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織田信長が、足利義昭を室町幕府第15代将軍に就任させるため、初めて上洛したのが永禄11年(1568年)10月18日(旧暦9月26日)。
時に信長35歳、尾張国美濃国を制し、天下統一の実現へと踏み出した時である。
これに因み、戦国の世を終わらそうとした織田信長の上洛を祝い、毎年10月19日に船岡祭が執り行われている。
船岡祭は舟岡山の中腹にある建勲神社(たていさお/通称けんくん)の祭礼で、この社の祭神は織田信長と信忠である。どうしたことか、本能寺の変後三百有余年の歳月を経た明治2年、明治天皇が「建勲大神」の神号を与え、創建されたのである。
戦国の三傑で天下人となり、信長の家臣であった豊臣秀吉や徳川家康は、没後間もなくに「豊国大明神」、「東照大権現」の神号を既に与えられていた。
秀吉の世になって、信長が神号を得ることに不可能はなかった筈なのに、それが成りえなかった謎は、明智光秀の謀反である本能寺の変の首謀者に、秀吉説や朝廷説を産むというものである。
それとも、信長は生前より天皇から神号を得るなど拒絶し自らが神となると、あるいは、信仰の秩序を保ちながらも、内心は神仏など馬鹿げたことと言い放っていたのであろうか。神前に立てど信長の御霊は何一つ教えてくれない。
船岡祭には神輿渡御も装束行列もなく、露天商の屋台の賑わいもない。華美に陥ることなく厳粛に神事と奉納が執り行われている。
その奉納は信長公が舞われた仕舞「敦盛」と「胡蝶の舞」の舞楽などである。
昨年(2009年)は創建周年事業の修復も終え、信長公ゆかりの宝物など垂涎(すいぜん)の文化財が特別公開され、鉄砲隊(古式炮術流儀保存会)による長篠合戦の信長軍三段撃ちの実演奉納がある年であった。
その宝物とは明治天皇から創建時に寄進された織田信長公所用伝重要文化財「紺糸威胴丸」や、信長の側近・太田牛一が記した信長の上洛から本能寺の変までの15年間の軍記「信長公記(しんちょうこうき/全十五巻)」、そして、「宗三左文字(そうざさもんじ)の刀」などである。
どれもこれも興味をそそられるものばかりなのだが、特に「宗三左文字の刀」のことは戦国歴史ファンにしか知られていない特別なものである。
一言で言えば、信長が自らの魂とまでにもしていた名刀で、歴代受け継がれてきた「天下人の刀」なのだ。
そもそも宗三左文字とは、一時近畿八ヶ国を掌握し中央政権をなしていた三好長慶の叔父にあたる三好宗三が所持していた刀で、筑前博多の刀工左文字により打たれたものであった。
その名刀は、三好が甲斐の武田との友好を保つ為、武田信玄の父信虎に譲り渡され所持されていたが、信虎が駿河の今川義元に娘を嫁がせる際に、婿引き出として贈られていた。
その刀が信長の手に渡るのは、1560年桶狭間の合戦での勝利のときであった。
今川義元を打ち破り差し出された義元の歯黒首は即刻今川勢に返し、義元の愛刀「義元左文字」を信長は我がものにした。
この時から、天下取りの野望に燃える信長の歴史が始まったといえる。
義元左文字を手にしたとき、信長は武士の誉れを大層感じていたに違いない。
2尺6寸あった刀身を2尺2寸1分までに刃先を磨き上げさせ、銘の表には「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」と、裏には「織田尾張守信長」と中子に刻ませ、金象眼を入れたうえ、終生自らの愛刀としたという。
ここで「信長左文字」として生まれ変わったのである。
その後1582年、本能寺の変で信長が横死すると、その刀は秀吉の手に渡り豊臣秀吉の愛刀となり、秀吉が亡くなると秀頼が所持し、更に豊臣家滅亡とともに秀頼から徳川家康に渡った。
以降、左文字は徳川将軍の愛刀として代々受け継がれてきている。
因みに、徳川4代将軍家綱の時、明暦の大火があり「信長左文字」は一度瓦礫に埋もれたことがあった。
ところが、躍起になって幕府はそれを探し出し、改めて再刃し磨きあげ、天下取りの宝物として大切にされてきた経緯がある。
信長か宗三左文字にいかように執着し武士の魂としていたか。それに適う名刀であり、その由緒や歴史を持つものかを、信長亡き後誰よりも知っていたのは、秀吉や家康などの家臣たちであった筈である。
戦国の世を共に戦い、共に生き抜き、共に天下を統一してきたというに相応しい逸品であることに間違いない。それが代々の天下人に語り継がれていたのであろう。
更に、左文字に勝る愛刀を新たに打たすことはいとも容易い事かもしれないが、この信長(宗三)左文字にとり憑かれたがごとく、真の天下人の証と化していたのである。
