を余儀なくさせられた可能性が残る。判読しがたい墓碑の文字が殊更気になる。
龍池山大雲院のあった寺町四条南の貞安前之町には、往時より大雲院の鎮守社であった「火除天満宮」が、移転されず何故か今も残されている。
歴史には謎が多く、その隙間の物語を空想仮説して訪れるのが面白い。
正に、歴史ロマンとでもいうのか、信長を訪ねる町歩きは続く。
いみじくも、2011年のNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」の本格的な撮影が9月7日、京都最古の禅寺・建仁寺で始まったと報じられている。
歴史上の超有名人なのだが、あまりにも知らなさ過ぎると思ったからである。
「信長といえば・・・?」と、関連用語を羅列し始めたが、安土城、種子島銃、本能寺の変などと学校の教科書で覚えた程度のままで、広がりも深まりも見られない始末である。
心の何処かで、反朝廷勢力とするものへのアレルギーというか、拒否反応が無意識の中に働いているのだろうか。信長に生き方として魅力を感じ、ファッションセンスもお気に入りの部類なのだが、関心を抱くことを避けてきたように思う。
大方の京都人もそのように窺えてならない。京都勢力に抹殺されたのだからと、後ろめたく気が咎めるDNAがあるのかもしれない。
あるいは、秀吉、家康の親方様として戦国乱世を招き、武将による天下統一の基礎をつくり、公家政治から武家政治への転換に止まることなく、朝廷の権威権力失墜の根源を産み、強いては京都の衰退を招いた武将、との深層心理が働いているのかもしれない。
阿弥陀寺や建勳神社に行く回数も少ないし、近くにある本能寺や本能寺跡も素通りしている。
京都には他に信長縁の所もあるが、じっくりと訪問することもなかった。
調べてみると、信長の墓所や廟所や供養塔など縁のある社寺は全国で21ヶ所あり(考証織田信長事典/東京堂出版)、内京都に9ヶ所、愛知に3ヶ所、滋賀に2ヶ所、福井、富山、岐阜、静岡、大阪、和歌山、熊本に各々1ヶ所である。
まずは信長父子の墓所阿弥陀寺と信長父子の菩提寺大雲院、信長の終焉の地本能寺は行かなくてはなるまい。
ところが、信長の墓所とされるところが二ケ所ある。一つは阿弥陀寺、もう一つが大徳寺総見院である。このほかにも、京都では信長乳母養徳院の菩提寺である妙心寺玉鳳院、信長の子で秀吉の養子となった秀勝が建立した亀岡の聖隣寺、滋賀の安土城址の総見寺にもあるという。
信長の遺骸は、本能寺の焼跡からは発見されていないといわれるが、阿弥陀寺の住職であった清玉(せいぎょく)上人は、天正十年(1582年)6月2日、本能寺の変を知るとすぐさま駆けつけ、信長の遺骨を持ち帰り埋葬したと伝えられている。
同日、妙覚寺にいた信忠は救援に本能寺に向かうが、父信長が自害したのを知ると、正親町(おおぎまち)天皇第五皇子誠仁(さねひと)親王を脱出させる為、すぐさま二条殿に向かう。
誠仁親王を脱出させると、信長と労苦をともにした上での潔い覚悟ができていたのか、明智光秀の追っ手の軍勢から逃げることを為さず、僅かな軍兵と篭城し善戦を見せたあと自害する。しかし、炎上した二条殿に信忠の首はなかったと。
おそらく、信忠の遺骸も清玉上人の手で埋葬されたことは容易に想像がつけられる。
その清玉上人の浄土宗蓮台山阿弥陀寺は、天文24年(1555年)、近江国坂本に玉誉清玉により創建された寺院で、その後信長の帰依を得て、上京区大宮今出川に寺領を請け移転していた。現在の阿弥陀寺は天正13年(1855年)に秀吉により移転を命じられたところで、翌年2月秀吉は聚楽第を着工している。
つまり、信長、信忠親子の遺骸は大宮今出川にあった阿弥陀寺に葬られていたことになる。
本堂には信長・信忠の木像があり、信長・信忠親子のほか本能寺でともに討ち死にした森蘭丸と坊丸、力丸の三兄弟や猪子兵助ら12名の家臣の名が刻まれた石碑が、現在の阿弥陀寺に運ばれていた。