明治維新により、信長(宗三)左文字は徳川慶喜より明治天皇の手に委ねられた。
そして、天下布武の魂とも言うべき「信長(宗三)左文字」は、舟岡山に安らかに祀られる運びとなったのである。
この地は古来より多くの書に取り上げられているが、、平安遷都に際して、桓武天皇が四神相応の北の守護神玄武を象徴する山として見立てられ、この舟岡山を基準に、禁裏と朱雀大路を造られた。
疫病が都に蔓延した折には紫野御霊会が盛んに行われたところであり、その後応仁の乱では西軍の陣が造られたことから、船岡山東南部一帯は西陣と呼ばれ現在の地名として残っている。
また、大文字の送り火を見渡せる場所として広く知られるところでもある。
秀吉はその舟岡山に、主君信長の霊を弔う廟を建立することを朝廷に働きかけ、正親町(おおぎまち)天皇の勅許を得、「天正寺」の寺名を賜わり着工させたが、天下を取るや秀吉にその必要がなくなり、竣工半ばで中止されていた。
以来、舟岡山は、信長の霊地として山全体が保護され明治維新を迎えることとなっていたところである。
等閑にされていた織田信長の国家に対する功績をあらためて称え、信長の霊の加護により西洋列強に立ち向かうべく、正親町天皇の勅許を形にされたのは、王政復古を得た明治天皇であった。
天正6年(1578年)正二位右大臣、右近衛大将を兼任していた信長は、同年4月に辞任したまま天下統一にひた走り、本能寺の変後、信長の意思に寄らずして従一位太政大臣を贈位贈官されていた。
時を経て明治2年、明治天皇より勅許の履行ともいうべき廟の創建がされるが、天正寺から建勲神社へと様変わりしたため、神号「建勲」を与えられることになったのである。
然しながら、正一位が贈位されたのは大正6年(1917年)のことである。
歴史の悪戯とはこんなことであろう。
信長は全武家の親方様であって、国家の行く末を見通し、平等に民の幸福という大局を熟知していた人間で、ひたすら激しく熱く走ったと、小生は感じている。
建勲神社の資料にはこう記されていた。
【御祭神 織田信長公】
織田信長公は戦国の世を統一して民衆を疲弊絶望から救い、伝統文化に躍動の美を与え、西洋を動かす力の源を追求して近代の黎明へと導かれた。その為、信長公は行き詰った旧来の政治、社会秩序、腐敗した宗教等を果敢に打破し、日本国民全体の日本を追求された。
明治天皇より特に建勲の神号を賜い、別格官幣社に列せられ、ここ船岡山に大生の神として奉斎されている。
時に信長35歳、尾張国美濃国を制し、天下統一の実現へと踏み出した時である。
これに因み、戦国の世を終わらそうとした織田信長の上洛を祝い、毎年10月19日に船岡祭が執り行われている。
船岡祭は舟岡山の中腹にある建勲神社(たていさお/通称けんくん)の祭礼で、この社の祭神は織田信長と信忠である。どうしたことか、本能寺の変後三百有余年の歳月を経た明治2年、明治天皇が「建勲大神」の神号を与え、創建されたのである。
戦国の三傑で天下人となり、信長の家臣であった豊臣秀吉や徳川家康は、没後間もなくに「豊国大明神」、「東照大権現」の神号を既に与えられていた。
秀吉の世になって、信長が神号を得ることに不可能はなかった筈なのに、それが成りえなかった謎は、明智光秀の謀反である本能寺の変の首謀者に、秀吉説や朝廷説を産むというものである。
それとも、信長は生前より天皇から神号を得るなど拒絶し自らが神となると、あるいは、信仰の秩序を保ちながらも、内心は神仏など馬鹿げたことと言い放っていたのであろうか。神前に立てど信長の御霊は何一つ教えてくれない。
船岡祭には神輿渡御も装束行列もなく、露天商の屋台の賑わいもない。華美に陥ることなく厳粛に神事と奉納が執り行われている。
その奉納は信長公が舞われた仕舞「敦盛」と「胡蝶の舞」の舞楽などである。
昨年(2009年)は創建周年事業の修復も終え、信長公ゆかりの宝物など垂涎(すいぜん)の文化財が特別公開され、鉄砲隊(古式炮術流儀保存会)による長篠合戦の信長軍三段撃ちの実演奉納がある年であった。
その宝物とは明治天皇から創建時に寄進された織田信長公所用伝重要文化財「紺糸威胴丸」や、信長の側近・太田牛一が記した信長の上洛から本能寺の変までの15年間の軍記「信長公記(しんちょうこうき/全十五巻)」、そして、「宗三左文字(そうざさもんじ)の刀」などである。
どれもこれも興味をそそられるものばかりなのだが、特に「宗三左文字の刀」のことは戦国歴史ファンにしか知られていない特別なものである。
一言で言えば、信長が自らの魂とまでにもしていた名刀で、歴代受け継がれてきた「天下人の刀」なのだ。
そもそも宗三左文字とは、一時近畿八ヶ国を掌握し中央政権をなしていた三好長慶の叔父にあたる三好宗三が所持していた刀で、筑前博多の刀工左文字により打たれたものであった。
その名刀は、三好が甲斐の武田との友好を保つ為、武田信玄の父信虎に譲り渡され所持されていたが、信虎が駿河の今川義元に娘を嫁がせる際に、婿引き出として贈られていた。
その刀が信長の手に渡るのは、1560年桶狭間の合戦での勝利のときであった。
今川義元を打ち破り差し出された義元の歯黒首は即刻今川勢に返し、義元の愛刀「義元左文字」を信長は我がものにした。
この時から、天下取りの野望に燃える信長の歴史が始まったといえる。
義元左文字を手にしたとき、信長は武士の誉れを大層感じていたに違いない。
2尺6寸あった刀身を2尺2寸1分までに刃先を磨き上げさせ、銘の表には「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」と、裏には「織田尾張守信長」と中子に刻ませ、金象眼を入れたうえ、終生自らの愛刀としたという。
ここで「信長左文字」として生まれ変わったのである。
その後1582年、本能寺の変で信長が横死すると、その刀は秀吉の手に渡り豊臣秀吉の愛刀となり、秀吉が亡くなると秀頼が所持し、更に豊臣家滅亡とともに秀頼から徳川家康に渡った。
以降、左文字は徳川将軍の愛刀として代々受け継がれてきている。
因みに、徳川4代将軍家綱の時、明暦の大火があり「信長左文字」は一度瓦礫に埋もれたことがあった。
ところが、躍起になって幕府はそれを探し出し、改めて再刃し磨きあげ、天下取りの宝物として大切にされてきた経緯がある。
信長か宗三左文字にいかように執着し武士の魂としていたか。それに適う名刀であり、その由緒や歴史を持つものかを、信長亡き後誰よりも知っていたのは、秀吉や家康などの家臣たちであった筈である。
戦国の世を共に戦い、共に生き抜き、共に天下を統一してきたというに相応しい逸品であることに間違いない。それが代々の天下人に語り継がれていたのであろう。
更に、左文字に勝る愛刀を新たに打たすことはいとも容易い事かもしれないが、この信長(宗三)左文字にとり憑かれたがごとく、真の天下人の証と化していたのである。
明治維新により、信長(宗三)左文字は徳川慶喜より明治天皇の手に委ねられた。
そして、天下布武の魂とも言うべき「信長(宗三)左文字」は、舟岡山に安らかに祀られる運びとなったのである。
この地は古来より多くの書に取り上げられているが、、平安遷都に際して、桓武天皇が四神相応の北の守護神玄武を象徴する山として見立てられ、この舟岡山を基準に、禁裏と朱雀大路を造られた。
疫病が都に蔓延した折には紫野御霊会が盛んに行われたところであり、その後応仁の乱では西軍の陣が造られたことから、船岡山東南部一帯は西陣と呼ばれ現在の地名として残っている。
また、大文字の送り火を見渡せる場所として広く知られるところでもある。
秀吉はその舟岡山に、主君信長の霊を弔う廟を建立することを朝廷に働きかけ、正親町(おおぎまち)天皇の勅許を得、「天正寺」の寺名を賜わり着工させたが、天下を取るや秀吉にその必要がなくなり、竣工半ばで中止されていた。
以来、舟岡山は、信長の霊地として山全体が保護され明治維新を迎えることとなっていたところである。
等閑にされていた織田信長の国家に対する功績をあらためて称え、信長の霊の加護により西洋列強に立ち向かうべく、正親町天皇の勅許を形にされたのは、王政復古を得た明治天皇であった。
天正6年(1578年)正二位右大臣、右近衛大将を兼任していた信長は、同年4月に辞任したまま天下統一にひた走り、本能寺の変後、信長の意思に寄らずして従一位太政大臣を贈位贈官されていた。
時を経て明治2年、明治天皇より勅許の履行ともいうべき廟の創建がされるが、天正寺から建勲神社へと様変わりしたため、神号「建勲」を与えられることになったのである。
然しながら、正一位が贈位されたのは大正6年(1917年)のことである。
歴史の悪戯とはこんなことであろう。
信長は全武家の親方様であって、国家の行く末を見通し、平等に民の幸福という大局を熟知していた人間で、ひたすら激しく熱く走ったと、小生は感じている。
建勲神社の資料にはこう記されていた。
【御祭神 織田信長公】
織田信長公は戦国の世を統一して民衆を疲弊絶望から救い、伝統文化に躍動の美を与え、西洋を動かす力の源を追求して近代の黎明へと導かれた。その為、信長公は行き詰った旧来の政治、社会秩序、腐敗した宗教等を果敢に打破し、日本国民全体の日本を追求された。
明治天皇より特に建勲の神号を賜い、別格官幣社に列せられ、ここ船岡山に大生の神として奉斎されている。
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