訪れたときは、丁度、信長の墓地周辺の整備工事が行われており、家来や縁の者の墓碑が一部移動されていた。どんな風に整備されるかと待ち遠しい。
信長の後継者として世に認識されることを望んでいた秀吉は、本能寺の変の100日後の10月10日大徳寺で大葬礼を執り行い、信長の一周忌の法要に間に合うよう翌年、臨済宗大徳寺第117世古渓宗陳(こけいそうちん)を開祖に命じ、本尊を織田信長として、大徳寺塔頭総見院を建立させた。
墓所には信長とともに、帰蝶(濃姫)やお鍋の方、信長の子息、息女など多くの墓が並んでいると聞くが、拝観謝絶の寺院なので特別公開を待つほかない。
秀吉が信長の遺骨を引き渡すよう阿弥陀寺住職清玉上人に迫るシーンは、NHKドラマで夙に知られることになった。
秀吉「葬式ばするけん遺骨ば渡してくれ」と、頼む。
上人「葬儀は済んだ。」と、断る。
秀吉は法事料として300石の朱印を下付したが上人はこれを受けず、結局、三度まで上人が固辞したため、秀吉は木造信長坐像二体を作らせ一体を火葬し、もう一体を祀らせ、大徳寺に総見院の寺領を与え、一周忌法要を執り行ったのである。
一方、阿弥陀寺の寺領は大半を削られたという。
阿弥陀寺の信長らの墓所は世を忍ぶようなごく小さな墓で、天正10年と彫られた墓碑の文字を見るにつけ秀吉の豊国廟とは対照的である。
同じひとつの命にあって、時の権威権力を思い知らされる。
寺町今出川を後に洛東東山にある大雲院に向かうことにした。
大雲院は、円山公園の長楽館の門を右手に南へ、円山音楽堂の前を過ぎてねねの道に入る角にある。その周辺のどこからも見える目印となるのが祇園閣である。
まるで祇園祭の山鉾のような建物である。高さ36メートルの閣上の屋根の先には金鶴が鉾先のように付けられているので、直ぐに分かる。
非公開寺院なので、本堂や祇園閣にはいつでも入れるわけではないが、特別公開の時であれば檀家でなくとも拝観や墓参は許されている。
この大雲院は、天正15年(1587年)、正親町(おおぎまち)天皇の勅命により、貞安(じょうあん)上人が織田父子の菩提を弔うために、信忠の自害とともに炎上した二条殿跡(烏丸二条御池御所)に開山創建された寺院である。信忠公の法名に因み大雲院と号している。
その後天正18年(1590年)、秀吉の区画整備により寺町四条南に移り永らく伽藍を擁していたが、周辺の商業繁華街への変貌を期に、昭和48年(1973年)4月、本堂落成とともに現在地に移転した歴史を持つ。
祇園閣背後の墓所には織田父子を合祀する碑も移転され、追善供養されている。
その碑には、「総見院殿贈一品大相圀泰岩大居士」と「大雲院殿三品羽高岩大前条定門」と並んで刻まれていた。
阿弥陀寺に刻まれていた墓石の法名は判読し難く、供えられた塔婆の文字で、左にある「大雲院 」が 信忠、右が「総見院」の信長と分かった。
山科言経の日記『言経卿記』の天正10年9月7日の部分には、「阿弥陀寺にて(中略)、天徳院殿前の右府信長公・景徳院殿三位中将信忠など、来る十二日御百ケ日御追善なり」との記述があるらしく、大徳寺での信長本葬に際し法名の変更を余儀なくさせられた可能性が残る。判読しがたい墓碑の文字が殊更気になる。
龍池山大雲院のあった寺町四条南の貞安前之町には、往時より大雲院の鎮守社であった「火除天満宮」が、移転されず何故か今も残されている。
歴史には謎が多く、その隙間の物語を空想仮説して訪れるのが面白い。
正に、歴史ロマンとでもいうのか、信長を訪ねる町歩きは続く。
いみじくも、2011年のNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」の本格的な撮影が9月7日、京都最古の禅寺・建仁寺で始まったと報じられている。
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